津城 27万石の城下町
藤堂高虎(1556~1630)は、慶長13年(1608年)に、家康から津(伊勢国の安濃郡・一志郡)と伊賀国を与えられ、家康の指示に従い、大坂豊臣包囲網として津城、伊賀城を作りました。
高虎は大阪の陣の後さらに伊勢国の鈴鹿郡・安芸郡・三重郡を加増され、北伊勢と伊賀の27万石となり、子孫は明治まで津城を動くことはなく、津の城下町は三重県の県庁所在地、津市(人口27万人)に引き継がれました。
しかし、伊賀上野城を持つ伊賀市(人口9万人)と違って、津市のイメージは薄いです。
伊賀上野城について、先に少し。
現在の伊賀上野の模擬天守は1935年に衆議院議員・川崎克によって木造で作られたものです。最初の城郭は、天正13年(1585年)に秀吉の指示を筒井定次(1562~1612)がうけ、3層の天守まで作りました。
関ヶ原の戦いでは東軍につき領土は安堵されますが、1608年藤堂高虎が入り、堀を深く、西の豊臣に向かって高石垣を積む大改造を行います。5層の天守も建造したのですが、その完成まじかの慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため天守は倒壊してしまいました。
1614年大坂の陣で勝利したので、以降、天守は作られることなく、高虎の弟の藤堂高清が城代屋敷に置かれ、明治まで世襲されました。
さて、津城です。
いつもと違い、現代の地図からです。私は美濃で生まれ尾張で育ちました。大学を目指す頃になると、東京は70年アンポで燃えさかり、大阪では万博が開かれました。あこがれの受験の結果は叶わず、自宅から通える二期校の名古屋工業大学となり、親は金がかからないと喜びました。私は、バイト代で好きに一人旅ができるのだと思いなおし、♫なのにあなたは京都に行くの~♫京都の町はそれほどいいの~♫を口ずさみ、名神高速道路をバスで京都に向かいました。従弟や高校の同級生が下宿をしていたので、転がり込んだのです。
名古屋から西に向かうのは、1964年オリンピック開催に合わせた新幹線か、1965年完成の高速道路(名神、名阪)か、とすでになっていました。もう半世紀たちますが、この道筋は変わりません。

鈴鹿の関を超える東海道、国道一号線で京都に行ったことはありません。古代では三関と言って、不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを閉める事によって、権力者のいる畿内を、蛮族(対東国だけで西に関はない。)から守るとしたのですが、現代の地図を見ても、狭矮な峠であり、今も交通の要所であるのは変わりません。
三重県は、伊賀、伊勢、志摩の三国からなっていますが、北から、養老山地、鈴鹿山脈、布引山地、紀伊山地と山々が連なり、大和、山城の国と隔てています。いつも「地勢の歴史」は、米の生産からみていきますが、今回は街道を中心に見ることにより、津城とその城下町の曖昧さを探ります。
第一章 川の流れを街道に重ねる
いつもの「地勢の歴史」のデータも並べておきます。土地の高低と川、縄文遺跡の分布、古墳の分布、そして稲の収穫高です。一級河川は、尾張・美濃との境界であり、かつ川船で国をつなぐ揖斐川は別置きとして、北から鈴鹿川、雲出川、櫛田川、宮川の4本しかありません。
西の山地から細く、短い川が何本も伊勢湾に流れ、南北の長い伊勢平野を作っています。古代、伊勢国の米の収穫高は美濃より多く、尾張の倍でした。縄文遺跡、古墳は高台にあり、扇状地に弥生の田んぼが広がり、古代の道が川幅の広い海岸沿いを避け縄文遺跡と重なるのは、ここも同じです。違うのは、それが神話の道であることです。ヤマトタケルの話は「継体大王と尾張の目子媛」に書きましたが、ヤマトタケルの最後は白鳥に乗ってしまうので、鈴鹿山脈のどこの上を飛んだかはわかりません。


ヤマト三輪山で天皇との同居していた天皇の祖先神アマテラスが垂仁天皇の指示によって新たな居地を求めて、志摩に落ち着いたと記紀は伝えますが、初めて伊勢にお参りをしたのは持統天皇であり、記紀を夫・天武天皇と、藤原氏の偉業でまとめ、律令制度を藤原京で展開したのも持統天皇でした。「桑名城下町」に書きましたが、①山の中の吉野から中央構造線に沿って、櫛田川沿いに山道を東に来る現代の166号線(和歌山街道)が、伊勢におまりする古代の道だと思います。
卑弥呼が敵対した南の隣国の狗奴国 とは伊勢であり、東国への港は宮川の大湊となりましょうか。
②中世の伊勢街道の一本は、吉野にあった南朝臣下の北畠氏が榛原(宇陀市)から、北畠神社のある国道369号線にそって多気に入り、松阪に流れる櫛田川の支流・仁柿川沿いの422号線を東進します。北畠氏が伊勢の守護を成しえた、南伊勢支配のかっての幹線ルート伊勢本街道です。
そして、③伊勢街道の現在の本道は、この北回り、初瀬街道となります。藤原京から北東の長谷寺を目指し、その先榛原(宇陀市)までは②と同じであり、そこから宇陀川(十津川)沿いに、現代の165号線と同じく伊賀盆地南の名張に入り、今度は雲出川にそって伊勢平野に降ります。近鉄大阪線がこのルートで今も関西と東海をつないでいます。②より長くなりますが、名張経由なので高低差が少なくなります。
近鉄が三重県の名張を大坂のベッドタウンとして売り出したのを大阪支店の方が買い、毎日大阪まで通っていました。この時私は、「三重は関西なのだ。」と改めて思い知らされました。

④大海人皇子が、女子供を引き連れ20人ほどで吉野から東国に逃げます。東国(伊勢、美濃、尾張)で兵を集めるには、大友皇子がいる近江の国、大津を避けないといけなく、近鉄大阪線の名張から、近鉄伊賀線にそって伊賀に入り、関西線、鈴鹿川にそって亀山から桑名に行き、そこに持統天皇を待たせました。大和街道、現代の名阪道路・25号線です。途中、大津にいた高市皇子は草津からJR草津線のルート(甲賀、油日経由)で山を越え、伊賀柘植で父の大海人皇子と合流し、大津皇子は野洲川沿いの東海道ルートで山を越え、鈴鹿の関で合流しました。さらに、大海人皇子は揖斐川の西、養老山脈沿いの美濃街道を垂水まで行き、尾張連の館で高市皇子の戦闘をみていました。


川の流れから、集落の場所が決まり、川の流れにそって山越えの街道ができます。いままでに一級河川の鈴鹿川、雲出川、櫛田川、宮川を拾いあげたのですが、近江からの宇治川と、伊賀から大和、山城と流れた木津川が、摂津、河内と流れる大河・淀川の支流であり、その木津川の支流6本:柘植川、服部川、名張川、宇陀川、布目川を知らないと、伊賀国の「川の流れを街道に重ねる。」ことはできません。十津川流域の伊賀国は、鈴鹿の関の内側であり、近江国と同様に5畿内ではないですが、古代より天下の内でした。
奈良時代740年、聖武天皇は平城宮を離れ、天武天皇の東国へのルートをなぞる行幸をします。伊勢街道から鈴鹿の関、美濃街道で不破の関に行き、近江の国を東山道で南下し、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都します。その恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都を移し、結果、平城京に戻ります。これこそ、西の難波と共に伊勢が天下の内であることを示すものです。

金田章裕は、その著「地形で読む日本」の中で、孝徳天皇が白雉元年(650年)に同じ難波であるが、難波長柄豊碕宮に移るときの「畿内」を、四至(四方を画する点。東は名墾横河、南は紀伊兄山、西は明石櫛渕、北は近江狭々波合坂山)の範囲内、だいたい50km以内だとし、天智天皇の大津京667年の四至は三関+高安城であり、それも50km以内だとしています。これによって、関所内の近江国と伊賀国が「畿内」にないのだと説明しています。

「畿内」は、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変(645年)で蘇我氏を滅ぼし、皇極天皇が孝徳天皇に譲位したあと、646年の「改新の詔」にて、全国支配を示すエリアとして、「七道」と共に上記四至の範囲内としたのですが、天武天皇、持統天皇による大宝律令701年の中で「畿内」は山城、大和、摂津、河内、それと、757年に河内から分離した和泉の五国とされました。そして、関所として天智天皇大津宮の四至が三関として残ったのでした。
京が平安京に固まってからの五畿七道では、京都の関所として近江狭々波合坂山がクローズアップされ、山城の北にある丹波こそ京の守りに重要だとされてます。
⑤伊賀街道、163号線。藤堂高虎が1607年に伊賀国と伊勢国を家康から任されて、豊臣包囲網の城を築きます。信長、秀吉の伊勢攻略により、守護所は安濃川と岩田川のあいだの津と、伊勢の北に寄ってきていました。高虎は、伊賀上野と安濃津を結ぶ街道「伊賀街道」を作ります。長野川沿いにのぼり、分水嶺を超えて服部川沿いにおります。伊賀からは、旧来の大和街道(笠木街道)を木津川沿いに関西本線と共に木津川市に降りていきます。浄瑠璃寺から東大寺の裏に出れます。木津川市から、163号線はさらに西に進み、大坂城の北に出ます。すなわち、藤堂高虎は伊賀街道を大和街道と結んで作ることにより、大坂から津に至る東西の大路を作ったのでした。伊賀から東への大和街道は、④のように関宿(亀山市)に向かいます。
1584年小牧長久手の戦いでは、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて、織田信雄の南伊勢を奪取します。1600年関ヶ原の戦いでは、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された3万の西軍は、津城に籠城する冨田信高を攻めます。(安濃津城の戦い)いずれも、大軍を大和から伊勢に入れていますので、⑤でなく③伊勢街道の本道を使ったのでしょう。そこで、高虎は大坂に直行できる山道⑤伊賀街道を作ったのだと思います。
伊賀と津との物資の交流ではたかが知れていますし、この道でお伊勢参りもないでしょう。津城とその城下町の曖昧さは、街道の曖昧さにあります。スワッ大坂!と伊勢から軍を大阪にまっすぐに運ぶ道であり、物流の道でないのでは都市の魅力要因となりません。津の南には鳥羽藩3万石しかなく、参勤交代の為の本陣、脇陣も要りません。津はお伊勢参りの宿場でしかなくなっていました。

江戸時代、近江八幡の商人は甲賀、鈴鹿の山を越えて四日市に抜ける山道、永源寺を通る⑥千草街道をよく使いました。その北には八風峠を越えて員弁川にそって桑名に抜ける⑦八風街道もありました。近江八幡、八日市(現・東近江市)から千草を経由して桑名に抜ける事も出来ました。
1559年2月織田信長は、美濃の斎藤義龍を避け、桑名から八風越えをして上洛し、将軍足利義輝に謁見し、尾張の戦国大名として名乗ります。実際、帰ってすぐ3月に岩倉城を落とし、尾張一国を支配します。あくる1560年5月には桶狭間で今川義元を討ち、全国デビューを果たします。
1570年、信長は越前の朝倉を攻めますが、近江の浅井に裏切られ敗走します。浅井に鯰江・市原(現・東近江市)で信長の岐阜への帰路を塞がれ、千草街道を使い、そこで銃撃されます。
宿場、伝馬が整備される前はよく使われた山道でした。
第二章 織田信長、羽柴秀吉の伊勢支配
以上見てきたように、津城とその城下町の曖昧さは、伊勢国の主街道が通っていなかったのに、守護所になった事に由来します。信長の伊勢支配から安濃津が戦国の歴史舞台に出てきます。津市の説明は「信長の弟・信包が津城を作った。」から始まりますので、その前の事から書きます。
まずは、都と伊勢との関係を簡単に述べます。
平家の栄華を誇った平清盛(1118~1181)は伊勢平家の出でした。平家は坂東の平将門だけでなく、伊勢にも根を張っており、清盛の祖父・正盛(~1121)は、伊賀国の所領を白河院に献上したことで北面武士に列せられ、清盛の父・忠盛(1096~1153)も白河院、鳥羽院に寵愛され、昇殿を許され、播磨と伊勢の国守となります。
室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏は平維衡の子孫を称しており、伊勢氏は代々政所執事を世襲します。伊勢貞親(1417~1473)は第8代将軍足利義政の養育係を務め、義政の成人後も幕政に大きな影響力を持ちました。また、伊勢氏の傍流・備中伊勢氏出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となっています。

信長が伊勢を侵略したときの守護は北畠家でした。北畠親房〈1293~1354〉は、後醍醐天皇の1333年の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記しています。親房は、伊勢の国司となった子の北畠 顕能(1326~1383)と共に、伊勢の多気に下ります。多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱となり、その後、戦国守護大名として南伊勢に君臨していました。
信長34歳は1567年8月に美濃・稲葉山城を攻めとり、井口を岐阜と改め首都とします。あくる1568年2月、信長は滝川一益に北伊勢を攻めさせ、弟の信包(1543~1614)25歳を北伊勢を支配する長野工藤氏に養子入りさせて、山城・伊勢国上野城(三重県津市河芸町上野)を居城とします。(後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復す)。信長の三男、信孝(1558~1583)10歳も、神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(友盛)の養子にしています。養子とは領土を奪う方便でした。
信長は1568年7月に足利義昭を岐阜に迎え、はや9月には軍を率いて上洛し、義昭を将軍にします。近江の守護大名・六角義賢は9月に信長の攻撃により東山道沿いの観音寺山城から排除されています。近江の国は国人が跋扈し、六角氏はゲリラ戦で信長に抗していたので、北伊勢での信包、信孝の養子縁組は近江での六角氏排除の一手だったのでしょう。1581年の伊賀平定、信包38歳まで戦いは続きます。
伊勢の守護大名・北畠具教〈1528~1576)は、1554年26歳で従三位権中納言に叙任されている公家でもありました。伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、1558年に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで、北伊勢に勢力を拡大し、1560年には志摩の九鬼も討ちさらに勢力を高めていたのですが、信長により、1569年10月籠城する伊勢大河内城(松坂市大河町城山)を50日にわたり攻められ、北畠具教はついに降参し城を退去します。信長の次男・信雄(1558~1630)11歳が北畠家の養子となり、北畠家を継ぐことになり、北畠庶流の田丸直昌が守っていた平山城・田丸城(三重県度会郡玉城町田丸字)に入ります。1571~74の長島一向一揆では田丸が働きます。
伊勢一国が信長に支配され、北畠が押さえていた安濃津も当然信長支配となります。信包は信長より伊勢安濃津城主に任命されます。形の上では、伊勢は織田信長の下に、滝川一益(1525~1586)と、信包、信雄、信孝とに分国されたのですが、織田軍として伊勢の軍団を率いることができたのは、一益44歳と信包26歳しかいません。「信長公記:馬ぞろえ」による織田家の序列は、長男・信忠、次男・信雄、弟・信包、三男・信孝でした。信長の子は多くいるのですが、信長は三男までしか目をかけていません。他は庶子、連枝衆と言い、長男・信忠の配下となります。
信包が安濃津の城主となったのは、津市の言うとおり「安濃郡」の「津=湊」でしょうが、今の平城である津城の城主となったとは言えません。安濃川沿いに権力を持った国人・長野工藤氏が城を持つなら、北畠具教が「要害」として構えた大河内城(松坂市大河町城山)と同様の山城でないとおかしいです。信包は、長野工藤氏の安濃津城に伊勢国上野城から移って来たのであって、津市の言うように城を作ってはいません。
後に、津藩第2代藩主の藤堂高次は次男高通の為に支藩の久居藩を建て、津の南、雲出川そいの久居の高台、野辺野に陣屋と城下町を作ります。安濃郡の「津」ならば、短い安濃川の河口でなく、この一級河川の雲出川の河口でないとおかしいでしょう。伊勢を北と南に分ける雲出川です。③伊勢街道沿いの雲出川の周囲には、多くの縄文遺跡と城跡があります。国人・長野工藤氏の安濃津城は伊勢街道本道添いの山の上のどこかにあったのだと思います。
織田信雄は信忠、信孝と共に、1572年14歳で元服し、1575年に田丸城を改築します。織田氏の伊勢支配の要の平山城ですが、1580年に燃えると、海岸沿いに平城の松ケ島城を作り、移ります。
では、誰が今のところに城を作ったのか?ですが、私は秀吉側近の奉行の一人、富田一白(と、その子の信高)だと思います。織田信雄は1584年小牧長久手の戦いで、所領の南伊勢を羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵によって奪取されます。1594年織田信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌1595年7月、富田一白が5万石を与えられ安濃津に入ります。富田一白は、文禄の役の後、1594年の第二期の伏見城普請を家康と共に行っています。
秀吉は1590年に家康を関東に移すと、福島正則(1561~1624)に清洲、田中吉政(1548~1604)に岡崎、池田輝政(1565~1613)に吉田、堀尾吉晴(1542~1611)に浜松、山内一豊(1545~1605)に掛川、中村一氏(~1600)に駿府と、与力大名を家康の旧領地に置いて城と城下町を作らせます。城は山城から平地におり、城下町と一体に作られました。富田親子も秀吉の指示で同様に動き、平地に津城を新たに作ったのでしょう。
また、いずれの武将も、関ヶ原の戦いでは家康についています。富田一白(~1599)の息子の信高(~1633)も、上杉討伐から急ぎ戻り、自ら作った津城に兵1700でこもり、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された3万の西軍から城を守りますが、結果は城を明け渡して、信高は一身田町の高田山専修寺で剃髪し、高野山に登ります。
関ヶ原の戦いに東軍が勝ち、戻った冨田は戦災で被災した津の城下町の再建に努めますが、住民も疲弊しており作業は捗らず、慶長13年(1608年)、冨田は伊予宇和島城に転封になり、家康の豊臣家撲滅構想に従い、伊予今治城から転封してきた藤堂高虎に、城と城下町建設は引き継がれました。
伊勢の国の支配者がどこを領国支配の拠点にするのか、支配者の交代によって、拠点の場所だけでなく、山城(大河内城)⇒平山城(田丸城、松阪城、伊賀上野城)⇒平城(松ケ島城、津城、桑名城)と城の形態も違ってきます。この50年の城の発達は、現代の津市と松阪市に直接つながる都市の原点というだけでなく、全国的にあった事でした。さらに、次の城名人・藤堂高虎の出現によって、伊勢の国のお城は、最高潮に達します。「50年のお城史」をティピカルに示す三重県博物館の登場を期待します。
第三章 藤堂方虎の城郭の縄張り図から、城郭の設計を考える。
城郭とは、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪で形成された「お城」です。天守だけでは「お城」にはなりません。天守がない「お城」の方が、江戸城をはじめ普通の「お城」でした。20もの高虎の「お城」をこのように俯瞰してみると、現地の地形に合わせた縄張りの展開の素晴らしさに驚きます。

郭の構成するには、高石垣、堀の防衛ラインを何重かに作り、そこに虎口、門の開口部を設けるのですが、江戸中期の軍学の中で、梯郭式、連郭式、環郭式、渦郭式と名がつけられ、その組み合わせがどうのこうのと注釈がつけられました。
それに基づき内藤昌も「城の日本史」では城郭の説明としています。
ここの城郭図は「松江の極秘諸国城図」ですので、正保の絵図とは違い、信用できません。
江戸初期に幕府提出の為に書かれた正保絵図が何度か転写されて、さらに軍学の概念で描きなおされています。広島と大分にもこのような大量の絵図が軍学として伝わっています。城の設計図は最高機密のはずですのに「極秘」とは笑えます。
地域によって、築城の時期によって「城郭の縄張り」の特色があるかと一覧表を作りました。しかし、現実は、梯郭式、連郭式、渦郭式、環郭式の組み合わせになっており、特色は見出せませんでした。守りの固いお城を作る場所の選定は、同時に繁栄する町を展開していく場の選定と合わせてするものです。設計者は「城郭の縄張り」をしつつ、同時に城下町の設計もしていたのでしょう。

城郭の設計は二つの考えがあります。
第一は、中世の要害+館城が、逃げ城の山城+根小屋となり、領国経営を主眼にして平山城と低い丘に城が降りてきて城郭の周りに城下町を作ったことから、造成になじむ「梯郭式」としました。
梯とは、寄りかかる意であり、本丸に二の丸が寄りかかり、二の丸に三の丸に寄りかかる姿を指します。言い方を変えると、郭(曲輪)が、本丸を中心に段下がりに二の丸、三の丸と張り出してくる設計です。丸となれば大きく建物が建つ広さですが、郭の構成の為に、帯曲輪、馬出しが小さくつく場合もあります。一条谷の逃げ城には現在、本丸、二の丸の名がついていますが、山ですのでこのように等高線にそって平地を作らざるを得ないだけで、段差はあっても、郭(曲輪)とはなっていません。観音寺山の石垣も郭(曲輪)でなく、山地の造成にしかみえません。


丘を造成するに、段々をずらしていけば、渦郭式になります。姫路城のように、入口をわからなくすることによって、迷路状の城郭になりますが、そのような本丸は使いにくいので、より低いところの二の丸が暮らしと政治の中心になりました。梯は、造成と高石垣だけでなく、堀による「寄りかかる郭」もあり、軍学では水城でも「梯郭式」と言っています。
第二の城郭の設計は、水城です。平地に降りてきたと言っても、当初は和歌山城、大和郡山城のように川より10~40m高い丘を選んで平山城としたのですが、山がないところでは、堀で郭(曲輪)を構成しないといけません、わかりやすいのは大坂城のように、堀を環状に回すことですが、何重にも回せないところでは、水の中の郭をつないでいくことなります。これが「連郭式」です。


この二つの設計の方法は、どちらが優れているというものでなく、藤堂高虎は梯郭式を基本として、水際の平城の小倉城、膳所城、津城では堀を環状に回しています。お城の選地と同時に城郭の設計はされました。
城下町は、集住させる武家地を身分に応じて城郭の周りに配置し、大手門を町に向かって開きます。その外側に街道を引き入れ、街道沿いに町人地とし、そこに大手道を通し、一番の盛り場には高札場を設けました。さらにその外には足軽屋敷を置き、街道の城下への入り口には問屋場(伝馬)をもうけ、町を守る寺社を外縁に並べました。川、もしくは運河は城郭の外堀なのですが、同時に物流動線でもあります。湊は町人地です。本丸を玄武(山)とし「四神相応:青龍(街道)、白虎(川)、鳳凰(湖)」の要素を選地に合わせトポロジカルに都市計画をしたのでした。

「天守の縄張り」とは、天守を小天守、隅櫓と関連させて、本丸のどこのどのように置くかです。
籠城の為に、天守を台所丸・小天守とつなげて、本丸の中にさらに天守丸(詰め丸)を置いていたのですが、すぐになくなります。
高虎の言葉「本丸は籠城の為に、小さい方がよい。」が残っており、慶長の江戸城、名古屋城の本丸は小さかったのでしたが、江戸城は元和に天守の位置を端に寄せて本丸を広くし、名古屋城では、本丸御殿は早々に放棄して、二の丸に御殿を作りました。
天守が災害で燃えてしまうと、城下からよく見えるところに単立させるか、隅櫓を天守の代わりとしました。江戸幕府が安定し、平和になると「天守は一城の飾り。」となったのでした。
第四章 高虎の津城を石垣からみる
今回は、土日だけ駐車場の小屋に間借りしている「安濃津ガイド会」のお婆さん85歳に声掛けされ、現地に立つ案内板を超える内容のパンフ(津市観光ボランテイアガイド作成)をいただきましたが、津市は公園内には案内板だけで、彼女たちの場を作ってあげようという気はなく、お隣の松阪市とは違い、お城を観光に使おうという意志は持っていないようです。


城下町と感じられるのは、津城の石垣と復元された櫓だけです。明治の写真と、現代の地図に落とした古地図を並べます。
寛文2年1662年に大火によって本丸が燃えたあと、南にあった天守、櫓は再建されず、北の京口御門(大手門)に向いてお城を見せたのでした。城郭北側の丑寅(北東)櫓、戌亥(北西)櫓は明治の廃城まで残ったのですが、幅100mの北の大きな堀は東西の幹線道路42号線(現:フェニックス通り)の為に明治早々に埋められたようです。南の堀の上には、高山神社に、警察署ですので、これも明治早々の埋め立てなのでしょう。
本丸の東乃丸は、駐車場になっており、そこに模擬天守が昭和33年に建てられました。浮世絵にある天守をそのまま作っており、ちゃんと復元をしようという意志はありませんでした。今は復元模型が作られており、容易に現状と復元内容が比較出来ますが、その記載は現地案内看板にはなく、ガイド会のパンフにしかありません。





ガイド会が石垣の案内図を作っていました。石垣を追いながら、お城を想像します。

⑫戌亥隅櫓 と 名古屋城北西隅櫓との比較

水面からの高さは同じです。名古屋の櫓は妻側ですが、平側の津より大きいです。加藤清正の「扇の勾配」はどちらもありません。隅石は名古屋より進化して短辺に二個下まで入れています。名古屋は上の方だけです。どちらも慶長15年(1610年)と同時期であり、縄張りも同じ藤堂高虎ですから、勾配・打ち込みハギは変わりません。
①丑寅隅櫓 隅石はキッチリそろっているが、見上げると「野面積」に見えます。昭和19年の地震で石垣が崩れたとあり、積みなおしているのでしょう。



④東側石垣 犬走が石垣の下水面との間にあります。石垣下の犬走は初めて見ました。いい加減な落とし(谷)積みでコンクリートが流され、水抜きパイプがあります。戦後の積みなおしのいい加減さは、模擬天守だけではありません。高虎は秀吉恩顧の外様大名ですが、縄張りだけで名古屋城の天下普請には参加していません。家康の信任厚い外様であったというのでなく、伊賀城と津城に財力を使い、同時に名古屋までできなかったのでした。篠島の石切り場からは名古屋城だけでなく、船でこちらにも運んでいたのかもしれません。



⑤南の石垣に、小さな築石の野面積があます。1595年7月、富田一白が秀吉に5万石を与えられ安濃津に入って城を作った事、その城を高虎が西と北に伸ばしたという史実にあっています。
⑥埋め門 寛永16年(1639)に本丸から南に脱出する門が作られています。奇麗な切り込みハギで門を囲んでいますが、東側は野面積、西側は打ち込みハギです。
⑦天守台が手前で、奥が付け櫓台です。天守台の石垣は藤堂高虎でしょう。打ち込みハギ、算木積ですが、古いです。寛文2年1662年の大火によって焦げた石が見えます。⑫内側の天守台は寛文に積みなおした切り込みハギでした。16m×14mですので、 最も小さい大和郡山の5層の天守台16m×18mからみて、三層でしたでしょう。



⑧西の丸を南から見ると、左に打ち込みハギ布積み、右に明治の落とし積の継ぎ目が見えます。この犬走りも明治でした。こんな犬走りを作っていては城の防御になりません。
⑨西の丸の西の 丸玉櫓台 土橋ですので、二の丸の地盤が低いことが分かります。
⑯堀の幅が広い所から、戌亥櫓台をみる。一番きれいな石積みです。寛文の積みなおしだと思います。






最近、正保絵図の写しかと思われる城郭図が見つかりました。狩野派の絵師でないですが、堀の幅、深さが書かれています。「天守の縄張り」が天守と櫓で分かるのですが、まったく名古屋城と同じです。埋め門が津城にありますが、名古屋城も、当初は天守の西に抜けるように石垣が計画されていたことが普請の割り付け図からわかっています。津城の場合は船で岩田川に逃げるのでしょう。設計者が同じで、時期も同じですので当然ですね。


第五章 城下町
津駅でなく、次の津新駅で降りたのですが、城下に降りる道163号に電信柱がなく、こじゃれたレストランがあるのでした。なぜ、この道が目抜き通りなのか?伊賀街道なのでした。南北の23号の伊勢参宮線ばかりを気にしていた私が、「藤堂高虎は伊賀の国と伊勢の国の両方を治めるために東西の伊賀街道を作った。」に気づいた一瞬でした。


第六章 絵図を見る



第七章 津市は、都市計画を失敗した。
津市には何度も行っていますが、「城下町」だったという知識はあっても、その実態を感じていませんでした。南の岩田川、北の安濃川の間に「城下町」はあったのですが、川幅は雲出川のように広くなく容易に橋がかけられました。

安濃川の北、城下町の外に、鉄道駅を設けて、県庁、三重大学を置いて三重県の中心とし新たに街区を切り、碁盤の目の城下町の真ん中に片側4車線の23号線を引いて、「城下町」を分断してしまいました。城郭の前の23号線沿いには百五銀行などが聳え立ち、通りからお城は見えません。
東丸の内、南丸の内、西丸の内、中央の町名がお城の周りにつけられていますが、東丸の内と中央は町人地であったし、南と西は城下町の外です。「丸の内」とは三の丸内に設けられるものなのですが、人口28万人の津市の歴史文化への目は細いです。
ブラリ、城下町探訪


















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