【4夜の物語 第1話】夜想のジャズ喫茶〜『Track 4:青い鳥と蜃気楼』
~あらすじ~
街の片隅に、地図には載らないジャズ喫茶がある。名前は「夜想」。
迷い込むのは、働くことに行き詰まった大人たち――就活32連敗の大学生、独立後の成功に虚しさを覚えた建築家、フォロワー50万を抱えるSNSインフルエンサー、感情労働に擦り切れた音楽療法士。
カウンターに立つ寡黙なマスターは、訪れた客に一杯のコーヒーと一曲のジャズを差し出すだけ。けれど、その音楽と問いかけが、止まっていた時間をふたたび動かしていく。
働くこと、選ぶこと、続けること。社会の物差しでは測れない、自分の仕事を見つけ直す4夜の物語。連作短編・各話独立して読めます。
推奨読書順:Track 4 →Track 3→ Track 11 → Track 12
♪ Brad Mehldau & Joshua Redman - The Nearness of You (2011)
5月中旬の金曜日、午後10時7分。
小野寺あかりは、大学の就職課前の廊下のベンチで、ノートパソコンに向かっていた。
18時からの就活セミナーに参加。19時半に終わった後、触発されてすぐにESを書き直したくなった。この廊下はWi-Fiが飛んでいて、金曜の夜は就活生の作業スポットになる。誰も文句を言わない暗黙の了解。
2時間以上、ESと格闘していた。
どこからか、笑い声が聞こえてくる。金曜の夜の大学は、就活組と飲み会組に分かれる。
「学生さん、大丈夫ですか」
顔を上げると、夜間警備員が立っていた。いつも見かける優しそうな人だ。
「就活ですか。まだ5月なのに、頑張りますね」
その「まだ」という言葉が、胸に刺さる。
警備員が去った後、あかりはスマートフォンを見た。メールの通知が来ていた。差出人は、今度こそはと期待していた中堅出版社。文学部のあかりにとって、出版社は本命中の本命。深呼吸。一度、二度。
そして、開いた。
「慎重に検討させていただいた結果、誠に残念ながら今回は採用を見送らせていただくこととなりました」
お祈りメール。32社目。
文面は丁寧だ。「今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます」という決まり文句も、きちんと入っている。その丁寧さが、かえって残酷だった。お祈りされても、活躍する場所がないのだから。
膝から力が抜けた。壁にもたれかかる。冷たいコンクリートの感触が、背中に伝わってくる。
「あかりちゃん、大丈夫?」
振り返ると、同じゼミの美月が心配そうな顔で立っていた。頬が少し赤い。
「あ、美月ちゃん……」
「ゼミの飲み会から抜けてきたの。トイレ行こうとしたら、あかりちゃんが見えて」
美月は冬に外資系コンサルの内定を取り、先週は日系大手商社から内々定をもらったと聞いた。それでもまだ他の企業の選考を受けている。「第一志望群がまだ残ってるから」と言っていたが、既に「保険」が2つもあるその余裕が、表情に表れている。
「飲み会戻らなくていいの?」
「ううん、もう抜けてきちゃった。一緒に帰ろう?」
「大丈夫。ちょっと寄るところがあって」
嘘だった。美月と一緒に歩きたくない。お酒も入っているし、きっと就活の話になる。
「そう? 無理しないでね」
美月は少し躊躇してから、そっと付け加えた。
「あのさ、来月の頭に早期選考組で集まるんだけど……あかりちゃんも来ない? 気分転換に」
早期選考組。その言葉に、胃がきゅっと縮んだ。
「ありがとう。でも、ちょっと用事があって」
また嘘だ。
「そっか。でも、いつでも連絡して。あかりちゃんなら、きっと大丈夫だから」
美月が去っていく足音が、廊下に響く。カツカツと規則的な音。
一人になると、急に静かになった。就職課のある4階は、もう人気がない。窓の外を見ると、キャンパスの中庭が見える。ベンチに座る学生たち。金曜の夜を楽しんでいる。
あかりは、スマートフォンをもう一度見た。
LINEの未読が、50件を超えている。開く気になれない。
Instagramは、もっと残酷だ。
「#早期選考 #内々定 #とりあえず1社確保」
「#外資内定 #次は日系大手 #就活順調」
「#もう就活終わりたい #贅沢な悩み」
スクロールする指が止まらない。みんな、キラキラしている。
なぜ、みんなは受かって、私は落ちるのか。
画面がぼやけた。目の縁を、指の腹で拭う。
あかりは急いでスマートフォンをポケットにしまった。
ポケットから、折りたたんだ紙を取り出す。就活ノートの1ページ。そこには、これまでに受けた企業のリストが書かれている。大手出版社、広告代理店、IT企業、商社……赤いペンで、一つ一つ線が引かれている。不合格の印。
32本の赤い線。
最初の頃は、「次こそは」と思えた。10社目くらいまでは、改善点を探して、対策を練った。でも20社を超えた頃から、何が悪いのかもわからなくなった。
「私の何が、ダメなんだろう」
誰もいない廊下に、小さな声が響いた。
ノートパソコンをカバンにしまい、エレベーターで1階に降りる。自動ドアを抜けると、5月の夜風が頬を撫でた。昼間の暑さが嘘のような、心地よい温度。キャンパスの木々は新緑に包まれ、生命力に溢れている。
あかりには何も感じられなかった。
みんなが芽吹いている季節に、自分だけが枯れ木のよう。
正門を出て、いつもなら駅へ向かう道を、今日は反対方向へ歩き始めた。帰りたくない。シェアハウスに戻っても、就活の書類と向き合うだけ。由佳はきっと内定祝いで出かけているだろうし。それに、今日こそ実家に電話しなければならない。
母からのLINEが、3日前から既読をつけないまま残っている。
「就活どう? 体に気をつけてね。お父さんも心配してる」
返信する言葉が見つからない。「順調だよ」という嘘も、もう限界だった。3月から「もう少しで決まりそう」と言い続けて、2ヶ月半。山形の両親は、東京の大企業に就職する娘を夢見ている。
「せっかく東京の大学に行かせたんだから」
帰省した時の母の言葉が、耳に残っている。決して責めているわけではない。むしろ、期待と愛情に満ちた言葉。だからこそ、重い。
商店街を抜けて、住宅街へ。金曜の夜の街は、どこか浮き足立っている。居酒屋からは笑い声が漏れ、コンビニの前では学生たちが楽しそうに話している。
「おめでとう!」
「いいなー、もう安心じゃん!」
「6月は余裕持って受けられるね!」
風に乗って聞こえてくる声。あかりは足早に通り過ぎた。
公園のベンチに座る。街灯の下で、もう一度スマートフォンを開く。就活サイトのマイページ。「応募中:0社」の文字が、画面に浮かんでいる。
もう、応募する企業がない。
いや、正確にはある。6月の本選考に向けてエントリーを受け付けている企業はたくさんある。でも、3月から必死でエントリーして、説明会に参加して、ESを書いて、Webテストを受けて……それでも32社連続で落ちた今、もう何を基準に選べばいいのかわからない。
大手は高望み。中堅も難しい。じゃあ、「みんなが知らない会社」? でも――
「そんなところに行くくらいなら……」
自分でも、その続きが言えなかった。
ふと、画面の端に小さな広告が表示された。
「地域の物語を、灯りのように次世代へ 山形・星の川出版で編集者募集」
故郷の会社。あかりも知っている。子供の頃、その出版社が作った民話集を読んで育った。『月の山のものがたり』『最上川に眠る伝説』『雪国の不思議な話』……。
寝る前に、祖母が読み聞かせてくれた本。挿絵も素朴で温かくて、今でも実家の本棚に並んでいる。
でも――
指が、勝手に動いていた。スワイプして、広告を消す。理由を考える前に、体が拒んでいた。
「地元の小さな出版社なんて」
口に出してから、自分の声の硬さに少し驚いた。
せっかく東京に出てきたのに。せっかく頑張って大学に入ったのに。地元に戻るなんて、負けを認めるようなもの。
高校の同級生たちの顔が浮かぶ。東京の大学に進学した時、みんなが羨ましそうだった。「あかりは違うね」「東京で活躍するんでしょ」「私たちとは違う世界に行くんだ」
その期待を背負って、上京して4年。
今更、手ぶらでは帰れない。
立ち上がると、また歩き始めた。どこへ向かっているのか、自分でもわからない。ただ、足が勝手に動いている。
大通りから一本入った路地。また別の路地へ。気がつくと、見慣れない場所にいた。古い建物が並ぶ、静かな通り。
空を見上げる。5月の夜空に、星は見えない。東京の空は、いつも明るすぎる。故郷の山形なら、今頃は満天の星が見えるはずなのに。
「私、何やってるんだろう」
声に出してしまってから、慌てて周りを見回す。誰もいない。
最近、心の中の言葉が勝手に口から出てしまう。友達の前では「大丈夫!」と笑顔を作っているのに、一人になると本音が漏れる。
32社の不合格。でも、本当は最初から無理だったのかもしれない。大手企業が求めているのは、「特別な何か」を持った学生。留学経験、起業経験、体育会系のリーダー経験。
あかりには、何もない。
普通の家庭で育ち、普通に勉強して、普通に大学生活を送った。サークルは文芸部。アルバイトは本屋。派手な経験なんて一つもない。ESに書くことを探して、必死で「盛った」エピソード。
「学生時代に力を入れたことは、文芸部で編集長を務めたことです」
本当は、部員が5人しかいない小さなサークル。編集長といっても、たまたま回ってきた役職。でも、それを「リーダーシップを発揮し、メンバーをまとめ上げ、質の高い部誌を作り上げました」と書く。
嘘じゃない。けれど、真実でもない。
どのくらい歩いただろう。気がつくと、細い路地の奥にいた。
両側には古いビルが立ち並び、シャッターの下りた店が続く。街灯もまばらで、足元がおぼつかない。スマートフォンの地図アプリを開こうとしたが、なぜか現在地が表示されない。
不安になって、来た道を戻ろうとした時――
ふと、顔を上げた。
古いビルとビルの隙間に、かすかな光が見えた。
薄い若草色の光。
新緑のような、でも霧がかかったような、不思議な色。春の朝もやの中で見る若葉のような、ほのかに儚い光。
足が、自然とその光に向かっていた。
近づくにつれて、それが小さな店の看板だとわかった。
「夜想」
控えめに光る文字。看板というより、そっと灯された明かりのよう。
喫茶店だろうか。こんな時間に、こんな場所で。
なぜかその光に惹かれた。
ドアに近づく。重厚な木製のドア。年月を感じさせる佇まいだが、不思議と古びた感じはしない。真鍮のドアノブが、若草色の光を受けて、優しく輝いている。
耳を澄ますと、かすかに音楽が聞こえてきた。ジャズだろうか。低音の響きが、ドアの向こうから優しく漏れている。
あかりは一瞬躊躇した。
知らない店。しかも、こんな時間に、こんな場所で。就活帰りのくたびれた姿で、入ってもいいのだろうか。
でも、若草色の光が「おいで」と言っているような気がした。
深呼吸をして、ドアノブに手をかける。
ひんやりとした真鍮の感触が、掌に伝わってくる。不思議と、懐かしい感触だった。
回すと、思いのほか滑らかに動いた。
カランと、小さな鈴の音がした。
ドアを開けた瞬間、別世界に足を踏み入れたような感覚に包まれた。
外の冷たい5月の夜風が嘘のように、店内は心地よい温度に保たれている。かすかに流れる音楽。ベースの低い振動が、空気を柔らかく震わせている。
薄暗い店内は、若草色の柔らかな光に包まれている。看板と同じ色。でも、店内で見るとその光は、新緑というより、朝もやに包まれた森のような色合いだった。
壁一面に並ぶレコード。年代物のスピーカー。そして奥の壁際には、アップライトピアノ。
その上に、小さな札が立てられていた。
「Now Playing: Track 4 - ♪ (0:00)」
まだ始まっていない。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、落ち着いた女性の声がした。50代だろうか。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、白いブラウスに紺のエプロン。
胸元で、小さな三日月のブローチが光っている。今夜は薄い緑色に、まるで店の照明に呼応するように。
「こんな時間に、すみません」
あかりは、自分のくたびれた姿を意識した。朝からスーツを着たまま、髪も乱れているだろう。こんな素敵な空間には、不釣り合いな気がした。
「いいえ。迷っている方は、よくいらっしゃいますから」
迷っている――その言葉が、心に刺さる。
革張りのソファに腰を下ろす。使い込まれた革が、疲れた体を優しく受け止める。深く沈み込むと、まるで誰かに抱きしめられているような安心感があった。
無意識に、カバンからノートパソコンを取り出していた。
いつもの癖だ。カフェでも、電車でも、時間があればESを見直す。
開いたままのESの画面。そこには何度も書き直した志望動機。文章の途中で止まったカーソルが、点滅を繰り返している。横には別ウィンドウで「就活 志望動機 例文」の検索結果。「ES添削済み_最終版_本当に最終.docx」というファイル名が見える。
そして一番上に、「氏名:小野寺あかり」の文字。
「ブレンドコーヒーを」
注文しながら、慌てて画面を隠そうとしたが、もう遅かった。
「かしこまりました」
マスターは、特に何も言わず、静かにカウンターへ戻っていく。
マスターは黙ったまま、豆を挽き始める。ゴリッ、ゴリッという音が、まるで時計の秒針のように一定のリズムを刻む。その音を聞いていると、焦っていた心が少しずつ落ち着いてくる。
コーヒーの香りが漂ってくる。深煎りの、濃厚な香り。
「お待たせしました」
陶器のカップがテーブルに置かれる。立ち上る湯気が、若草色の光を受けて、幻想的に輝いた。
コーヒーを運んできたマスターの視線が、一瞬、パソコンの画面をかすめる。
「あかりさん、というのですね」
マスターが静かに言う。
「あ、はい……すみません、つい開いてしまって」
慌てて画面を閉じようとするあかりを、マスターは静かに制した。
「就職活動、大変でしょうね」
「……はい」
声が小さくなる。画面には「学生時代に力を入れたこと」の欄。何度書き直しても、嘘くさい文章にしかならない。
「あかり……」
マスターが、その響きを確かめるように繰り返す。
「温かい名前ですね。暗闇を照らす灯りのような」
あかりは、目を伏せた。
今の自分は、誰も照らせていない。
マスターはカウンターに戻り、今度は自分の分のコーヒーを用意し始める。カップを温め、フィルターをセットする動作の一つ一つが、焦りとは無縁の穏やかさに満ちていた。
「今日は金曜日。お疲れさまでした」
マスターが、カウンターから優しく声をかける。
その「お疲れさま」が、なぜか涙が出そうになるほど温かかった。みんな「頑張って」と言う。でも、「お疲れさま」と言ってくれる人は、いなかった。
あかりは、コーヒーカップを両手で包んだ。
コーヒーを一口含む。思っていたより苦くない。むしろ、ほんのりとした甘さがある。実家で祖母が淹れてくれたコーヒーを思い出す味。
しばらくの静寂。店内のBGMが、二人の間をそっと満たしている。
「……32社、全部ダメでした」
なぜか、初対面の人に素直に言えた。友人にも、家族にも言えなかった本当のことを。
「32社……」
マスターが静かに繰り返す。責めるでもなく、同情するでもなく、ただその数字を受け止めるように。
「春から、ずっと」
あかりは続けた。もう、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「大手出版社、中堅、IT企業、広告代理店……手当たり次第に。でも、ESで落ちたり、Webテストで落ちたり、一次面接で落ちたり。最終まで行けたのは、一社もない」
画面をスクロールする。不合格通知のメールが、フォルダに整理されている。「お祈りフォルダ」と名付けたそれは、もうパンパンだ。
マスターは、カウンターから出てきて、あかりのテーブルの近くの椅子に腰を下ろした。
「ESも面接も、全部『作った自分』でした」
あかりは苦笑した。
「『学生時代頑張ったこと』も、盛りに盛って。本当の自分じゃない、企業が欲しがりそうな誰かになろうとして」
画面の文章を見る。そこには、「文芸部で編集長としてリーダーシップを発揮し、部員のモチベーション管理と企画力で、質の高い部誌を創り上げました」と書かれている。
「本当は?」
マスターが静かに問う。
「部員5人の、小さなサークルです。編集長も、じゃんけんで負けて……」
あかりは笑った。自嘲的な笑い。
「でも、楽しかったんです。みんなで原稿を読み合って、表紙のデザインを考えて。地味だけど、本が好きな仲間と過ごす時間が」
「素敵じゃないですか」
「でも、それじゃ企業は振り向いてくれない」
あかりは目を伏せた。
「みんなが受ける会社ばかり応募してきました。名前を言えば『すごい!』って言われる会社。親も喜ぶような会社」
「でも、向こうは私なんて見てもいない。何万人の中の、その他大勢の一人」
涙が、頬を伝った。
「ずっと片思いだったのかもしれません」
あかりが小さく呟いた。
「追いかけて、追いかけて。でも振り向いてもらえなくて」
「ESも、ラブレターみたいなんです」
涙を拭きながら、あかりは続けた。
「『御社の理念に共感し』『私の強みを活かして』って、告白の言葉を必死で考えて。どこかで見た例文をアレンジして、自分の言葉のふりをして。でも、返ってくるのは定型文の『お祈り』ばかり」
「届かないラブレターほど、つらいものはありませんね」
マスターが、静かに受け止めた。
マスターは、ハンカチをそっと差し出した。白い、清潔なハンカチ。ほのかにラベンダーの香りがする。
「ありがとうございます」
ハンカチで顔を拭きながら、あかりは深呼吸をした。
「私、何がいけないんでしょうか」
「いけないこと、なんてありませんよ」
マスターの声は、確信に満ちていた。
「ただ、お互いを探している段階なんです。あなたも、企業も」
「でも、みんなはもう見つけてる」
「本当にそうでしょうか」
マスターは、窓の外を見た。5月の夜、新緑が街灯に照らされて静かに揺れている。
「見つけたと思っているだけかもしれません。本当の相性は、一緒に過ごしてみないとわからない」
そして、あかりを見つめる。
「じゃあ、私はどうすれば……」
「まず、本当の自分を見つめることから始めてみては?」
マスターは穏やかに言った。
「あなたが本当に好きなこと、大切にしたいこと。それを素直に表現できる場所が、きっとあります」
あかりは、ふと思い出した。昨日、スマートフォンで見かけた広告。地元山形の小さな出版社。子供の頃に読んだ民話集を作っていた会社。でも、すぐに画面を閉じてしまった。
「でも、地元の小さな会社じゃ……」
「小さいことが、悪いことでしょうか」
マスターの問いかけに、あかりは言葉に詰まった。
「大きな灯台より、手元の蝋燭の方が大切な時もあります」
その言葉が、胸に響いた。
「3月……」
あかりがつぶやいた。コーヒーカップを両手で包みながら、記憶を辿る。
3月1日、午前0時。
あかりは、パソコンの前に座っていた。ルームメイトの由佳と一緒に、カウントダウンをしながら。
「あと10秒!」
「いよいよだね」
「3、2、1……解禁!」
日付が変わった瞬間、就活サイトが一斉にオープン。企業のエントリーが始まる。まるで、年明けのカウントダウンのような高揚感。
「○○出版、エントリー完了!」
「私は△△書店!」
二人で、次々とエントリーボタンを押していく。この時は、まだ夢に満ちていた。
翌朝、大学の就活セミナー会場は熱気に包まれていた。
真新しいリクルートスーツに身を包んだ学生たち。みんな、希望に満ちた表情。あかりも、紺色のスーツがまだ固くて、動きにくかったけれど、それさえも誇らしかった。
「さあ、戦いの始まりです!」
就職課の職員の言葉に、会場が沸いた。
「今年も売り手市場です。でも、油断は禁物。人気企業は相変わらず狭き門です」
スクリーンに映し出される、企業のロゴたち。誰もが知る大企業の名前が並ぶ。
あかりも、その時は燃えていた。
「私も大企業に入って、バリバリ働くんだ」
今思えば、あの時から間違っていたのかもしれない。みんなで同じ方向を向いて、同じ夢を見ていた。
最初のES提出は、3月中旬。
文芸部の活動を、どう魅力的に見せるか。部誌の制作を、どうビジネスに結びつけるか。必死で考えた。
「リーダーシップ」「マネジメント力」「企画力」
就活本に載っている「企業が求める人材像」のキーワードを、無理やり自分の経験に当てはめていく。
「これでいいのかな」
由佳に見せると、彼女も同じような内容を書いていた。
「みんな、こんな感じみたいよ」
そう言われて、少し安心した。みんなと同じなら、大丈夫。その時は、そう思っていた。
最初の不合格通知が来たのは、3月末。
「慎重に検討させていただきましたが……」
画面を見つめたまま、あかりは固まった。まさか、ESで落ちるなんて。
「大丈夫、まだ始まったばかりだから」
由佳が慰めてくれた。『私もまだ決まってないから、一緒に頑張ろう』と言ってくれた。
でも翌週、由佳から「実は……」と打ち明けられた。冬のインターンルートで、既に大手広告代理店から内々定をもらっていたらしい。あかりを傷つけたくなくて、黙っていたという。
その優しさが、かえって辛かった。
4月に入ると、不合格通知が加速度的に増えていった。
ES不合格、Webテスト不合格、一次面接不合格……
その度に、何が悪かったのか考える。でも、答えは見つからない。考えれば考えるほど、自分が分からなくなっていく。
「学生時代に頑張ったこと」を書き直すたびに、自分の大学生活がいかに平凡だったかを思い知らされる。
留学経験なし。
起業経験なし。
体育会でもない。
バイトも普通の本屋。
ただ、本が好きで、文芸部で仲間と部誌を作っていただけ。
「それじゃ、ダメなんだ」
4月の終わり、20社目の不合格通知を見ながら、あかりは泣いた。
革張りのソファが、あかりの重みに応えて静かに軋んだ。
コーヒーカップを置く。陶器が小さく音を立てた。
「あの頃から、背伸びばかりしていました」
声が、薄暗い店内にゆっくりと染み込んでいく。
「みんなが憧れる企業に入れる『特別な人』になろうとして」
マスターは、静かに聞いている。
「でも、なれなかった。当たり前ですよね。だって、私は私でしかないから」
涙は、もう乾いていた。
32社の不合格。それは、「特別じゃない自分」を32回突きつけられたということ。
窓の外では、5月の夜風が、新緑をそっと揺らしていた。
「あかりさんに、聴いていただきたい音楽があります」
マスターが立ち上がった。その動きには迷いがない。
壁一面のレコードの前に立つと、指が背表紙をなぞっていく。愛おしいものに触れるような、丁寧な動作。
ある場所で手を止めた。
「これです」
取り出されたレコードジャケット。シンプルな白黒の写真。二人の音楽家が並んで写っている。「NEARNESS」というタイトルが控えめに記されている。
「Brad Mehldau & Joshua Redman」
マスターがジャケットを見せながら言う。
「2011年のヨーロッパツアーの記録。二人は各地で、その場の空気を感じながら音楽を紡ぎました」
レコードをそっと取り出す。黒い盤面が、若草色の光を反射して、不思議な輝きを放つ。
「スタジオ録音とは違う、生々しい親密さがあります。観客の息遣い、会場の響き、その瞬間にしか生まれない音楽」
「The Nearness of You」
マスターが曲名を静かに告げる。
「『あなたのそばにいること』。それだけを歌った曲です」
レコードをターンテーブルに載せる。
「メーテルリンクの『青い鳥』をご存知ですか?」
マスターが振り返って問う。
「はい……幸せは遠くじゃなくて、身近にあるっていう」
「そうです。チルチルとミチルは、幸せの青い鳥を探して旅に出る。でも、どこにも見つからない」
マスターは針を手に取った。
「遠い国、不思議な場所、みんなが憧れる場所。でも、青い鳥はそこにはいなかった」
「最後に見つけたのは……」
「家に帰ってみたら、飼っていた鳥が青く見えたんです」
あかりが小さく答える。子供の頃に読んだ物語を思い出しながら。
「ええ。でも、その鳥を別の子にあげると、また飛んでいってしまう」
針を落とす前に、マスターはあかりを見つめた。
カチッという小さな音と共に、針がレコードに触れた。
最初の静寂。
そして――
ピアノの音が、静かに空間を満たし始めた。
Brad Mehldauの繊細なタッチ。一音一音が、まるで大切な人に語りかけるように、優しく響く。確信に満ちていながら、決して押し付けがましくない。
続いて、Joshua Redmanのサックスが入ってきた。
温かく、包み込むような音色。ピアノに寄り添いながら、自分の声で歌い始める。二つの楽器が、完璧な距離感で対話を始めた。
ライブ録音ならではの空気感。会場の響き、拍手の余韻。
「まるで……」
あかりが呟く。
「これが相思相愛ってことなのかな」
「そうですね」
マスターが微笑む。
ピアノが問いかける。「君は何を求めているの?」
サックスが答える。「ただ、君のそばにいたい」
シンプルで、でも深い対話。華やかなテクニックの誇示はない。
時に寄り添い、時に少し離れ、でも常に相手を感じながら。まるで、長年連れ添った夫婦の会話のように、言葉少なでも通じ合っている。
あかりは目を閉じた。
音楽が、心の奥深くに染み込んでいく。
サックスが高らかに歌い上げる瞬間がある。でも、それは見せびらかすためではない。ただ、喜びが溢れて、自然と音が高くなる。ピアノはそれを優しく支え、また静かな対話に戻っていく。
「青い鳥の羽ばたきが聞こえる」
あかりが小さく言った。
「ええ、きっとすぐ近くで」
マスターの声も、音楽に溶け込んでいく。
アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。
「Now Playing: Track 4 - The Nearness of You (16:44)」
16分44秒。ライブならではの、たっぷりとした時間。
音楽は続いている。MehldauとRedmanの対話は、新しい局面を迎えていた。
ピアノが静かに、ある旋律を奏で始める。それは、どこか懐かしい響き。故郷を思い出させるような、温かい音。
「あ……」
あかりの目が開いた。何かを思い出したように。
「どうされました?」
「この旋律……どこかで聞いたことがあるような」
マスターは静かに微笑んだ。
「音楽は時に、忘れていた記憶を呼び覚まします」
サックスが、ピアノの旋律を受け取って、さらに優しく歌い始める。まるで、子守唄のように。
ピアノの旋律に重なって、あかりの脳裏に、ある光景が浮かんだ。
山形の実家。冬の夜。こたつを囲んで、祖母が本を読んでくれている。『月の山のものがたり』。表紙には、青い鳥が描かれていた。
「おばあちゃん、なんで青い鳥なの?」
幼いあかりが尋ねる。
「青は、希望の色だからね。そして鳥は、自由に飛べるでしょう?」
祖母の優しい声。
「でもね、山形の青い鳥は特別なの。遠くの宝物を探しに行くより、月山の麓で家族と暮らすことを選んだんですって」
記憶が、現在と重なる。
「私、ずっと蜃気楼を追いかけていた」
あかりが静かに言った。音楽に包まれながら。
「手を伸ばしても届かない、幻ばかり。東京の大企業、誰もが羨むような会社。でも、それは本当に私が望んでいたことだったのかな」
「今、どう思われますか?」
マスターが問う。
「親が喜ぶ夢、社会が認める夢。でも、私自身の夢じゃなかった」
あかりは苦笑した。でも、その表情には新しい光があった。
音楽の中で、ピアノとサックスが完璧に調和している。どちらが主役ということもない。ただ、お互いの存在を大切にしながら、美しい音楽を紡いでいる。
「実は……」
あかりは深呼吸をした。ずっと心の奥にしまっていたことを、言葉にする時が来た。
「山形に、小さな出版社があるんです。地域の民話や伝説を集めて、本にしている」
「素敵ですね」
マスターの言葉に、嘘はなかった。
「『星の川出版』っていいます。最上川を、夜空の星座に見立てた名前で」
あかりの声に、温かさが宿り始める。
「子供の頃、その出版社の本を読んで育ちました。おばあちゃんが読み聞かせてくれた『月の山のものがたり』も、『雪国の不思議な話』も、みんなそこの本」
「それは素敵な出会いでしたね」
マスターが頷いた。
「でも、『地方の小さな会社なんて』って見向きもしなかった。東京の、みんなが知ってる会社じゃないと意味がないって」
あかりは窓の外を見た。5月の夜、新緑が街灯に照らされている。
「母も『せっかく東京の大学に行ったんだから』って。地元に帰るなんて、負けみたいだって、私も思ってた」
「でも?」
「でも、今この音楽を聴いていて思うんです」
あかりの目に、確信の光が宿った。
「私の青い鳥は、ずっとそこにいたのかも。星の川出版で、子供たちに夢を届ける仕事。地域の物語を、次の世代に伝える仕事」
言葉にしてから、心臓が一拍速く鳴った。
本当に? 高校の同級生たちの「あかりは違うね」が、耳の奥でこだまする。4年間、その期待を背負って生きてきた。それを手放して、地元に帰る。
拳を握る。それから、ゆっくりと開いた。
怖くないわけじゃない。でも、口にした言葉の温度が、まだ舌の上に残っていた。
唇の端が、ふっと緩む。夜想に入って、初めての本当の笑顔だった。
マスターは、静かに頷いた。
音楽は、クライマックスに向かっていた。ピアノとサックスが、お互いを称え合うように、美しいハーモニーを奏でている。
「The Nearness of You」が、静かに終わりへと向かっている。
でも、あかりの中では、新しい音楽が始まろうとしていた。
窓の外に視線を移した。新緑が、街灯の光の中で静かに揺れている。
ひとつ、息を吐く。
「決めました」
立ち上がって、あかりは宣言した。まるで、自分自身に誓いを立てるように。
「みんなと同じじゃなくていい」
「5月に内定じゃなくてもいい」
「東京の大企業じゃなくてもいい」
「蜃気楼を追うのはもうやめます。私の青い鳥のところへ、帰ります」
マスターは、優しく見守っている。
「地元で就職するって、逃げじゃありません」
あかりは続けた。今度は、マスターに向かって。いや、自分自身に向かって。
「選択です。私が選ぶ、私の人生」
ノートパソコンの画面がまだ開いている。そこには、何度も書き直したES。でも、もうそれは過去のもの。
「今まで書いたESは、全部嘘でした」
あかりは画面を見つめる。
「企業が求める人物像に、自分を当てはめようとしていた。でも、星の川出版に送るESは、本当のことを書きます」
「どんなことを?」
「子供の頃、おばあちゃんに読んでもらった本のこと。あの本が友達でいてくれたこと」
あかりの言葉は、淀みなく流れ出した。今まで何時間もかけて絞り出していた言葉とは違う。心の底から湧き上がってくる、本物の言葉。
「そして……」
あかりは微笑んだ。
「小さな灯りでも、誰かの心を照らせる編集者になりたいって」
マスターが初めて、大きく頷いた。
「きっと、素敵な編集者になれますよ」
音楽が、最後の音を奏でる。ピアノとサックスが、まるで「またね」と言い合うように、優しく別れを告げる。
「あかりさん」
マスターが立ち上がった。胸元の三日月のブローチが、薄い緑にきらめいた。
「最後に、一つだけ」
「はい」
「咲く時季は、花によって違いますから」
あかりは、ゆっくりとマスターを見上げた。
「ありがとうございます」
心を込めて、あかりは頭を下げた。
「もう遅い時間ですね」
マスターが、壁の古い時計を見て言った。針は11時半を指している。
あかりは慌てて立ち上がった。
「すみません、長居してしまって」
「いいえ」
会計をしようとするが、レジらしきものは見当たらない。マスターは、ただ微笑んでいる。
荷物をまとめながら、あかりはもう一度店内を見回した。この不思議な空間を、記憶に焼き付けるように。
「また、来てもいいですか?」
ドアに向かいながら、あかりが尋ねる。
「それは、あなた次第です」
マスターの言葉には、温かな響きがあった。
「でも……」
マスターが付け加えた。
「いつか、星の川出版で、あなたが作った本を持って、また訪ねてきてください」
「はい! 必ず!」
あかりの顔が輝いた。
外に出ると、5月の夜風が優しく頬を撫でた。さっきまでと同じ風。
数歩歩いてから、振り返った。
「夜想」の看板を、もう一度見ておこうと思ったのだ。
でも――
そこには、ただの古いビルの壁があるだけだった。看板も、ドアも、何もない。
「まるで、蜃気楼みたい」
あかりは小さく呟いた。でも、今度は違う。この店は確かに存在した。青い鳥のように、確かにそこにあった。
ポケットに手を入れると、何か紙の感触があった。
取り出してみると、小さなコースター。若草色のインクで、繊細な文字が書かれている。
「夜想」
そして裏には――
「Track 4: The Nearness of You - 青い鳥と蜃気楼」
あかりは、コースターを大切に胸ポケットにしまった。
歩き始める。足取りは軽い。
スマートフォンを取り出し、母にLINEを送る。
「お母さん、就活のこと、ちゃんと話したいことがあるの。今度帰ったとき、ゆっくり話そう」
送信ボタンを押す。
そして、もう一つ検索する。
「星の川出版 採用情報」
画面に表示された情報を見て、あかりは微笑んだ。
「編集者募集:地域の物語を、灯りのように次世代へ」
朝になったら、本当のESを書こう。飾らない言葉で、素直な思いで。
【おしまい】
♪ Now Playing: Your Life - Track ∞
作者から一言
Brad MehldauとJoshua Redmanの「The Nearness of You」を聴きながらお読みいただけたなら、嬉しく思います。2011年のヨーロッパツアーで生まれた、生々しい親密さのあるライブ録音です。
あなたにとっての「青い鳥」を感じさせてくれる曲があれば、ぜひコメントで教えてください。
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人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。