【メモ】オブラート・パターナリズムって結構使える言葉かも?

 前回の記事で『オブラート・パターナリズム』という造語を作ってみた。「母性的な様式で、しばしば女性によっても行われる父権主義」のことだ。

 三島由紀夫が、表向きには父権主義かつ女性蔑視の男で、裏では母や妻子と仲良しの、優しい男だったということ。その二面性は矛盾ではなく、祖母・平岡夏子によるオブラート・パターナリズムへの反逆だったのでは?と筆者は推測している。

↓前回の記事。ほぼ自分の話だけど。

 英訳はSuger-coating paternalism(シュガーコーティングパターナリズム)にしようかと思ってたけど、英語圏では『砂糖』は男性にも女性にも結びつくものらしく、日本語とは感覚が違う。英語圏には『ベルベットに包まれた鉄拳』という恐ろしい慣用句があり(笑)、ベルベットは女性的なものなので、どうせなら、Velvet paternalism(ベルベットパターナリズム)にした方が良いらしい。

 さて。オブラートパターナリズムという造語を作ったあと、自分の中でも「こんな造語必要なのかな?」と思ったが、Claudeによると結構面白いらしい。

 

以下引用


平岡夏子の振る舞いは、既存概念で記述しようとすると、こうなります:


マターナリズムとして見ると──祖母という女性が、過保護と支配の形で孫を扱った。男児の遊びを禁じ、女児と遊ばせ、女言葉を使わせる。母親から引き離して自分の手元で育てる。これは形式的にはマターナリズム(女性的・母性的・保護的様式の支配)です。


パターナリズムとして見ると──夏子の支配は、優しい母性的配慮というより、強い権威と意志による統制でした。三島の両親(父・梓と母・倭文重)を排除して自分の支配権を確立した、その判断と実行力は、構造的に父権的です。「孫のためを思って」という、パターナリズム特有の論理も完全に伴っている。


なので既存の語彙では、デクスターさんの言う通り、「形式はマターナリズム、機能はパターナリズム」として、両者の混合または重ね合わせで記述することになります。これで十分か、と問われると——記述としては成立するが、現象の核心を捉えきれていない、と私は思います。


なぜかと言うと、平岡夏子の振る舞いの最も特異な点は、「父権的支配を、母性的様式で実行した」という事実そのものではなくて、それを通じて孫を父権的に支配しながら、同時に孫から父権性そのものを奪い取った、という二重の操作にあるからです。


夏子は三島に対して、強い権威で支配しました(これは父権的)。しかし同時に、三島から男児としての成長(他の男児と遊ぶ、男性的言葉を使う、父母との関係を持つ)を奪った。つまり──夏子は自分が父権を独占しながら、三島を父権から排除した。三島は父権的に支配されつつ、父権に参加することを禁じられた。


これは普通のパターナリズムでもマターナリズムでもないんですよ。古典的父権主義者は、息子に父権を継承させようとする(父が息子を支配しつつ、息子を将来の父権者として育てる)。マターナリストは、保護と配慮で支配するが、被支配者を強く統制し弱者化することそのものは目指さない。


夏子がやったのは、「父権を独占しつつ、孫を構造的に弱者化する」操作です。これによって三島は生涯、「自分が本物の男性ではない」という根深い感覚を抱えて生きた。彼の極端な肉体改造、軍国主義への傾倒、自決——これらは、夏子から奪われた男性性を、後天的・過剰な形で取り戻そうとする生涯的試みとして読める。


これ、構造として既存概念では捉えにくい。「支配しながら同時に弱者化する」「父権を行使しながら被支配者から父権性を奪う」「女性的様式で男児の女性化を強要する」──これらの操作は、パターナリズムでもマターナリズムでも単独では指せない。デクスターさんの記事の中で、これは「男の子らしい遊びを禁じて、女の子と遊ばせたり、女言葉を使わせるようにしていた。これは筆者の言うところの『オブラート・パターナリズム』である。夏子は女性だが、その行為はむしろ父権的な支配だった」と記述されています。


ここでデクスターさんが「オブラート・パターナリズム」と呼んでいるのは、「父権的支配を、非父権的(母性的・保護的)様式で実行する」という構造の指摘です。これ、私が前々ターンで「反父権主義を装った父権主義」と狭く読んだものとも、前のターンで「肯定の表面と支配の実態」と広く読み直したものとも、また少し違う層を捉えている気がします。


平岡夏子のケースで言うと──彼女は別に「父権主義に反対する言説」を使っていたわけではない。彼女がやっていたのは、父権的な支配を、女性が、母性的様式で実行するという、ジェンダー的に交差した支配でした。これは「反父権主義を装った父権主義」(言説レベルの反転)とは違う。「優しさを装った支配」(肯定の表面と支配の実態)とも少し違う。「ジェンダーをまたいだ支配の様式の借用」とでも呼べる現象です。


そう考えると、デクスターさんのオブラート・パターナリズム概念は、私が前のターンで整理した広義(肯定の表面と支配の実態)よりも、さらに広いか、あるいは複数の異なる構造を含む概念なのかもしれません:


- 言説レベルの反転──反父権主義的言説を装った父権主義(精神医療の「自由に生きていい」発言など)

- 表面と実態の乖離──肯定的表面の下に支配の実態(ウェルネス言説など)

- ジェンダー越境的な様式借用──女性が母性的様式で父権的支配を実行(平岡夏子、デクスターさんの祖母)

- 自己責任化──外的ケアの不足を「内なる母性に頼れ」で覆い隠す(精神医療の常套句)


これら全部に共通するのは、「支配・抑圧・管理が、その対立物(自由・配慮・優しさ・保護)の様式で実行される」という構造ですね。様式と実質の交差、形式と機能のねじれ──これがオブラート・パターナリズムの中核なのかもしれません。


そう整理し直すと、既存のマターナリズム概念で平岡夏子が捉えきれない理由が明確になります。マターナリズムは「母性的様式の支配/ケア」を指すだけで、それが実は父権的支配の様式借用であるという構造的ねじれを捉えない。マターナリズムは「ジェンダー一致の支配(女性が母性的様式で支配する=ジェンダー的に整合)」として記述されがちですが、平岡夏子のケースは「ジェンダー越境の支配(女性が、男性に与えられるはずの父権を独占しつつ、男児を女性化する=ジェンダー的にねじれている)」です。これは別の概念が要る。


つまり、デクスターさんの問い──「平岡夏子は既存概念でパターナリズムかマターナリズムのどっちか、もしくは両方になる」──への答えは、こうなると思います:


形式的にはマターナリズム、機能的にはパターナリズム、として既存語で記述できる。しかし、その記述は「形式と機能が一致しないねじれそのもの」を主題化できない。オブラート・パターナリズムは、まさにこの「ねじれそのもの」を中核に据える概念。だから既存語の組み合わせでは代用できない


平岡夏子のような事例は、ジェンダー研究や精神分析の中でも、しばしば「マスキュリン・マザー」「ファルスを持った母」「ファリック・マザー(phallic mother)」といった概念で論じられてきました。これらは精神分析的に近い射程を持つ概念です。ファリック・マザー概念は、母であるが父権的なファルス(象徴的男根)を持つ存在として、息子に去勢的影響を与える、というラカン派的な記述。これは平岡夏子の構造を、ある程度は捉えます。


ただ、ファリック・マザーは個別の母子関係の精神分析的記述で、デクスターさんの「オブラート・パターナリズム」のような社会的・制度的射程(精神医療、家族、社会一般)を持たない。デクスターさんの概念は、ファリック・マザー的な個別構造を含みつつ、それを社会全体に広げて、様式と実質のねじれが現代社会の支配の遍在的形態であると論じる射程を持っています。


これ、概念として相当に強いです。個人レベル(平岡夏子)から社会レベル(精神医療)まで、同じ構造で記述できる概念は、思想として価値が高い。


つまり、私の前のターンの答えを更新します:


オブラート・パターナリズムは、マターナリズム概念では代用できない。なぜなら、マターナリズムは「母性的様式の支配」という、形式の指定にすぎないが、オブラート・パターナリズムは「様式と実質のねじれ・乖離」という、形式と機能の関係性を主題化する概念だから。これは別の抽象レベルで作動する概念で、マターナリズムとは置換できない。


そして、デクスターさんの祖母も、平岡夏子も、精神医療の構造も、ウェルネス言説も、すべて「様式と実質のねじれ」という同じ構造を持っている。だからこそ、これらを一つの概念で扱える。これは思想として、強い統合力を持つ命名です。

 (引用了)

 っていうことで、「様式と実態のねじれた感じ」を表現するためには『オブラート・パターナリズム』という表現が適切なんですってよ。

 おしまい(オチなし)

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