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肥後の古代を考える🪷菊池川流域編① 江田船山古墳 〜天の下を治すワカタケル大王の世つかえ奉る典曹人名はムリテ〜

こんにちは。今回は熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳を取り上げます。江田船山古墳は熊本県北部を流れる菊池川の下流域に位置し、6世紀前半の527年に九州で起こった「筑紫君磐井の乱」の少し前、5世紀後半に作られた前方後円墳です。同古墳は「天の下を治すワカタケル大王の世つかえ奉る典曹人名はムリテ」と銀象嵌された大刀(国宝)が出土したことで有名です。本記事、菊池川流域編①では、江田船山古墳とその出土品をレポートした後、江田船山古墳の被葬者と目されるムリテが生きた時代とムリテの事績を妄想してみたいと思います💭(8800字)

江田船山古墳は菊池川下流域の玉名郡に位置し、磐井の本拠地である福岡県八女市とも距離的に近いです。本シリーズ〈菊池川流域編〉では、菊池川流域の豪族勢力を玉名(下流域)•山鹿(中流域)•菊池(上流域)に3分してみていきたいと思います☝️

それでは早速、江田船山古墳の散策レポートから行ってみましょう🏃‍♀️

江田船山古墳

後円部側から見た江田船山古墳。周壕含む全長77m。
例によって解説板から一部引用して説明とさせて頂きます。

江田船山古墳は、清原台地に造られた前方後円墳です。この台地には、他に、5基以上の古墳が築造されていたと考えられています。古墳内部に納められた家形石棺からは、多くの遺物が出土しており、5世紀後半頃(約1500年前)に造られたと考えられています。

清原古墳群案内図。左手の塚坊主古墳は次回触れます

この古墳の家形石棺からは銀象嵌による銘文をもつ大刀や金銅製の冠帽、金製の耳飾り、金銅製の靴、中国製の銅鏡をはじめ武具や装身具、馬具など200余点が出土しています。これらの貴重な遺物が多数出土したことで、江田船山古墳は大変に有名です。

豪華な出土品については、後ほど歴史民俗資料館のレプリカで見ていくことにして、先ずは解説板にあった家形石棺を見てみましょう❣️

後円部に家形石棺の保存施設があって見学できるようになっているのですが、
ドアノブ故障中⁉︎ なんか嫌な予感。。

閉じ込められたら怖いので、注意事項に反してドアを半開きにしたまま中に入り、照明のスイッチを押したものの、え?何度押してもつかない( ゚д゚)⁉️
ということで、真っ暗で写真撮影も無理だったのでパンフレット画像を載せます🙇‍♀️↓

こちらの家形石棺、正式には妻入横口式家形石棺といって、妻部(長手方向の端)が開口している石棺です。石材は阿蘇凝灰岩で内部はベンガラ(鉄分を含んだ土を焼いた顔料)で赤色に塗られていました。この石棺内部から銀象嵌大刀をはじめ豪華な副葬品が一括して出土しました。副葬品のセット数から、5世紀後半から6世紀前半にかけて3人の人物が追葬されたと考えられています。

というのが公に書かれている情報なのですが、私は微妙に違和感を覚えました。この石棺、W1.1✖️D2.2✖️H1.45mと結構大きくはあるのですが、短甲(鎧)や冠が2、3セット、馬具や靴、多数の刀に加えて、成人3体を追葬するには流石に手狭な様に感じたのですが。重ねないと全部入れ込むのは無理そうだし。豪華な副葬品が一括出土してるので、それ以前に盗掘はされてないはずですけど、遺骨は発見されているのでしょうか?それで軽く調べてみました。

まず、江田船山古墳の石棺及び副葬品の第一発見者&発掘者(明治6年)は近所に住む土地の所有者の池田左十さんで、近所の方に出土品を見せたところ県の知るところになり、県から国に報告された結果、国が一括買い上げし、国宝指定された。現在出土品の現物は東京国立博物館にある。というのが大まかな流れです。詳細な発掘調査報告書というのは当時作成されておらず、大学教授により本格的に調査されたのは昭和に入ってからで、その時に改めて石棺の中からガラス玉などとともに、人の奥歯が一つだけ発見されて、同じく東京国立博物館に所蔵されているようです。出土品の写真集で写真を見ましたが、確かに人の歯でした。そして調査した大学教授は、石棺には被葬者が身近に身につけた副葬品のみで、鎧や刀剣などの鉄製品は石棺の外に副葬されてたのではないか?との疑問を投げかけています。

ということで、肝心の3体分の遺骨は(奥歯一本以外)現存しないようです。池田左十さんが石棺を発掘したとき、果たして遺骨はあったのでしょうか。これだけ豪華な副葬品が出てますので未盗掘なはずですが、遺骨が全然残ってないというのは不思議ですが。。今となっては確かめようがありませんね。すみません、細部に脱線してしまいました。違和感を覚えたら放置出来ないタチでして😅(←だからウザがられる)※遺骨の出土情報お持ちの方がいらっしゃいましたら教えて下さい!

さて、この横口式家形石棺は九州限定仕様になりまして、15例が知られています。分布状況は筑後•筑前•肥後で、これらの地域的な繋がりを示すものと考えられています。その内、筑後の石人山古墳は筑紫君磐井の祖父のお墓といわれていますので、横口式家形石棺を共通とするムリテの一族と筑紫君一族にも政治的な繋がりがあったと考えられます。

石棺の話が長くなってしまいましたが、これから和水町歴史民俗資料館に移動して出土品を見てみましょう🏃‍♀️

和水町歴史民俗資料館

江田船山古墳から出土した「銀象嵌銘大刀」をはじめとする多数の副葬品は全て国宝に指定され、実物は東京国立博物館に展示されているのですが、ここでは主要な出土品のレプリカを見ることができます。以下に、同館の解説書とともに、レプリカ(の一部)写真を載せますね❣️

     江田船山古墳の装身具
江田船山古の装身具には、玉類、耳飾り、冠帽、靴、帯金具等があります。玉類には勾玉・管玉・丸玉があり、材料も硬玉・水晶・ガラスと多様です。耳飾りは装飾を付けない純金のもの1対と、垂飾のある2対があります。垂飾のあるものは短いものと、金・銀の鎖3本からなる豪華なものがあります。金銅製の冠帽は3個、金銅製の帯金具は3個、沓は実用品ではなく底にスパイクの付いた儀式用のものです。これらの装身具は、すでに交流が行われていた朝鮮半島から入手したものが多いといわれています。

※解説書にあるように、装飾品がそれぞれ3セットでていることから、3人が追葬されたと考えられているもよう。

耳飾りのうち垂飾のある2組。出土した状態でのレプリカなのか黒ずんでますが、本物はもっと金色で美しいです✨

文化遺産オンラインによると、これらは当時の日本では他に類を見ないデザインだそうです💡ハート型の方は、そっくりな耳飾りが百済の武寧王の墓から出土しており、チェーン状のものは大伽耶で似たものが出土しているそうです。この2つの耳飾りは、熊本にいた豪族が百済や大伽耶と直接交流があったことを示しているとのことです。

金銅製沓のレプリカ

同じく文化遺産オンラインによると、沓のサイズは32㎝、銅板に金メッキされたもので底含め全面に亀甲紋が施され、一部に歩揺(ほよう)と呼ばれる小さな丸い鱗のような飾りがついていたそう。底のスパイクは左右9個。死者に履かせるために作られた沓だそうです。同サイトには、この沓はおそらく百済製で、古墳に葬られた豪族への最後の贈り物だったのかもしれないと書かれていました。(ジーン🥹)

江田船山古墳からは他にも鎧や刀剣類、馬具なとの武具もたくさん出土しています。(因みに鎧は2セット出土してます。)

鉄製短甲(鎧)と冑のレプリカ

私は最初、この短甲どうやって着るのかな?首や脇が苦しそう💦と思ったんですが、こちら側はどうやら背中側だったようです。前から見たらこんな感じ。↓

修復後の短甲。画像はパンフレットより。

それにしても、古代人たちは引き締まった身体でスタイルがよかったんでしょうね〜✨お腹出てたらこの鎧着れませんから笑

江田船山古墳を有する清原古墳群からは、筑紫君磐井に関わりが深いと目される、いわゆる石人石馬も出土しています。↓

清原古墳群出土の石人(実際は短甲を表現したもの)
石人石馬の九州内分布。

石人石馬は分布図のように筑後、肥後、豊後の有力者の古墳に立てられました。石人石馬は筑紫君磐井を盟主とする連合を象徴するとも言われます。
※因みに、石人石馬は九州外では山陰の伯耆(鳥取県)の石馬ヶ谷古墳に一例があります。

それではいよいよ、出土品のメインである国宝・銀象嵌銘大刀を見ていきましょう☝️

銀象嵌銘大刀

江田船山古墳からは刀剣類が20点ほど出土しており、その中で最も有名なのが銀象嵌名大刀です。柄の部分が失われていますが、全長約90cm、巾4cmで、背の部分に「ヤマト言葉」を含む75文字の銀象嵌の文字があります。以下、銀象嵌銘大刀のレプリカ写真と銘文内容です↓

ガラスと鏡の映り込み箇所消しました😅

銘文:「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利)弖、八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□(九)十振、三寸上好□(刊)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也」

解釈:「天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇456~479年)の世に、典曹(役所の仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺(1m強)の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安」

和水町HPより

重要なキーワードである獲加多支鹵(ワカタケル)大王や无利弖(ムリテ)については後ほど記載することにして、私はこの刀がどこで作られたのか気になったんですよね🤔製鉄と銀象嵌という高度な技術は当時の国内で可能だったのでしょうか?因みに刀を作った伊太和(イタワ)は日本人、文字を書いた張安は渡来人と考えられます。

菊池川流域は九州でも有数の砂鉄の産地で、江田船山古墳がある玉名地方には、中世には名刀同田貫も産出した小岱山製鉄遺跡群があるのですが、どうやらそれらは古墳時代後期(6世紀末)から本格稼働してるようです。また、近くの6世紀前半の古墳からは、製鉄したままの鉄塊や未完成の刀身が出土していることから、それ以前(5世紀後半)に作られた江田船山古墳の時代には、残念ながら地元で銀象嵌銘大刀を作ることは不可能だったと思われます。地元産だったら、古代の熊本、超先進的で凄すぎ✨って喜ぶところですけどね笑『菊水町史』には、畿内で作られたと考えられると書かれていましたが、朝鮮半島で作った可能性もあるんじゃないでしょうか🤔伽耶は鉄生産が盛んで倭の拠点もあったようですし、熊本からだったら畿内より伽耶の方が距離的に近いですしね。素人の妄想ですけど。

やっぱりムリテは凄かった⁉︎
古代の菊池川流域を妄想する💭

ここからは、獲加多支鹵大王(雄略天皇)と无利弖(ムリテ)の関係、そして、当時の朝鮮半島情勢を具体的に見ていって、当時の様子を描き出すことを試みたいと思います❣️まずは資料館の解説書を引用し、導入とします↓

    江田船山古墳に葬られた人
江田船山古墳には、出土品、副葬品の分析から、5世紀後半から6世紀前半にかけて3人の人物が順に葬られたと考えられています。葬られた人の一人は、「銀象嵌銘大刀」の銘文の主人公「无利弖(ムリテ)」ではないかとの見方もあります。

いずれにしても、軍事力にたけ、かつ海外との交流を盛んになしえた豪族であることを物語っています。朝鮮半島の三国時代に関連の深い多くの遺物が出土していたことは、菊池川、有明海、東シナ海の水運•海運の実権を握った人物であることを物語っています。

※今更ですが、私は解説書にある、江田船山古墳の被葬者はムリテだという説に立って本記事を書いてます。

ワカタケル大王とその時代

ムリテが仕えた獲加多支鹵(ワカタケル)大王とは、雄略天皇🟰倭王武(在位:456~479年?)と考えられています。この方は中国の宋への上表文で、先祖の代より大和の王自ら国内•国外への軍事遠征によって地方の首長を従え大王の地位を築き上げたと自負しているように、地方豪族との連合政権的な性格をもったそれまでのヤマト政権の専制王権化を推し進めた強い大王だったようです。それを表すように、江田船山古墳の銀象嵌銘大刀と、埼玉県の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣の「獲加多支鹵大王」の銘文からは、5〜6世紀にヤマト政権の支配が東国と九州に及んでいたことが分かります。銀象嵌銘大刀碑文からもムリテと雄略天皇との間に従属関係が成立していたことは明らかですが、このころはまだ大王を頂点とする中央集権体制への過渡期にあたり、ムリテなど地方の有力豪族はまだ相対的自立性•独立性を保っていたようです。それは、前述した豪華な副葬品をヤマト政権経由でなく、直接朝鮮半島から入手していることからも分かりますよね。(この九州豪族の独立性•独自性が後の磐井の乱に繋がるのですが、この話はまた次回。)

当時の朝鮮半島情勢

倭の古墳時代、朝鮮半島には北に高句麗、南に百済、新羅そして伽耶諸国が存在していました。414年に建立された高句麗の「広開土王碑文」や、369年に百済王から倭王へ贈られた「石上神宮七支刀」の銘文から、倭は古くから百済と同盟関係を結んで友好関係にあったことがわかっています。そして4世紀末の倭は、朝鮮半島に幾度となく渡海して、南進してくる高句麗に対して百済•伽耶と共同して戦ったようです。(日本書紀にいう神功皇后の時代か)雄略天皇の5世紀も基本的にこの状況は変わらず、倭国は高句麗に対抗する百済と伽耶を支援したと考えられます。
(※因みにこの頃の新羅は高句麗の支配下にあり、度々倭とも戦火を交えたようですが強国ではなかったもよう。新羅が強大になりヤマト王権と対立を深めるのは6世紀に入ってから。)

5世紀終わり頃の朝鮮半島。高句麗だいぶ南進してます。画像はWikipediaより。

雄略天皇の元、きっとムリテも朝鮮半島との繋がりをテコに活躍したことでしょう。ムリテは文官(典曹人)だったので、外交交渉を担当したのかもしれませんね。その中で百済や伽耶の王族や高官とも独自に信頼関係を築いたのかもしれません。その証が百済や伽耶産の豪華な副葬品なのではないでしょうか✨

輸送された菊池川流域産の石棺

ムリテが生きた5世紀後半代に、菊池川流域の阿蘇溶結凝灰岩で作られた石棺が、遠く九州外の愛媛•香川•岡山•大阪まで運ばれていることが分かっています。そのうち特筆すべき古墳は、大阪府藤井寺市の唐櫃山古墳長持山古墳になります。それらの古墳は允恭天皇陵(雄略天皇の父)とされる市野山古墳の陪塚(重臣の墓)になるんですが、その古墳に納められていたのが菊池川流域産の石棺なんですよ💡古代石棺研究の第一人者で新宇土市史の編者である高木恭二氏によると、大王や大王に近い中央の有力豪族の棺にどこ産の石棺を使うかは棺制のような決まりがあったと考えられ、主墳の允恭天皇陵:市野山古墳にも菊池川流域産石棺が納められている可能性が高いということです❗️(因みに宮内庁管理のため古墳を暴いて石棺の調査をすることは不可💧)
さらには、この頃(5世紀後半)の大王周辺の有力豪族はみんな菊池川流域産の石棺を使っているかもしれないとのこと😱❗️

因みにそれ以前の、4世紀末から5世紀中頃にかけての大王墓クラスの古墳には兵庫県の竜山石を使った長持形石棺が使われているのですが、この竜山石は、その頃勢力を誇っていた葛城氏と深い関係があったようです。雄略天皇は葛城系王族と葛城氏を滅ぼして王位に着いたので、葛城氏の没落によって大王クラスの石棺が竜山石から菊池川流域の阿蘇石に変わったと推測されます。

そしてその菊池川流域産の石棺製作地は同じく新宇土市史によると、現在の玉名市溝上から青木付近にかけての菊池川右岸付近であると考えられるとのこと。ちなみにその場所はこちら↓

青で色付けしたエリアが溝上、青木地区(だいたい)

石棺製作推定地は江田船山古墳のすぐ近くじゃないですか〜‼️そして、菊池川流域産の石棺が中央に運ばれたのは5世紀後半に限定されるとすれは、石棺輸送を主導したのは(証拠はありませんが)ムリテしかいないじゃないですか💡
江田船山古墳の地元『菊水町史』にも以下のような記述がありましたよ↓

石棺を作成し、何十日もかけて長距離を輸送することは人々を統率する強大な支配力と中央政権との緊密な結びつき、各地の豪族との友好な関係がなければ不可能である。このようなことが可能な菊池川下流域の首長は現在のところ江田船山古墳の被葬者をおいていないことから、江田船山古墳の被葬者及びその系譜にある首長が石棺輸送を指揮したと考えたい。

菊水町史 通史編 p.237

雄略天皇と繋がりの深かったムリテが葛城氏の竜山石製石棺にとって変わる形で菊池川流域の石棺を納品することになったのでしょうね💡(あくまで仮説ですが。)やっぱりムリテは凄かった。口だけの(銀象嵌銘大刀の銘文だけの)人物じゃなかったということですね〜👏

因みに、大王周辺に輸送された菊池川流域産の石棺(特注品)は、灰黒色で両端に円柱状の縄掛突起(輸送時に引っ掛ける突起)が蓋と身の両端にそれぞれ1つずつ付いてるのが特徴です。ピンクの馬門石製の石棺(後述)も可愛いのですが、菊池川流域産の石棺もスタイリッシュでカッコいいと感じました✨以下、藤井寺市の唐櫃山古墳紹介サイトで菊池川流域製石棺の写真が見れますので是非、ご覧ください❣️↓

さらに因みにですが、大王クラスの古墳の石棺は、この後、5世紀末からは現熊本県宇土市の馬門石産の石棺に変わります。詳しくは、肥後古代シリーズ、宇土編(火の君編)で書く予定です。参考までに宇土市史より大王クラスの石棺の変遷予測。↓

5世紀前半~中頃:
兵庫県竜山石製長持形石棺

5世紀後半:
熊本県菊池川下流域製舟形石棺?

5世紀末~6世紀初頭:
熊本県宇土半島製舟形石棺(蓋・身は別色)

6世紀初頭:
熊本県宇土半島製舟形石棺(ピンク色)

6世紀前半:
熊本県宇土半島製家形石棺(ピンク色)

6世紀中頃:
奈良県大阪府境、二上山白石製家形石棺、ま
たは兵庫県竜山石製家形石棺

新宇土市史 通史編 第一巻 p.498

肥後と山陰地方の関連性?

あんまり情報過多になると記事のまとまりがなくなって良くないとは思いますが、最後に気になった肥後と山陰地方(島根•鳥取)の関連性に触れておきます。本シリーズの趣旨から外れるので細部には突っ込みませんが、出雲西部の横穴式石室と肥後の横穴式石室の類似性が指摘されているようです。また、江田船山古墳にも採用されている横口式家形石棺は九州限定仕様と書きましたが、出雲西部最大の古墳である大念寺古墳と上塩冶築山古墳には、似たような横口式家形石棺が納められているんですよ。↓

更にいえば、九州•特に熊本に多い装飾古墳ですが(熊本212基)、山陰地方も装飾古墳の多い地域で、鳥取県と島根県合わせて79基もの装飾古墳が存在するようです。前述した石人石馬も、九州外ではだった1基、伯耆(鳥取県)の石馬ヶ谷古墳に存在しましたね。↓

私が参照した参考文献には、山陰の横穴式石室と石棺は、肥後の菊池川流域から影響を受けた説と、宇土半島周辺から影響を受けた説が載ってました。どちらにしろ、肥後の古代豪族と山陰の古代豪族の間には密接な関わりがあったようです。私は山陰地方の神話に疎いので、ここから両国の関係について妄想を発展させることはできませんが、ご興味がある方は調べてみられたら面白いかもですね。因みに伯耆と言えば、南北朝時代に南朝方の名和長年さんが活躍し、孫の代で一族郎党引き連れて、論功行賞で得た肥後八代に引っ越してきました。私はなんで鳥取から遠い熊本に引っ越してきたのだろうと不思議だったのですが、もしかしたら肥後と伯耆地方の古代からの繋がりによって八代に来たのかもしれないと妄想しました。(思いついただけで何の根拠もないです🙇‍♀️)

次回予告

〈肥後の古代シリーズ 菊池川流域編②〉
菊池川流域と磐井の乱〜そして白村江戦からの古代山城•鞠智城(仮題)

ワカタケル大王(雄略天皇)の権威のもと、我が世の春を謳歌したムリテ。しかし強いリーダーシップでヤマト政権を牽引してきた雄略天皇の死後、ヤマト政権は動揺します。そして九州では度重なる朝鮮半島への出兵で領民の厭戦ムードと不満も高まっており、九州の豪族達の気持ちも次第に変化していったと考えられます。そして継体天皇の代になり、筑紫の君磐井がヤマト政権に対して反旗を翻します。その時、ムリテの後裔達はどう対処したのでしょうか。そしてその後の菊池川流域の勢力図はどのように塗り変わるのかを妄想してみたいと思います!

追伸:
肥後古代シリーズは当初の予想に反して、古代史初心者の私には非常に歯応えがあり、噛み砕くのも消化するのも時間がかかるようです💧従って当シリーズは更新ペースがかなりゆっくりになると予測されます。そのため間に、お花や史跡と自然が織りなす風景をテーマとした軽めの記事を挿入するつもりです🙇‍♀️

悠久の菊池川。和水町の県道315号線より。

最後までお読み頂きありがとうございました😊

【参考文献•WEBサイト】
•和水町『菊水町史 通史編』2007年
•和水町『菊水町史 江田船山古墳編』2007年
•和水町『江田船山古墳 発掘150年記念紙』2024年
•玉名市『玉名市史 通史編上巻』2005年
•宇土市『新宇土市史 通史編 第1巻 』 2003年
• 小田富士雄『磐井の乱』吉川弘文館 1991年
• 井上辰雄『火の国』学生社 1970年
•倉本一宏『戦争の日本古代史』講談社 2017年
•文化遺産オンライン
•和水町HP
•玉名市HP
•藤井寺市HP

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