病人の雑記 うちのBBAと三島由紀夫とオブラート・パターナリズム
※『オブラート・パターナリズム』は筆者の造語です。
※三島ファンのために論点を先取りすると、
「三島由紀夫のメンタリティの中核は、祖母から押し付けられたパターナリズムへの反抗ではないか?」
「三島が表では女性蔑視や父権主義的なことを言いつつ、プライベートでは母親と仲良くしたり、家庭では優しい父親だったことも、全部同じ理由ではないか?」
という話を最後の方に書きます。
1.体調不良と変な夢
今日は早めに寝て、深夜に一回起きたあと、朝にもう一度寝た。ところが変な夢を見て、そのせいか、体調が悪くなってしまった。夢の内容はこうだ。
・筆者は茨城の祖母の家にいて、東京に帰るために色々と準備をしていた。
・2階の自分の部屋から降りて、1階の薄暗い洗面所(隣に服が置かれてたり、キッチンや風呂場がある)で、筆者は手を洗う。
・濡れた手をタオルで拭こうとすると、それは体を洗うための『ザラザラしたタオル』だった。
・筆者は明るいキッチンに行き、祖母に「おばあちゃん、このタオル、手を拭くやつじゃないよ」と伝える。
その夢は、悪夢というほどではなかったが、目が覚めた後、気分が良くなかった。筆者はブランチを食べながら、体調不良の原因について考えてみた。
候補1.梅雨の時期で、寒暖差が大きいから?
→東洋医学的にも、この時期は寒邪と湿邪が問題になりやすいらしい
候補2.ガンダムの考察記事がなかなか完成しないから?
→早くカテジナ擁護記事に手を付けたいし、その後はオリジナル心理学の話を書きたい。どうしても焦ってしまう
候補3.無意識下でのトラウマ反応が原因か?
→一番ありそう。身体的なストレス(寒邪と湿邪)も、ガンダム記事のプレッシャーも、夢の内容も、全てここに関連する。筆者は、父親の虐待の影響もあって、複雑性PTSDを発症している。
筆者は候補3を採用した上で、夢の内容について考えてみた。
2.夢の分析
水というのは感情や無意識の象徴であり、手を洗うという行為は、心を浄化するプロセスだと言えるだろう。ところが、手についた水は汚いものであり、いわば『未処理の感情』だ。それを拭こうとしたら出てきたのが、柔らかいタオル(=母性の象徴)ではなく、体を洗うためのザラザラしたタオル(=父性、摩擦、浄化の象徴)だったと。しかし、ザラザラしたタオルは水分を吸収しない。つまり、ザラザラしたタオルでは、精神的な回復のプロセスが完了しないわけだ。
そして祖母が出てくるわけだが。これが結構重要だ。うちの祖母は基本的に、孫が好きな穏やかな人物である。だが、うちの父親がクソみたいな毒親になったのは、元は祖母の教育(虐待)によるものだ。
あと、うちの祖母は精神科の看護師でもある。『看護師の家系なのに精神を病む』というのは一見矛盾しているようだが、筆者は同じようなパターンの人(その人は躁鬱)を見たことがある。
筆者から見ると、精神科というのは心を治す場所ではなく、社会という枠の中に患者をはめ込み、心を否定するための場所である。医療とか福祉というものは、人の心に疎い。そこでは患者の病状を見ることよりも、見た上で無視することの方がよく行われているし、表向きは「自分を否定せず、自分に優しくしましょうね」などと言っていても、実際に発せられているメッセージは「自由に生きるやつは許さない。閉じ込めるぞ」という、実に容赦ないものである。そうでなければ、患者が医者や看護師に対して怒った時、「とりあえず薬を飲ませて閉鎖病棟に入れる」という処置はしないだろう。まあ、早い話が、精神科はマイルドな牢獄であるということだ。看護師はその看守だ。
だから、祖母が父を乱暴に扱い、父が筆者を乱暴に扱う……という虐待の連鎖も、『看守の子が看守になった』と思えば、別に不思議なことではあるまい。
で、タオルの話に戻るが、「濡れた手を、柔らかいタオルで拭こうとする」という行為を心理学っぽく翻訳すると「感情を浄化し、その仕上げとして母性(受容性)の要素を求める」 ということになる。ところが、出てきたのは、体を洗うための『ザラついたタオル』であった。浄化という意味では同じジャンルかもしれないが、水分が吸収できず、手が濡れたままになる。しかも、硬くて摩擦が生じるから、それはむしろ『父性的』でさえある。
ともかく、『ゴシゴシ洗う段階(=浄化のプロセス)』と『水を拭く段階(=最後の仕上げ)』は全く別だ。柔らかいタオルがなければ、『浄化』は『未完了』のままになる。
夢の中で、筆者が「このタオルは違うよ(=本物の母性が必要だよ)」と告げた相手が祖母だったのは、おそらく偶然ではない。それは祖母は母性の象徴でありながら、筆者の文脈においては『母性の欠如』を象徴している。
3.自分を許すことの難しさ
筆者はよく、「自分を許して、自分を信じて、自分を愛しましょう」とか「内なる母性が大切」などと言われる。カウンセラーはもちろんのこと、インド人の占い師から最新のAIに至るまで、みんなそう言う(まあ、そのインド人が嫌いってわけじゃないけども……)。
しかし、そういったアドバイスには限界があって、「どこまで自分を許していいのか」という問題が必ず出てくる。例えば筆者が「今日はストレス溜まったな。今日は塩辛を食べたいし、酔いつぶれるまで酒を飲みたいな」と考えたとしよう。その考えを意見Aとする。
その時、筆者なら「いやいや、塩分とアルコールは体に悪いからやめよう。自分の体を守るべきだ」という意見Bと、「いやいや、自分を許してあげようよ。塩辛もお酒も好きなだけ楽しもうよ」という意見Cが発生する。体をいたわる意見Bと、欲に率直な意見C、どちらの方が『自分に優しい意見』だろうか。また、どれが『自分の本心』だろうか。そもそも意見Aは尊重すべきなのだろうか。自分の中で対立する複数の意見を、まるっと呑み込めるような力が『内なる母性』だと言うなら、そんな都合の良いものは実在しない。
つまり、自分が迷った時の選択に『自分への愛』だとか『内なる母性』だとかは役に立たないのだ。それは、自分の選択が自分・他人・心・体のいずれかを害する場合に、特に問題となる。その問題を解消できるのは、「何かを捨て、何かを選ぶ」という、父性であり男性性だ。
今回は塩辛と酒の話なので、「まあ、ほどほどに食べてほどほどに飲めば良いんじゃない?」という話に落ち着くだろうが、人生の中にはどうしても『0か1か、生きるか死ぬか』みたいな選択肢が出てくるはずだ。
そういう時に、「何かを捨てずに何かを得られる」という前提が成り立つのは、それこそ母親のミルクでも飲んでる時の話である。若者や大人が、孤独に、あるいは真剣に悩んでいる時の前提としては、あまりにも間違っている。
逆に言えば、筆者は『母性』とか『父性』といった概念を、『基本的には他人との関係においてのみ成立するもの』だと考えている。もし、筆者に必要だったのが『内なる母性』として、それを獲得したら夢の中の描写はどうなるのか?「手を洗ったあと、自分の服で手を拭う」という描写が出てくるのか?いやいや、そんな夢を見る人が世の中に何人いるだろうか。というか、自分の服で自分の手を拭いたら、ちょっと汚いじゃないか。筆者はそう思うのだ。
要するに、『内なる母性』的な観念というのは、「私はタオルを持ってないけど、タオルはあなたの心の中にあるのよ。だから頑張りなさい」みたいな詭弁であり、いかにポジティブで優しげな雰囲気であったとしても、筆者にとっては根性論の言い換えにすぎない。
4.オブラート・パターナリズム
世の中では、表向きは『母性』とか『自己肯定』とか『自由』とかを称揚しながらも、実際には『社会的な枠組み』とか『常識的なバランス』の方を優先している。それは精神科病院の中でもそうだし、病院の外でも同様だ。結果的に生まれるのは、「いかにも寛容な雰囲気を出しつつ、巧妙に他者を抑圧する」という偽善。筆者はそれを『オブラート・パターナリズム(糖衣的父権主義)』と名付けてみたい。苦い薬をオブラートに包んで飲ませるのと同じで、非父権主義的な文脈の中に、父権主義と同じものが潜んでいるのだ。
英語にする場合は、シュガー・コーティング・パターナリズム(Sugar-coating Patternalism)とでも訳しておけばいいだろう。
↓(普通の父権主義については以下を参照)
じゃあ、筆者の言う『オブラート・パターナリズム』の代表例はどんなものか。筆者が先ほど書いた「自己責任的な母性の押し付け」はその一つだが、もっと分かりやすい例がある。それは『女性の父権主義』だ。つまり、父親の変わりに母親が、あるいは『祖母』が、他人を守ったり導くように見えて、実際には抑圧している、という構図である。
筆者の祖母が、筆者の父を虐待していたことも、その例に該当するだろう。
5.三島由紀夫の話
筆者は諸事情で三島由紀夫(本名・平岡公威)がめちゃくちゃ嫌いであり、彼の本をなるべく読まないようにしながら、解説書を読み漁るということをしていた。
日タイハーフで、父親から虐待を受けた経験のある筆者にとって、三島由紀夫は日本的な父権主義の象徴であり、彼の作品や行動は、まさに『金閣寺』のような偶像だ。
そんな三島由紀夫だが、調べてみると、非常に興味深いことが分かる。
・幼少期、三島を支配していたのは三島の祖母・平岡夏子だった。三島には父と母がいたが、夏子は、三島を父母から引き離すようにして、過保護な教育を行っていた。また、男の子らしい遊びを禁じて、女の子と遊ばせたり、女言葉を使わせるようにしていた。これは筆者の言うところの『オブラート・パターナリズム』である。夏子は女性だが、その行為はむしろ父権的な支配だった。
・三島が小説家になろうとした時、猛反発したのは父親・平岡梓だった。三島は仕方なく公務員になるが、9ヶ月でやめてしまう。その後は小説に専念する。つまり、三島は父親の言う事を聞かなかったのであり、『父親の指示に子供が従う』という父権主義の世界観からはズレている。
・三島由紀夫は、表向きは父権主義・女性蔑視のようなことを語っていても、家庭では妻や子に対して非常に優しく、声を荒げることさえ無かったという。つまり、父権主義的な昭和のオヤジとは、180度違っていたのである。
こうした三島由紀夫の精神性を、一言で表現することは可能だろうか。筆者は、それを『オブラート・パターナリズムへの反抗』として捉えてみたい。それは2つの方向性を持っていた。
1.『自分の中の、男性的・父権的・女性蔑視的・破壊的な部分を真に許容し、それを表現すること』
→父権主義を捨てず、オブラートに包まないということ。最終的には、遺作の執筆と、三島事件での死に繋がる
2.『家庭において、妻子を支配し憎まれるのではなく、良き父・良き夫として振る舞うこと』
→父権主義を捨てるということ。
このように整理すれば、三島の二面性も、非常に分かりやすくなる。『オブラート・パターナリズムへの反抗』においては、両方とも大事なことだったのだ。
ちなみに三島は母との関係が良好だったそうだが、そういうところも、『紙の上での女性蔑視』が彼の全てではないことを示している。ちなみに、三島の母・平岡倭文重の話も興味深い。三島が政治活動にハマっているとき、彼女は、三島が自ら死に近づいていることを心配していた。一方、三島の死後には、三島の死の理由を知るために、大学に聴講生として通って、仏教哲学を学ぶなどしていた。こうしたエピソードからは、『健全で愛情深い母親』という感じがする。
6.結論みたいなもの
というわけで、夢の話に戻ると、『ザラザラしたタオル』は父性的な象徴だが、『筆者の祖母』は、オブラート・パターナリズムの象徴ということになる。結局、どちらも健全な母性ではないのだ。
夢の中の筆者は、父方の実家である茨城(実は筆者の生まれた場所でもある)から、東京(筆者の意識上の故郷で、今まさに母と2人暮らしをしてる場所)に帰ろうとしていたが、その過程で「準備をしていたら手が汚れたから、手を洗う」というシーンが入ったのはなぜか。というより、手を洗う・汚れを水に流す・濡れた手をタオルで拭く、という一連の行為は何を意味するのか。
汚れを取り除く行為は、「汚れを捨てて、清潔さを得る」という、まさに父性的な行為だ。
そしてもし、水が無意識の象徴で、手についた水を拭くことは、「無意識と意識を分離する」という、これまた父性的な行為だ。
つまり、『自分の中の父性や男性性を肯定する』ということが、『母なるものへの回帰』には必要で、それは『柔らかなタオル=健全な母性』によって成し遂げられる。それは男性性と両立する。
にも関わらず、「男性的な感情や行動にこだわるのはやめて、内なる母性に注視しましょう」みたいなオブラート・パターナリズムが混入すると、それは結局、男性性を否定しているのであり、浄化のプロセスを停止させ、心理的な摩擦を生むだけである。それが筆者の夢における『ザラザラしたタオル』や『祖母』だったのではないか。
ユング心理学では『セルフの統合』という概念を重視しているが、それは『セルフの分離的作用=内なる父性』を軽視するのと同じことかもしれない。そして今の精神医学も、結局は『ユングと同じ病理』に陥っている。
母なるものへの回帰や、内なる統合のプロセスに必要なのは、偽物の母性ではない。『内なる父性を許す・内なる分離を許す・何かを選び、何かを捨て、何かを害し、何かを声高に主張することを許す』という、一見すると母性的でもなんでもないようなレベルまで行く必要がある。
それこそが「汚れてしまった魂を洗い、柔らかいタオルに包んであげる」という、『本物の母性』なのかもしれない。

2026/06/12
p.s
ちなみにインド人の占い師からは「自分を許して、自分を信じて、自分を愛してください」という以外にも「あなたは女性とトラブルになりやすいから気をつけて」ともアドバイスされていた。しかし、「父権主義的男性の背後に、女性がいる」というパターンがあるなら、トラブルの当たり判定はさらにデカくなりそうだ。やれやれ……。
