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Kalan.FrFrが歩むLAの「第三の道」

スポーツかギャングか。その二択を拒んだ男が、音楽と地域貢献で新たな選択肢を示す。

ロサンゼルスという街には、若者に提示される人生の選択肢が限られていると言われることがある。スポーツで成功するか、ストリートに生きるか。その二項対立をKalan.FrFrは静かに拒絶してきた。フットボール選手としてのキャリアを失い、ギャングの世界にも属さなかった彼が辿り着いたのは、音楽という「第三の道」であった。ポッドキャスト番組"The Underground Lounge"に出演した彼は、アルバム"California Player"のリリースを経て、自身の歩みと地元コミュニティへの思いを率直に語っている。


CarsonとComptonの狭間で

Kalan.FrFrの人生を理解するには、まず彼が育った地理的環境を知る必要がある。母親はCarson(カーソン)に、父親はCompton(コンプトン)に暮らしていた。ロサンゼルス南部に位置するこの二つの街を行き来する日々が、彼の幼少期であった。CarsonはLAの南に位置する住宅街で、ComptonはN.W.A.を筆頭にギャング文化とヒップホップの発信地として世界的に知られる街である。

この二つの街を往復するということは、必然的に異なるギャングの勢力圏を横断することを意味する。実際、彼の親族にはBloodsに属する者もCripsに属する者もいた。叔母の家に行けばそこもまた別の勢力圏。しかし感謝祭には全員が一つのテーブルを囲む。それが彼の家族の風景であった。

こうした環境で育ちながら、Kalan.FrFrは一度もギャングに加入しなかった。その理由を彼は明快に語る。喧嘩の腕前もあった。金の稼ぎ方も知っていた。女性にも不自由しなかった。ギャングが手に入れているものは、すべて自分の力で手に入れることができた。加入する必要性がなかったのである。

父親がギャングメンバーであったという事実が、この選択をさらに際立たせる。血脈としてはギャングの「正統な後継者」になり得た立場である。しかし彼は「意味がなかった」と繰り返す。どこにでも行けたし、誰とでも付き合えた。ギャングの仲間たちも「俺たちがお前のところに遊びに行く」と言い、彼のもとに集まった。所属なき自由が、むしろ求心力を生んでいたのである。

彼が幼い頃から大切にしてきた信条がある。「自分はどこのだれにも恐れない」。それは虚勢ではなく、どの勢力圏でも対等に渡り歩いてきた経験に裏打ちされた自信である。同時に、トラブルを自ら招き寄せないという冷静さも併せ持っていた。「あそこは危ない奴がいる」という情報を聞けば、素直に距離を取る。男としてやるべきことはやるが、自分から危険に飛び込むことはしない。その按配あんばいを保つことが、LAで生き延びるための知恵であった。

LAでは、スポーツをやるか、ギャングに入るかの二択しかない」と彼自身も語る。しかし彼は、そのどちらにも完全には収まらない人生を歩んできた。母親に厳しく育てられたことも大きい。ベルトで叩かれて育ったと笑いながら振り返る彼の言葉には、そのしつけが自分を守ったのだという感謝がにじんでいる。

失われたフットボール、開かれた音楽の扉

Kalan.FrFrの最初の夢は、プロフットボール選手になることであった。San Diego State Universityサンディエゴ州立大学でコーナーバックとしてプレーしていた彼は、プロレベルへの移行が見え始めていたと振り返る。ドラフトの上位指名は難しかったとしても、どこかのチームのロスターに入り、そこから這い上がる自信はあった。

しかしその夢は、自身のトラブルによって断たれる。最終学年を前に法的な問題を抱え、大学チームを離れることになったのである。発覚する前に自らチームを退き、その後自首して収監された。彼はこの時期について「バッドキッドだった」と苦笑するが、その声にはまだ痛みが残っている。

ここで彼の人生を大きく支えたのが、「J」と呼ぶ親友の存在であった。Jは法廷において、Kalan.FrFrの関与を否定する証言を行い、自身が受けた刑期とKalan.FrFrの処分が同時進行となるよう取り計らった。そしてKalan.FrFrに「学校に戻れ」と告げた。この友人は既に他界しており、彼はこのエピソードを語る際に「RIP(Rest in Peace)」という言葉を静かに添えている。

大学に復帰はしたものの、フットボールの道は完全に閉ざされていた。その喪失感は深く、2、3年間はフットボールの試合を観ることすらできなかったという。コーナーバックとして鍛えた目は、テレビの中の選手のミスを見逃さない。「あいつ、角度を間違えてる」と憤る自分がいた。その感情は、嫉妬と未練と自負が複雑に絡み合ったものであっただろう。

しかし、この挫折が音楽への本格的な転身を後押しした。San Diego State時代から既に音楽制作は始めており、地元出身と勘違いされるほどの支持をサンディエゴで得ていた。フットボールという選択肢が消えたことで、すべてのエネルギーが創作へと集中した。

大学という場は、彼に音楽以上のものも与えた。父親がホテルチェーンを所有する双子の友人に出会い、毎日Gクラスで通学する彼らの姿に衝撃を受けた。コンプトンの少年にとって、それは別世界の光景であった。「大学に行ったことは、人生で最良の出来事だった」と彼は断言する。異なる世界の人々との出会いが、視野を広げ、人脈を築き、今の自分を形成したという認識がある。「脳は筋肉だ。学ぶことをやめた瞬間、生きることをやめるのと同じだ」。アスリートとして培った向上心は、フィールドを離れても彼の中で燃え続けていた。

“TwoFr Day”:コミュニティへの恩返し

Kalan.FrFrの活動は、音楽だけにとどまらない。彼は非営利団体を運営し、毎年地元のコミュニティに直接的な支援を届けている。その中核を成すのが“TwoFr Day”と名付けられたイベントである。

始まりはシンプルだった。叔母の家の前の通りを封鎖し、バーベキューを開き、近所の子どもたちに遊び場を提供する。ブロックパーティーと呼ばれる、アメリカの地域コミュニティ文化の原型のような催しであった。無料のTシャツを配り、子どもたちにはバウンスハウスを用意する。できることを、できる範囲で。それが原点であった。

そこから規模は拡大し、現在ではCompton College(コンプトン・カレッジ)を会場にした大規模な「バック・トゥ・スクール・フェスト」(新学年準備祭)へと成長している。PumaやChase Bankといった企業スポンサーも獲得した。バックパック(リュック)や学用品、衣服を配布し、パフォーマンスイベントも開催される。約3,000人の子どもたちが毎年参加するという。

この活動の根底にあるのは、彼自身の記憶である。新しい学用品を買えない友人がいた。バックパックすら持っていない同級生がいた。鉛筆一本持たずに学校に来る子どもがいた。「そんなのは作り話だと思ってる人がいる。でもあれはリアルなんだ」と彼は言う。成功してから時間が経つと、かつての貧困を忘れてしまいがちだと自覚しているからこそ、この活動を続けている。

注目すべきは、このイベントの費用である。Kalan.FrFrは自己資金から毎年約6万ドル(日本円で約900万円)をこの一日のイベントに投じている。出演者全員にギャランティーを支払い、食事を提供し、物資を揃える。それだけの金額を毎年個人で拠出しているのである。

活動の射程は“TwoFr Day”にとどまらない。Comptonの公立学校区(Compton Unified School District)の特別支援教育プログラムに3万ドルの寄付を行った実績もある。さらに、EBT(Electronic Benefit Transfer)と呼ばれる低所得者向け食料支援制度の削減が進むなか、子どもたちに無料の昼食と朝食を提供するプログラムの構築にも取り組んでいると語った。

この問題を彼が切実に感じるのには理由がある。叔母がメキシコ料理のエンチラーダを作ってくれた際、いつもより高い代金をApple Payで請求してきた。理由を聞くと「フードスタンプがなくなったから」という答えが返ってきた。自分自身はフードスタンプを利用した経験がないため、その感覚を忘れがちだと彼は認める。だからこそ、制度の網からこぼれ落ちる人々のそばにいたいのだと。

長年続けた活動の成果は、目に見える形で返ってきている。かつてブロックパーティーに子どもとして参加していた若者が、成長して運営側に加わるようになった。「あなたの“TwoFr Day”にブロックパーティーの頃から来ています」というメッセージを受け取ったとき、彼は自分がいた種が芽を出していることを実感したという。

"California Player"とLAの新しい音

アルバム"California Player"は、Kalan.FrFrの音楽的アイデンティティを凝縮した作品である。番組ホストのHollyが「ウェストコーストの感覚があるけれど、新しい世代のウェストコースト」と評したように、LAのDNAを宿しながらも、90年代のDr. DreやEazy-E、DJ Quikが築いたウェストコースト・サウンドの伝統とは異なる地平を切り開いている。

LAの音楽は、しばしば「ギャングの音楽」というステレオタイプで語られる。Kalan.FrFr自身もその問題意識を共有しており、「多くの人がLAの音楽をチェックしない。ギャングの音楽ばかりだと思っている」と指摘する。しかし彼は、そのイメージに対して「プレイヤーの音楽もあるんだ」と静かに反論する。ギャングバンギングでもドラッグディーリングでもない、もう一つのLAのリアルを音楽で描くこと。それが彼の創作の出発点である。以前の記事で掘り下げた彼の「プレイヤー論」の核心が、ここにも通底している。

制作プロセスも独特である。歌詞を紙に書くことはなく、スタジオで「パンチイン」と呼ばれる手法で楽曲を仕上げる。実体験、見聞きしたこと、友人の体験などが素材となり、即興的に言葉が紡がれていく。お気に入りの楽曲"Had You"については、仲間がビートを制作する場にたまたま居合わせ、「これは自分が作った中で最高の曲になる」と直感したと語る。翌日にはレコーディングを完了させた。楽曲"Save Me"では自らプロデュースも手がけている。

女性に向けた楽曲が多い理由について、彼はLA特有の事情を挙げる。ギャングに所属していない以上、ギャングの話題を歌うことはできない。ドラッグの売買に関わっているわけでもない。自然と、自分が実際に経験していること、つまり女性との関係性が楽曲の題材になった。しかしこれは消去法の結果ではなく、彼の生い立ちに根差している。母親のもとで育ち、姉妹に囲まれて暮らした経験が、女性の言葉や感情に対する深い理解を育んだ。「嫌っているんじゃない。理解しているから書けるんだ」。その姿勢が楽曲に説得力を与えている。

品質管理にも彼ならではの方法論がある。完成前の楽曲を友人たち、特に女性の友人に送り、どの曲が最も繰り返し再生されるかをモニタリングする。「女性が最高のA&R(アーティスト・アンド・レパートリー)だ」と彼は断言する。かつてアトランタに住んでいた時代にはストリップクラブで新曲をテストしていたことも明かし、「反応が薄かったらスタジオに戻る。アトランタは閉店しないから」と笑う。

番組内で交わされた「モーション」の定義をめぐる議論も興味深い。ホストのHollyは「モーション=金銭的な成功」と定義し、共演者のLou Will(ちなみにLou Willはアトランタが地元でございます。)は「金がなくても魅力を備えた男」こそモーションの体現だと主張した。Kalan.FrFrはこの議論に独自の視点を加える。「金を持っていないことを知っているのは、金を持っている側の人間だけだ」。表面的なステータスではなく、人としての本質を見極める目。その視点こそが、彼の音楽にも一貫して流れるテーマである。

LAの音楽シーンについて語るとき、アトランタとの比較は避けて通れない。アトランタでは互いを持ち上げ合う文化があるのに対し、LAではそうした連帯が生まれにくいと彼は率直に認める。ギャングの政治が音楽コラボレーションにも影を落とし、互いの楽曲を気に入っていても公に共演できないケースがある。「あいつらの曲はヤバい。でも裏でしか言えない」。そんな現実が、LAの音楽シーンの成長を阻害しているのである。

それでもKalan.FrFrは、自分の道を進み続ける。マスター(原盤権)を自ら所有し、出版権も手放していない。マネージャーやレーベルの担当者から「今すぐ全てを現金化して引退しても、一生困らない」と言われたとき、彼はようやく自分が積み上げてきたものの価値に気づいたという。それでも音楽を続けるのは、自分のやり方で、自分の言葉で、この街の物語を伝えたいからである。自らが選んだ「第三の道」は、今もなおその先に伸び続けている。

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