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夜想のジャズ喫茶〜『Track 5:僕を忘れた父へ』

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Track 5「僕を忘れた父へ」

♪ Chet Baker - I Remember You (1955)

6月中旬の金曜日、午後6時45分。

仕事を早めに切り上げて、田中誠は介護施設の自動ドアをくぐった。面会時間は8時まで。海外営業部は残業が当たり前の部署だが、上司は理解してくれている。

「田中、今日も父親のところか」

「すみません、課長」

「謝るな。行ってこい」

外の湿った空気から、空調の効いた廊下へ。壁には季節の花、紫陽花が活けられている。どこかの部屋から、懐かしい歌謡曲が小さく聞こえてきた。

ここは病院じゃない。父たちが暮らす場所だ。

201号室。父の部屋の前で、誠は深呼吸をした。ノックをして、ドアを開ける。

「こんばんは、お父さん」

ベッドで新聞を読んでいた父が顔を上げた。68歳。かつては地域でも名の知れた営業マンだった田中康夫。今は、優しい笑顔を浮かべている。

「ああ、部長! 今日も来てくれたんですか」

胸が、ぎゅっと締め付けられる。

「はい、約束でしたから」

誠は努めて明るく答えた。父は誠を、会社の上司だと思い込んでいる。先週は「同僚の山田君」だった。その前は「保険屋さん」。でも最近は「部長」と呼ばれることが多い。3ヶ月前から、息子の顔は認識できなくなった。

「部長は本当に律儀ですね。わざわざ来てくださって、申し訳ない」

今日は部長か、と誠は心の中で確認する。父は誠を見る度に違う人だと思うが、なぜか「いい人」だということは一貫している。そして、最近は「部長」と呼ぶことが増えた。

父は新聞を畳んで、ベッドサイドの椅子を勧めてくれる。その仕草は昔と変わらない。ただ、息子を他人と認識しているだけで。

他愛もない話をした。天気のこと、施設の食事のこと、最近読んだ本のこと。父は「部長」に対して、とても礼儀正しく、そして親しみを込めて話す。

持参した父の好物の羊羹を一緒に食べた。お茶を淹れてくれる父の手つきは、昔と変わらない。ただ、カップを息子に渡す時、「部長、熱いから気をつけて」と言うのが切ない。

「そういえば、うちの息子知りませんか?」

突然の質問に、誠の手が止まった。

「誠っていうんですが。もう35にもなるのに、最近顔を見せなくて」

目の前にいるのに。今、話しているのに。

「きっと、忙しいんでしょうね」

誠は、なんとかそれだけ言った。

「そうですかね。でも、たまには顔くらい見せてほしいもんです」

父の寂しそうな顔。誠は、もう何も言えなかった。

部屋を出る時、父は言った。

「部長、来週も来てくれますか?」

「もちろんです」

「ありがとうございます。部長と話していると、なんだか息子と話しているみたいで」

廊下に出て、誠はしばらく動けなかった。父の無意識は、きっと分かっているのだ。この「部長」が大切な人だということを。

エレベーターに向かう途中、看護師とすれ違った。

「田中さん、今日もありがとうございました」

彼女の目には同情が浮かんでいる。

「お父様、『息子はまだか』って何度も...」

知っている。みんな知っている。目の前にいるのが息子だということを。父以外は。

誠は、小さく頷いて、足早に施設を出た。


午後7時50分。自動ドアが開くと、本格的な梅雨の雨が降っていた。

約1時間の面会。いつもより長く感じた。父と「部長」の会話は、どこまでも平行線だった。

施設の軒下で、誠は立ち止まった。いつもならそのまま駅へ向かう。傘は持っていない。天気予報では曇りのはずだった。

でも今は、雨に濡れてもいい気分だった。

「俺がいる意味、あるのかな」

独り言が、雨音に消えていく。

父は「息子」の存在を覚えている。誠という名前も覚えている。ただ、目の前の人間が息子だということが、繋がらないだけ。まるで、別々の引き出しに入った記憶が、もう交わることがないみたいに。

誠は、雨の中を歩き始めた。駅とは反対の方向へ、なぜか足が向いた。

スーツが濡れていく。今朝アイロンをかけたワイシャツも、営業用の革靴も、みんなずぶ濡れだ。子供の頃なら、母に叱られただろう。

「誠! 何してるの、風邪ひくでしょ!」

母の声が聞こえた気がして、振り返る。でも、そこには誰もいない。母は5年前に、心筋梗塞で急逝した。あまりにも突然で、父も誠も、現実を受け入れるのに時間がかかった。

それから父は、急速に老いた。

定年退職していた父は、生活の張りを失った。話し相手だった母がいなくなり、趣味の囲碁も「相手がいないから」とやめてしまった。

「お母さんがいれば、違ったのかもしれない」

雨は、容赦なく降り続ける。6月の雨。紫陽花が喜ぶ雨。でも、誠の心は晴れない。

歩きながら、子供の頃を思い出していた。

「誠、お父さんみたいになりたいか?」

小学生の頃、父が営業から帰ってくると、よくそう聞かれた。

「うん! お父さんみたいに、かっこいい営業マンになる!」

父は照れくさそうに笑って、誠の頭を撫でた。大きな手だった。

「営業はな、人と人との繋がりが大切なんだ」

「どんなに時代が変わっても、最後は人間同士の信頼だ」

父の教えを守って、誠も商社マンになった。海外営業部で、父とは違う舞台だけど、同じように人と向き合う仕事をしている。

でも今、一番大切な人との繋がりが、切れてしまった。

信号待ちで立ち止まる。赤信号がにじんで見える。涙なのか、雨なのか、もうわからない。

「父さん、俺だよ。誠だよ」

声に出してみる。でも、父にはもう届かない。


午後8時20分頃。施設を出てから30分ほど歩いただろうか。

気がつくと、住宅街の裏通りに入り込んでいた。見慣れない路地。古い商店街の名残りか、シャッターの閉まった店が続く。

雨は激しさを増している。街灯の光が雨に反射して、幻想的な世界を作り出していた。もうすっかり道に迷っている。駅とは反対方向に来てしまったらしい。

「帰らなきゃ」

理性は告げている。でも、足は動かない。家に帰っても、誰もいない。独身の一人暮らし。母が生きていた頃は「たまには実家に顔を見せなさい」と言われても、仕事を理由に月に一度も帰らなかった。

「忙しいから」「また今度」

その「今度」は、もう来ない。父と母と三人で食卓を囲む時間。何気ない会話。母の作る肉じゃが。全部、当たり前だと思っていた。

ふと、視線の先に光が見えた。

紫陽花のような青紫の光。雨に濡れて、滲んだように揺れている。

近づいてみると、小さな看板だった。古いビルの一階、他の店はとっくに閉まっている中で、そこだけが灯りを灯している。

「夜想」

控えめな文字が、青紫の光の中に浮かんでいる。

喫茶店だろうか。こんな時間に、こんな場所で。

でも、なぜかその光に惹かれた。紫陽花——梅雨の花。雨がなければ美しく咲かない花。

重そうな木製のドア。真鍮のドアノブが、濡れた街灯の光を受けてぼんやりと光っている。

誠は一瞬躊躇した。びしょ濡れの姿で、見知らぬ店に入る。普段の自分なら、絶対にしない行動。

でも今夜は、普段じゃない。

父に認識されない息子。「部長」と呼ばれる他人。そんな存在に、普段もへったくれもない。

ドアノブに手をかける。ひんやりとした真鍮の感触が、濡れた掌に心地よい。

回すと、思いのほか滑らかに動いた。

カランと、小さな鈴の音がした。

その音が、現実と非現実の境界を告げる合図のように、誠の耳に響いた。


ドアを開けた瞬間、外の雨音が不思議なほど遠くなった。

店内は青紫の柔らかな光に包まれている。看板と同じ色。紫陽花の花びらを透かして見る光のような、優しくて少し寂しい色合い。

壁一面に並ぶレコード。年代物のスピーカーから、かすかにベースの低音が響いている。奥の壁際にはアップライトピアノ。その上に、小さな札が立てられていた。

「Now Playing: Track 5 - ♪ (0:00)」

まだ始まっていない。これから何かが始まることを予感させる表示。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、落ち着いた女性の声がした。振り返ると、50代くらいの女性が静かに立っている。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、白いブラウスに紺のエプロン。その佇まいには、言葉にできない品格があった。

胸元で、小さな三日月のブローチが光っている。今夜は紫陽花のような青紫色。まるで店の照明と呼応するように、静かに輝いていた。

「びしょ濡れですね」

マスターが近づいてきた。手には厚手のタオル。まるで雨の日の来客を待っていたかのように、温かいタオルだった。

「すみません、お店を汚してしまって」

誠は慌てて謝った。スーツから滴る雨水が、床に小さな水たまりを作っている。

「いいえ。雨の日は、そういうお客様が多いんです」

マスターはそう言って、優しく微笑んだ。

タオルで髪を拭きながら、誠は店内を見回した。客は自分一人。静かで、でもどこか生きている空間。レコードのジャケットが作り出す壁の模様が、まるで記憶の層のように見える。

「お席は、お好きなところへ」

促されて、誠は窓際の革張りのソファを選んだ。深く腰を下ろすと、長年使い込まれた革が優しく体を受け止める。濡れたスーツが革に触れることを申し訳なく思ったが、マスターは気にする素振りも見せない。

「何になさいますか?」

「ブレンドコーヒーを、お願いします」

「かしこまりました」

マスターはゆったりとした動作でカウンターに戻る。そして、豆を挽き始めた。

ゴリッ、ゴリッ。

その音が、雨音と不思議な和音を作り出す。まるで自然が奏でる音楽のように、規則的でありながら有機的。誠は目を閉じて、その音に身を委ねた。

コーヒーの香りが漂ってくる。深煎りの、濃厚な香り。でもどこか優しい。実家で母が淹れてくれたコーヒーを思い出すような、懐かしい香り。

「お待たせしました」

目を開けると、テーブルに陶器のカップが置かれていた。立ち上る湯気が、青紫の光を受けて幻想的に輝いている。

「ありがとうございます」

一口含むと、思っていたより優しい味だった。苦味はあるが、その奥にほのかな甘み。そして、雨の日特有の清涼感のような後味。

「6月の雨は、特別ですね」

マスターが、カウンターから静かに言った。手には布巾を持ち、グラスを磨いている。その動作は瞑想的で、まるで時間がゆっくり流れているように見える。

「紫陽花が喜ぶ雨。新しい命を育む雨。でも人の心には、時に重く感じられる雨」

その言葉に、誠は顔を上げた。

「まるで、僕の心を見透かしているみたいですね」

「雨の日に、傘も差さずに歩く方には、それぞれの事情があるものです」

マスターの声には、責めるような響きは一切なかった。ただ、深い理解と共感があるだけ。

誠は、濡れた髪をかき上げた。まだ雫が落ちる。それを見て、ふと思う。父も、記憶という傘を失って、人生の雨に打たれているのかもしれない。


「実は...」

誠は、カップを両手で包みながら口を開いた。なぜか、この空間では素直になれる気がした。

「父が、認知症なんです」

マスターの手が、一瞬止まった。でも、すぐにまた動き始める。誠の言葉を、静かに待っているかのように。

「まだ68歳。春先までは普通に話せたのに、今はもう...僕のことが分からない」

声が震えた。この深い部分まで他人に話すのは初めてだった。職場では『父の介護』とだけ伝えていた。

「お父様は、あなたのことを?」

マスターが静かに尋ねる。

「会社の上司だと思っています。特に『部長』って呼ばれることが多くて」

誠は苦笑を浮かべた。

「先週は同僚、その前は近所の人。でも最近は『部長』が多い。優しい部長らしいんです、僕は」

「毎週、通われているんですね」

「はい。でも...」

誠は言葉を探した。胸の奥にある、もやもやとした感情を、どう表現すればいいのか。

「さっき、看護師さんに会ったんです。『お父様、息子さんを待ってました』って」

涙が、頬を伝った。もう止められない。

「待ってたんです、息子を。でも、目の前にいる僕が息子だって分からない。『今日は来なかったな』って、僕に向かって言うんです」

マスターは、白いハンカチをそっと差し出した。ラベンダーの優しい香りがする。

「ありがとうございます」

ハンカチで涙を拭きながら、誠は続けた。

「どんなに思いを伝えても、届かない。どんなに会いに行っても、息子として見てもらえない」

声が震える。

「恋愛で言えば、完全な片思いです。いや、それ以上かもしれない。相手に自分の存在すら認識されない愛...」

誠は、自分の言葉に驚いた。愛。そう、これは愛なのだ。

「報われない愛、ですね」

その言葉が、ようやく出てきた。

「どんなに会いに行っても、どんなに話しかけても、息子として認識されない。まるで、透明人間になったみたいです」

マスターは、カウンターから出てきて、誠の向かいの席に腰を下ろした。その動作は自然で、まるで古い友人のように。

誠は続けた。

「でも、行くんです。毎週金曜日」

「なぜでしょう?」

マスターの問いかけは、詰問ではなかった。純粋な好奇心と、深い共感に満ちている。

「分かりません。ただ...」

誠は天井を見上げた。

「行かないと、本当に息子じゃなくなってしまう気がして」

「父の中で僕は見えなくなりました。でも、僕にとって父は変わらず父です。その証明のために、行っているのかもしれません」

「証明...」

マスターが静かに繰り返す。

「そうです。誰も見ていなくても、父が覚えていなくても、僕たちが親子だっていう証明」

コーヒーが少し冷めてきた。でも、その温度が今の誠にはちょうどいい。

「『部長』でもいいんです」

誠は、新しい気づきを言葉にした。

「父が僕を受け入れてくれるなら。優しい部長だと思ってくれるなら。それも、一つの関係ですよね」

「今日は部長、明日は違う人。でも、父と一緒にいられるなら」

「でも、時々思うんです」

声が小さくなる。

「僕が覚えていることに、意味はあるのかって。父が忘れてしまったら、その思い出は半分死んだようなものじゃないかって」

マスターは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開く。

「半分死んだのではありません。あなたの中で、より鮮明に生きているのです」

「お父様が忘れても、あなたが覚えている限り、その記憶は生きています。お父様が保てなくなった分まで、あなたが大切に守っている。それは、とても尊い愛の形だと思います」

その言葉に、誠の目からまた涙が溢れた。でも、今度は温かい涙だった。


雨音を聞きながら、誠の記憶は過去へと遡っていく。

小学3年生の運動会。

「誠、頑張れ!」

父の大きな声が、グラウンドに響いた。営業の仕事を抜けて、背広姿のまま応援に来てくれた。リレーで転んでしまった誠を、父は抱きしめてくれた。

「順位なんてどうでもいい。最後まで走ったお前は、お父さんの誇りだ」

汗の匂いと、ほのかな煙草の匂い。父の大きな手が、頭を撫でてくれた感触。今でも覚えている。

中学生の時。

反抗期真っ盛りで、父とほとんど口を利かなかった。でも、高校受験の前日、父は黙って机の上に手紙を置いていった。

『誠へ。お前なら大丈夫。お父さんは信じている』

たった二行。でも、その手紙を握りしめて受験会場に向かった。合格発表の日、父は何も言わずに、ただ肩を叩いてくれた。

大学時代。

「営業の仕事をしたい」

そう告げた時、父の顔が輝いた。

「そうか、お前も営業か」

それから父は、仕事の話をよくしてくれるようになった。

「営業はな、商品を売るんじゃない。信頼を売るんだ」

「相手の立場に立って考える。それが一番大切」

「約束は必ず守る。小さな約束でも」

父の教えは、今の誠の仕事の基礎になっている。

そして、多摩川での釣り。

「魚釣りは、待つことを教えてくれる」

父は、じっと浮きを見つめながら言った。

「人生も同じだ。焦っても、いいことはない」

あの頃は、そんな父が少しもどかしかった。もっとガツガツしてもいいのに、と思っていた。でも今なら分かる。父は父なりの哲学を持っていたのだ。

母が亡くなった日。

病院の廊下で、父は初めて誠の前で泣いた。

「母さんに、申し訳ない」

震える背中を、誠はただ見ていることしかできなかった。あの日から、父の中で何かが壊れ始めたのかもしれない。

最初の異変。

「あれ、今日は何曜日だっけ」

「さっき言ったでしょ、火曜日だよ」

「そうか、火曜日か」

些細なことだった。年齢のせいだと思った。でも、それは始まりに過ぎなかった。

母の仏壇の前で。

「母さん、今日は誠が来てるぞ」

そう言って、振り返った父の目に、一瞬、誠を認識していない空白があった。すぐに「ああ、誠か」と言い直したけれど、あの空白の一瞬が、誠の心に突き刺さった。

そして、息子と分からなくなった日。

「おはよう、お父さん」

いつものように声をかけた誠に、父は戸惑った顔を向けた。

「失礼ですが、どちら様でしょう?」

その瞬間、誠の中で何かが音を立てて崩れた。

「俺だよ、息子の誠だろ」

「息子? いや、うちの誠はまだ子供だ。小学生のはずだ」

父の中で、時間が止まっていた。あるいは、巻き戻っていた。

「そうですね。じゃあ、私は...お父さんの会社の部下です」

苦し紛れの嘘。でも父は安心したように頷いた。

「ああ、そうか。営業部の?」

「はい」

それ以来、誠は父にとって日替わりの訪問者になった。ある日は「部長」、ある日は「保険屋さん」、時には「息子の友達」。でも、なぜか「部長」と呼ばれる日が一番多かった。


マスターは何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。誠の話を聞き終えて、すでに心は決まっているような、静かな確信を持った動き。

レコードの前で、マスターはしばらく佇んでいた。そして、迷いなく一枚を選び取る。

白黒のコラージュ写真のジャケット。若きChet Bakerの顔があちこちに散りばめられ、まるで記憶の断片を集めたよう。手書き風の文字で「sings and plays」。

「写真の破片みたいですね」

誠がつぶやく。

「ええ、記憶も、こんな風かもしれません。断片的で、でも確かにそこにある」

マスターはジャケットを誠に見せながら続けた。

「I Remember You...1955年の録音です」

「この曲、ご存知ですか?」

誠は首を横に振る。

「元々は恋の歌ですが...」

マスターは慎重にレコードを取り出す。

「聴く人によって、違う意味を持つ曲です」

レコードをターンテーブルに載せながら、マスターは続ける。

「1955年、Chetは25歳。若く瑞々しい声の中に、どこか繊細な憂いが感じられました」

針を手に取るマスター。その手は確かで、迷いがない。

カチッという小さな音。

そして、静寂。

最初に聞こえてきたのは、かすかなノイズ。古いレコードの温かみのある音。

そして——

Chetの声が、静かに空間を満たし始めた。

25歳の若い声。素直で飾らない歌い方の中に、ほのかな憂いが滲んでいる。

最初の数小節から、誠の心は掴まれた。大切な人への思いを歌う声。過去の美しい瞬間、共有した時間、そして今も続く気持ち。

Chetの声には、時を超える何かがある。1955年の思いが、2025年の誠の心に直接語りかけてくる。

誰かを深く思い出すこと。それは恋人でも、家族でも、同じなのかもしれない。

父は誠を忘れた。でも、誠は父を覚えている。永遠に。

歌が一度途切れ、トランペットが引き継ぐ。

その音色は、まるで人の声のようだった。言葉にならない想い、声にできない感情を、トランペットが代弁している。

誠は目を閉じた。

音楽が、記憶の層を一枚一枚めくっていく。

アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。

「Now Playing: Track 5 - I Remember You (3:15)」

3分15秒。永遠のような、一瞬のような時間。

父と初めてキャッチボールをした日。

「誠、いい球投げるな」

父と多摩川で釣りをした午後。

「魚は逃がしても、また来る」

母の葬儀で、父の手を握った瞬間。

震えていた、大きな手。

全部、誠が覚えている。 父が忘れても、誠の中で生き続ける。

「聴いていて思うんです」

誠が静かに言った。目は閉じたまま、音楽に身を委ねながら。

「父の記憶は断片的になった。でも、その断片も美しい」

「朝の挨拶、お茶の飲み方、新聞の読み方。全部、父のかけらです」

マスターは静かに聞いている。

「恋の歌なのに...」

誠がつぶやく。

「親子の歌に聞こえる。覚えていてくれる人がいる。それだけで救われる」

「音楽は、聴く人の心で形を変えます」

マスターが静かに言う。

「あなたにとっては、お父様への歌になったんですね」

そして、トランペットが終わり、Chetの歌声が戻ってくる。

同じ歌。同じ声。でも誠には、最初とは違って聞こえた。音楽は変わらない。変わったのは、聴いている誠の心。父への想いを整理した後で聴く歌は、まるで父への手紙のように響いてくる。

優しく、慈しむような歌声で締めくくられる最後の一節。大切な記憶を、そっと胸にしまうかのように。

そして、静寂。

針がレコードの終わりで、かすかなノイズを立てている。でも、誠の心の中では、音楽がまだ響いていた。


「美しい音楽でした」

誠が目を開けて言った。瞳には、新しい光が宿っている。

「父が僕を忘れても、僕は父を覚えている。それで十分なんですね」

マスターは優しく頷いた。

「記憶は、片方だけでも成立します。むしろ、忘れられた分まで大切に覚えている。それは尊い使命です」

誠は深呼吸をした。雨音が、少し弱まってきたような気がする。

「もう『息子』と呼ばれなくてもいい」

誠の声に、新しい強さが宿った。

「『部長』でも『山田さん』でも、なんでもいい。父と一緒にいられれば」

立ち上がって、誠は窓の外を見た。雨に濡れた街が、街灯の光を反射して輝いている。

「雨音みたいに、寄り添い続けます」

振り返って、マスターに向かって宣言する。

「同じリズムで、変わらずに。父が忘れても、僕は覚えている。それが、僕の愛し方」

「素敵な愛ですね」

マスターが微笑む。

「報われなくても、純粋で美しい」

誠は、胸ポケットから財布を取り出した。中に入っている写真。去年の父の日に撮った、父との2ショット。あの頃はまだ、息子だと分かってくれていた。

「来週は父の日ですね」

写真を見つめながら、誠は続ける。

「去年は一緒にお祝いできた。でも今年は...『部長からのプレゼント』になるのかな」

苦笑を浮かべてから、誠は真剣な表情に戻った。

「でも、それでもいい。父は僕を分からなくなった。でも、僕の中の父の姿は永遠に生きる」

マスターは窓の外を見た。雨上がりの紫陽花が、街灯に照らされている。

「雨に濡れた紫陽花のようですね」

マスターが静かに言った。

「雨がやんでも、花びらには雫が残る。お父様が忘れても、あなたの中には記憶の雫が」

誠は頷いた。そして、新しい決意を口にする。

「明日、父を釣りに連れて行きます」

「釣りですか」

「ええ。昔、よく一緒に多摩川へ行ったんです」

誠の顔に、初めて本当の笑顔が浮かんだ。

「新しい思い出も作っていきたい。父が忘れても、僕が覚えていればいい」

そして、ふと思いついたように付け加えた。

「I Remember You...この曲、父に聴かせてみようかな」

「きっと、心の深いところで響くと思います」

マスターの言葉に、誠は希望を感じた。音楽は、記憶の扉を開く鍵。父の中に眠る何かを、呼び覚ますかもしれない。


「時間も遅くなりましたね」

マスターが、壁の古い時計を見て言った。針は10時半を指している。

「え、もうそんな時間?」

誠は驚いた。1時間くらいしか経っていないと思っていたのに。この店では、時間の流れ方が違うのかもしれない。

誠は慌てて立ち上がった。濡れたスーツは、いつの間にか乾いている。不思議なことに、心も軽くなっていた。

「お代は...」

「結構です」

マスターは微笑んだ。

「大切なものを、見つけられたようですから」

誠は深く頭を下げた。言葉はそれだけで十分だった。

店を出ようとドアに向かう。その途中で、誠は振り返った。

「あの、また来てもいいですか?」

「それは、あなた次第です」

マスターの答えは謎めいていた。何か深い意味がありそうだったが、誠にはよく分からなかった。でも、不思議と温かい響きがあった。

外に出ると、雨は完全に上がっていた。

雲の切れ間から、月が顔を覗かせている。濡れた路面が、月光を反射してきらきらと輝いていた。梅雨の合間の、貴重な月夜。

振り返ると——

もう、そこには何もなかった。

古いビルの壁だけ。青紫の光も、「夜想」の看板も、重厚な木製のドアも、すべて消えている。まるで最初から、何もなかったかのように。

でも、誠は驚かなかった。

ポケットに手を入れると、何か小さなものが触れた。取り出してみると、小さなレース編みのドイリーだった。繊細な編み目で、紫陽花の模様が青紫の糸で編み込まれている。コーヒーカップの下に敷かれていたものだろうか。まるで記憶の層のように、幾重にも重なった美しい模様。

端に小さなタグ。手書きの文字で書かれている。

「Track 5: I Remember You - 僕を忘れた父へ」

誠は、ドイリーを大切に胸ポケットにしまった。

「それは、あなた次第です」

あの謎めいた言葉の意味が、今になってわかった気がした。きっとこの店は、本当に必要な人のところにだけ現れるのだろう。そして、答えを見つけた人の前からは消えていく。

次の誰かのために。

歩き始める。駅への道は、もう迷わない。

スマートフォンを取り出し、アラームをセットする。明朝8時。施設が開く時間に合わせて、すぐに電話できるように。

「明日、父を釣りに連れて行こう」

独り言のように呟いて、誠は空を見上げた。

月が、雲の向こうに消えていく。でも、また現れる。雲に隠れても、月は変わらずそこにある。

父の記憶も、同じかもしれない。表面では忘れても、心の奥底では覚えている。息子だと分からなくても、「いい人」だと感じている。

それで、十分だ。

毎週通っている誠のことを、施設のスタッフは知っている。明日の朝、電話すれば、きっと快く外出を許可してくれるだろう。

「釣りに行きませんか?」

父が誠を誰だと思うかは分からない。部長かもしれないし、違う誰かかもしれない。 でも、きっと「いい人」だと思って、一緒に行ってくれるはずだ。

誠は、小さく「I Remember You」を口ずさみながら、駅へ向かった。

大切なのは、一緒にいること。

そして、誠が覚えていること。

「僕を忘れた父へ」

心の中で、そっと語りかける。

「僕は、ずっと覚えています」

月光に照らされた道を、誠は歩いていく。 新しい朝への道を。

【おしまい】


♪ Now Playing: Your Life - Track ∞


作者から一言

この物語は、「忘れられること」の痛みを知る全ての方に向けて書きました。

Chet Bakerの「I Remember You」は、元々1941年に作られた恋愛の歌です。でも、Chetが1955年に歌った時、そこには違う深みがありました。25歳の若い声で歌われるこの曲には、瑞々しさの中にほのかな憂いが感じられます。

私がこの曲を選んだのは、そのタイトルがいくつもの解釈ができるからです。「I Remember You」——「私はあなたを覚えている」。恋人への歌としても、親子の歌としても聴ける普遍性があります。

誠が最後に選んだ道——「部長」でも「山田さん」でもいいから、父と一緒にいる——それは、愛の究極の形かもしれません。役割や名前を超えた、存在そのものへの愛。

最後に——

この物語を読みながら、実際に「I Remember You」を聴いてくださった方へ。Chetの若い声は、どんな記憶を呼び覚ましましたか?

そして、あなたが「覚えていたい人」は誰ですか? 忘れられても愛し続ける勇気を与えてくれる曲があれば、ぜひコメントで教えてください。

あなたの記憶が、誰かの存在証明になりますように。

2025年 梅雨の夜に

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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。