藤堂高虎の城20ヶ所と伊賀城。
藤堂高虎
2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、豊臣秀長も主役であり、20歳の藤堂高虎がその配下となるところから描かれています。珍しいことです。高虎は秀吉の命で朝鮮に渡り、秀吉なきあと家康につき、豊臣包囲網として城下町津をつくりましたので、家康の遺言「もしも国家に一大事(戦乱)が起きた時は、一番の先手(先鋒)を藤堂和泉守(高虎)とし、二番手を井伊掃部頭(直孝)にせよ」などと、家康との逸話だけが語られてきました。
三重県津市は盛り上がっていましょうが、「津城」は改めて城下町と共に別に長く書きます。こちらは「高虎の城」と「伊賀城」です。

藤堂高虎(1556~1630)の画像は信長、秀吉に比べ顔がゴツイです。6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男であり、遺骸は「体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、右の薬指・小指はちぎりて爪もないし、左の中指も一寸ほど短くなっていて、右足の親指の爪もなかった。」と伝えられています。
家康(1543~1616)の遺言には大坂の陣そのままに「先鋒は藤堂、二番槍は井伊」とあるので、まさに戦闘で勝ち取った外様大名の地位なのですが、譜代大名以上に家康に気に入られたのは、戦闘だけではなく、
大工の中井正清(1569~1619)、その前は正清の父・政吉(1533~1609)、奉行の小堀遠州(1579~1647)、その前は遠州の父・正次(1540~1604)と共に家康の近くに常々いて、おそば衆的な役割を果たし「築城名人」と世に言われたからだと思います。
築城名人には、美しい石垣を作った加藤清正もいますが、高虎の縄張りの数とそのバライエティは圧倒的です。
藤堂高虎の一生を「城づくり」から、見ていきます。
1556年近江国犬上郡藤堂村(のち在士村)に、土豪・藤堂虎高の次男として生まれ、14歳で浅井氏について姉川の戦いで初陣し、17歳で浅井家を出奔し、磯野丹波守員昌に仕え80石を得るも、1576年20歳にして、36歳の秀吉の義弟・木下秀長(1540~1592)に仕え300石を得ます。ここから主人が亡くなるごとに主人を替え、5人に仕えます。
第一章 豊臣秀長の配下
1577年には主人の秀長の下で播磨の秀吉旗下に入り、三木城攻めで敵将賀古六郎右衛門を討ち、名馬「賀古黒」を獲ます。1580年、秀長に従って領国の但馬に入り、一揆、土豪を治めます。戦功により加増され3,300石となります。
26歳で1582年の本能寺の変に遭遇します。「中国大返し」をして山崎の戦いに勝利し、1583年には秀長に従い伊勢国で滝川一益と戦います。4月賤ヶ岳合戦に戦功し、秀吉の天下取りに大きく貢献し、秀吉より1,000石、秀長より300石の加増を受け4,600石となります。
1584年小牧長久手の戦いでは、峯城(亀山市)・松ヶ島城(松阪市)を攻め、信雄軍を追いやります。
1585年、秀吉・秀長の紀州攻め。四国攻めに働き、いよいよ1万石の大名となります。秀長の和歌山城築城では、藤堂高虎は29歳で普請奉行となっています。


秀長(1540~1592)は秀吉の指示で建設行政を担当していますので、大和郡山城(1585年秀長が城主)小倉城(1587年豊臣秀吉の家臣であった森勝信が城主)の築城にも高虎はかかわっていたでしょう。熊野の赤木城(1589年)は、山中の小さな城ですが近年城跡が整備されました。




1586年(天正14年)10月、家康が秀吉に頭を下げるべく大坂に来るのですが、家康は大坂城の羽柴秀長の屋敷(西の丸)に泊り、その4日後には京に秀吉と共に行き、建築中の聚楽第を案内され、隣地に家康の屋敷を与えると秀吉より約されました。秀長の家来、藤堂高虎が家康の屋敷を作っています。
秀吉は1586年に大坂に来た大友宗麟をもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べていますので、家康も秀長に近づき、京の秀吉の城・聚楽第の近くの家康の屋敷は藤堂高虎が造営することもあり、ここから高虎と家康の交信が始まっています。
1594年(文禄3年)家康が助役として呼び出された伏見城は、秀吉が、秀頼が生まれたので大坂城を秀頼に渡すとして、秀吉の隠居城として前年竣工した「水石幽奇」の別荘(1期)を増築するものでした。
第二章 秀吉の配下
伏見城二期(1594年)指月伏見城
秀吉の天下普請により、家康が江戸から出て来て行うのですが、家康の配下に関西の城づくりの者はいません。後の江戸城の築城技術はこの時に秀長(1592年に死去、高虎は秀長の子・秀保13歳の後見役)の配下から得たのでしょう。
普請奉行は秀吉の金切裂指物使番・佐久間正実(1561~1616) でしたが、秀長の家老に小堀遠州の父・正次がおり、大工には正清の父・中井政吉がいた事でしょう。
正月から工事(2期)をはじめ、秋には秀吉が移ってきていました。5層の望楼型天守、御殿、山里茶屋などを作るのですが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次事件が起き、聚楽第破棄によって、さらにその殿舎も移されます。
1596年の慶長伏見地震でわずか2年ほどで倒壊すると、場所を裏の地盤の良い木幡山上に移して、直ちに家康が作り、秀吉配下となっていた高虎が縄張りをします。
高虎は、1592年文禄、1596年慶長の二度の朝鮮出兵に参加し、1595年宇和島城、1596年大洲城を作りつつも、秀吉に呼ばれて伏見に居を構えていたのでしょう。
実際の城づくりは家康とその配下が行う伏見城築城ですが、高虎は城づくりを通じて、家康と親しくなり、家康からも多大の信頼を置かれます。
伏見城三期(1597年)木幡山伏見城



大名が秀吉を取り巻くだけの伏見城下町ですので、いわゆる「城下町プラン」とはなっていません。

秀吉の住まいの前に集まる大名屋敷のすがたは、巨大は別荘地開発みたいです。領国を支配する権力者が住まう都市ではありせん。秀吉が支配するの日本国に割りふられた大名がその人質を伏見に住まわせる大名屋敷でした。この機能は、秀吉が亡き後、秀頼が大坂城に移り、大坂城下にひき継がれます。
1590年高虎34歳の時に、病の秀長の代わりに秀長軍を率いて、総構えの城・小田原城を攻めをしています。1591年に秀長が死ぬと、子の秀保(1579~1595)の後見役となり、1592年の文禄の朝鮮出兵では彼が行きます。
1595年秀保が急死し、主家断絶となり高野山に入るも、秀吉に請われ、5万石を加増され宇和島7万石の秀吉直の大名となります。
宇和島城


1596年の慶長の朝鮮出兵では水軍を率います。2ヶ月の突貫工事で高石垣の城・順天倭城をつくり、水軍でも勝利し、伊予の大洲1万石を得て、大洲城を作ります。



第三章 家康の配下
高虎は家康びいきの反石田光成でした。1600年の関ヶ原の戦いでは大谷吉継を相手に正面で戦闘を行い、近江時代の人脈から脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行って12万石の加増を得、伊予の今治20万石の大名となり、今治城を作ります。

現在の天守は藤岡通規の設計で、昭和55年(1980)に本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守です。引き続き、多聞櫓、御金櫓、山里櫓、鉄御門、武具櫓が建てられていますが、根拠は明治廃城の写真、古絵図によるものであり、復元的研究による確かな復元とは言えません。もちろん高虎の縄張りではありません。
高虎は1608年に伊勢・伊賀に転封されたおりに天守を解体し、後に丹波亀山城に使います。


1608年に伊賀・伊勢に移され伊賀上野城、津城を作りつつ、名古屋城の縄張りをし、1609年に丹波笹山城、1610年に丹波亀山城を修築し、1611年には熊本城に清正亡き後の加藤忠広の後見人として出向きます。


この間の家康築城の城、名古屋城以外に伏見城三期(1596年)膳所城(1601年)二条城(1603年)慶長の江戸城(1603年)伏見城4期(1606年)駿府城(1607年)の全ての縄張りに藤堂高虎は関わっています。自分の城ではないので縄張りだけでした。

膳所岬と呼ばれる湖に付きでた所に石垣をまわして天守を建てたのであって、湖を埋め立てのではありません。

寛文2年(1662年)に地震があり、建造物が倒壊した。このため西尾藩から転封された本多俊次は本丸と二の丸の間を埋め立てて本丸を拡張する等の城の大改修を行った。






誰の復元なのでしょうか。慶長江戸城の屋根材・鉛を駿府城と繋げたのは畏友の河田克博名古屋工業大学名誉教授です。


大工の中井家に残された図面ですと、最初は駿府城と同じ配置です。小天守が二つあり、多門櫓がつないでいました。










名古屋城天守台は清正の施工でしたが、名古屋城の縄張りをした高虎は、まじかに清正の熊本城を見ており、1620年秀忠の大坂城築城に際しては、日本一高い31mの高石垣を作ったのだと思います。加藤家が1632年(寛永9年)に細川家に変わる所は見ずに済みました。

手前、慶長期の加藤清正積み。と向こう、寛永期の細川積み。 細川期になると、以下のように進化した。 ①布積みと言って石垣の横の層が見える。 ②算木積と言って角石の長短を交互に見せる。 ③勾配がきつく、反り返しは垂直になる。
関ヶ原の戦いの後、慶長期には多くの城ができます。姫路城(中)池田の築城の1 では、私は47か所の城を書き出しました。
1614年の大坂冬の陣に向け、城下町・権力のシンボルである天守を頂きつつも、鉄砲、大筒による攻めに対し城の防衛能力を高めます。堀と石垣によって郭を構成し、漆喰、瓦により燃えない建物とし、信長の安土城より格段に防衛力を高めました。
しかし、徳川がイギリスから得た4門のカルバリン砲の弾8kgは、大坂城の堀を軽々と超えてしまい、淀君が怯えて大坂冬の陣は終わり、講和条件で堀を埋められ、1615年夏の陣で豊臣は滅びます。
一体、藤堂高虎はいくつの城を作ったのでしょうか。ここに書き出しただけで20カ所あります。普請奉行として、領主として、実際に工事まで差配したのは少なく、城の縄張り(土木設計)を請われるままに、現地に足を運んで行ったと私は思っています。
徳川秀忠の大坂城は1620年に着工して、1629年に竣工しています。高虎は晩年目が見えなく、どこまで行ったのか疑問ですが、「縄張りは築城の名手、藤堂高虎が行った。」とされています。1630年74歳で亡くなりました。
大坂の町の進展

寺町とセットで北の城郭(かっての石山本願寺)に伸ばし、既存の石山本願寺と四天王寺との二つの集落を結び付けて大きな城下町を一気に作ったのでした。北の上町の町人地には、堺、京の商人を移住させています。
名古屋城でも「清洲越え」と言って、5万人をそっくり清州から名古屋に移住させていますので、同じです。

(内田九州男1989)
谷町どおりから上町には、大名屋敷が並び、後の三の丸に町人が入り込み、城郭を囲む武家地、その外に町人地という彦根城下町のようにはなっていません。京の聚楽第の周りも武家屋敷が町人地になかに混在していました。中世の門前町のグリッドに大坂城下町は引っ張られて、街区は短冊状です。
大阪の陣で、攻め立てた頃の大坂は、すでに大変大きくなっていました。京都はさらに大きくなっていました。

(松尾信裕2004)
大坂は日本の台所として繁栄し、町を大きくしていくのですが、堀を堀り、その土で埋め立てする開発工事は町人によって行われます。 1612年に安井道頓(やすい・どうとん)が私財をなげうち、南堀河の開削に着手しました。 大坂夏の陣で道頓は戦死しましたが、大坂城主松平忠明の命で従弟の道ト(どうぼく)が工事を引き継ぎ、1615年に運河が完成、開削者・道頓の功績を後世に伝えるため、「道頓堀」と名付けました。

(復元内藤昌研究室 赤:町人地、緑:武家地、黄:寺社地)
大坂は城はあっても城下町ではありません。武家地はなく、町民の自治で行政が行われていました。城郭は二重の堀に囲まれただけでした。城の南の武家地は町人地に替わります。


藤堂高虎の江戸城は元和に秀忠によって壊され、明暦の大火によって江戸の城下町は大きくなり、世界一の人口100万人都市となります。
しかし、城郭は明暦の大火以後変わりません。名古屋城と比べました。

第四章 藤堂高虎の城郭の縄張り図から、城郭の設計を考える。
城郭とは、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪で形成された「お城」です。天守だけでは「お城」にはなりません。天守がない「お城」の方が、江戸城をはじめ普通の「お城」でした。20もの高虎の「お城」をこのように俯瞰してみると、現地の地形に合わせた縄張りの展開の素晴らしさに驚きます。

郭の構成するには、高石垣、堀の防衛ラインを何重かに作り、そこに虎口、門の開口部を設けるのですが、江戸中期の軍学の中で、梯郭式、連郭式、環郭式、渦郭式と名がつけられ、その組み合わせがどうのこうのと注釈がつけられました。
それに基づき内藤昌も「城の日本史」では城郭の説明としています。
ここの城郭図は「松江の極秘諸国城図」ですので、正保の絵図とは違い、信用できません。
江戸初期に幕府提出の為に書かれた正保絵図が何度か転写されて、さらに軍学の概念で描きなおされています。広島と大分にもこのような大量の絵図が軍学として伝わっています。城の設計図は最高機密のはずですのに「極秘」とは笑えます。
地域によって、築城の時期によって「城郭の縄張り」の特色があるかと一覧表を作りました。しかし、現実は、梯郭式、連郭式、渦郭式、環郭式の組み合わせになっており、特色は見出せませんでした。守りの固いお城を作る場所の選定は、同時に繁栄する町を展開していく場の選定と合わせてするものです。
設計者は「城郭の縄張り」をしつつ、同時に城下町の設計もしていました。「お城は都市」なのでした。

〇城郭の設計は二つの考えがあります。
第一は、中世の要害+館城が、逃げ城の山城+根小屋となり、領国経営を主眼にして平山城と低い丘に城が降りてきて城郭の周りに城下町を作ったことから、造成になじむ「梯郭式」としました。
梯とは、寄りかかる意であり、本丸に二の丸が寄りかかり、二の丸に三の丸に寄りかかる姿を指します。言い方を変えると、郭(曲輪)が、本丸を中心に段下がりに二の丸、三の丸と張り出してくる設計です。
丸となれば大きく建物が建つ広さですが、郭の構成の為に、帯曲輪、馬出しが小さくつく場合もあります。一条谷の逃げ城には現在、本丸、二の丸の名がついていますが、山ですのでこのように等高線にそって平地を作らざるを得ないだけで、段差はあっても、郭(曲輪)とはなっていません。観音寺山の石垣も郭(曲輪)でなく、山地の造成にしかみえません。


丘を造成するに、段々をずらしていけば、渦郭式になります。姫路城のように、入口をわからなくすることによって、迷路状の城郭になりますが、そのような本丸は使いにくいので、より低いところの二の丸が暮らしと政治の中心になりました。
梯は、造成と高石垣だけでなく、堀による「寄りかかる郭」もあり、軍学では水城でも「梯郭式」と言っています。
第五章 水城
第二の城郭の設計は、水城です。平地に降りてきたと言っても、当初は和歌山城、大和郡山城のように川より10~40m高い丘を選んで平山城としたのですが、山がないところでは、堀で郭(曲輪)を構成しないといけません、わかりやすいのは大坂城のように、堀を環状に回すことですが、何重にも回せないところでは、水の中の郭をつないでいくことなります。これが「連郭式」です。


この二つの設計の方法は、どちらが優れているというものでなく、藤堂高虎は梯郭式を基本として、水際の平城の小倉城、膳所城、津城では堀を環状に回しています。お城の選地と同時に城郭の設計はされました。
城下町は、集住させる武家地を身分に応じて城郭の周りに配置し、大手門を町に向かって開きます。その外側に街道を引き入れ、街道沿いに町人地とし、そこに大手道を通し、一番の盛り場には高札場を設けました。さらにその外には足軽屋敷を置き、街道の城下への入り口には問屋場(伝馬)をもうけ、町を守る寺社を外縁に並べました。川、もしくは運河は城郭の外堀なのですが、同時に物流動線でもあります。湊は町人地です。本丸を玄武(山)とし「四神相応:青龍(街道)、白虎(川)、鳳凰(湖)」の要素を選地に合わせトポロジカルに都市計画をしたのでした。
第六章 天守の縄張り

「天守の縄張り」とは、天守を小天守、隅櫓と関連させて、本丸のどこのどのように置くかです。
籠城の為に、天守を台所丸・小天守とつなげて、本丸の中にさらに天守丸(詰め丸)を置いていたのですが、すぐになくなります。
高虎の言葉「本丸は籠城の為に、小さい方がよい。」が残っています。そのとおり、慶長の江戸城、名古屋城の本丸は小さかったのでしたが、日々の行政の為に、江戸城は元和に天守の位置を端に寄せて本丸を広くし、名古屋城では、本丸御殿は早々に放棄して、二の丸に御殿を作りました。
天守が災害で燃えてしまうと、城下からよく見えるところに単立させるか、隅櫓を天守の代わりとしました。江戸幕府が安定し、平和になると「天守は一城の飾り。」となったのでした。
伊賀城
津城は藤堂高虎の石垣があると期待して行ったのですが、ありませんでした。伊賀上野城の石垣と津城の石垣を私は取り違えていたのでした。
そこで、1週間後に支城の伊賀上野に行きました。津から真西に大坂城をめざして大和街道を走る、その途上に作った城です。
天正13年(1585年)に秀吉の指示を筒井定次(1562~1612)がうけ、3層の天守まで作っていたところに、1608年乗り込み、新たに5層の天守を作りました。
家康を守る事から考えると、近江の井伊の彦根城と同様に最前線となります。家康の遺言「もしも国家に一大事(戦乱)が起きた時は、一番の先手(先鋒)を藤堂和泉守(高虎)とし、二番手を井伊掃部頭(直孝)にせよ」は、日常の備えでもあったのでした。
天守が見える駅前ですが「忍者線」「忍者市駅」とあり、忍者姿の親子が町中を歩いているのにびっくりしました。私は猿飛佐助、カムイ外伝、梟の城ですが、「NARUTO‐ナルト」は外人客を伊賀上野に呼んでいるようです。

第一章 石垣を中心に城郭を見る


1854年嘉永7年6月に発生した安政伊賀上野地震の被害を描いたもの。絵図は上野城部分を描いたものと城下町部分を描いたものの2舗1組からなる。その重ね合せ図。







当初から天守がなかったのでこのような縄張りにしたのだろう。5層の天守は完成前に倒壊。大阪の陣で勝ったので、もう城そのものの価値がなくなり、城代屋敷だけとなった。


という事は、ここに藤堂高虎が入る前の筒井の3層の天守があったと推定する。今もこの平山城で一番高い所となる。







南に二の丸より低い帯曲輪があるが、この絵では、石垣を低くしただけで、帯曲輪の平面が見えない。
現地では絵にある帯曲輪の石垣はなく、土を盛り上げた段差がある中、二の丸から三の丸にスロープで降りる。石垣にした石の残存が転がっていた。



























伊賀上野城に来ました。先週訪れた津城に、「オイオイ藤堂高虎じゃないじゃないか! 」で、伊賀の30mの高石垣です。大阪や名古屋では、ここまで近づけません。
名古屋城木造天守を願う人々よ、縮みあがりますぞ。昭和10年に国会議員が作った3層の木造天守がありますが、天守は外観だけであり、城見物の主役は高石垣です。
名古屋城石垣は、修繕すると言って北東馬出を壊して20年、何も進んでいません。
本丸以外は城内は無料にして、石垣を大切に見せましょう。観光客でなく、まずは市民の城にしないといけません。
第二章 ブラリ、城下町













城下町の郊外、東と南に町人が住み着いたので、他の城下町では「百姓」とあるところが「農人」なのでしょう。
ここで農業で身を建てられるわけなく、「百姓」すなわち「商業」「工業」なのでしょう。







この鳥観図をすべて信じてはいけないですが、前の写真はこの松林の向こうの更地を土塁手前から見ています。この高校の所に城代一家は住んでいたのでしょう。仕事場は、天正13年(1585年)に秀吉の指示を筒井定次(1562~1612)がうけ、3層の天守まで作った本丸です。絵で見るように、その西の二の丸に天守台があるのは変ですが、天守が燃えてから、屋敷地の方を高くしたのかもしれません。現地にある発掘のデータからそう思いました。人口9万人都市の学芸員は忍者で手一杯のようです。

忍者屋敷は城郭の裏手にありました。公園指定をしたとき、駐車場、芭蕉庵と、大きく造成をして平山城の形を変えていますね。



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