楠十郎_乱世に散った伊勢楠氏最後の若き当主
天正12年(1584)5月、数え16歳の若武者が秀吉に処刑されました。
楠十郎正盛、伊勢楠氏の最後の当主でした。
その最後は江戸前期の「勢州軍記」に記されています。

加賀野井城の戦い
羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が争った小牧・長久手の戦い、その過程において加賀野井城の戦いが起こります。
加賀野井は今の岐阜県羽島市。
北伊勢からは木曽川を遡ったところに位置します。
天正12年(1584)5月、この加賀野井城を羽柴秀吉の大軍が攻めます。
当時、この城は織田信雄の支配下で、信雄方の伊勢国人も援軍として籠城していました。
その中にはこの記事の主人公、楠十郎正盛もいました。
秀吉卿楽田を立って勢を納め、同五月二日加賀の井の駿河守の子息彌八郎の城を囲み給う。信雄卿加勢をなす。林与五郎、子息十蔵・千草三郎左衛門尉・楠十郎・濱田与右衛門尉・小泉甚六・小坂孫九郎・峯与八郎・上木等、都合其の勢二千余なり。
羽柴秀吉の大軍を前に、城の将兵は降伏を申し入れました。
加賀の井降参を請うと雖も秀吉之を用いず。故に加賀の井謀を廻らし、同六日の夜、夜討を敵陣に撃ちて、駈け通さんと欲し、伊勢衆をもって子の刻許りに追手に打出で合戦を挑む。
しかし降伏は許されず、5月6日夜、城の将兵は強行突破を試みます。
一番に林新右衛門尉、其の頃新蔵、打破りて駈け通る。終夜の戦に城衆、千草三郎左衛門尉・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・峯与八郎・上木以下千許り討死す。就中、峯は生年十八歳無双の若衆なり。其の頃、小歌を作りて之を謡うと云々。又、楠十郎生年十六歳、林松千世生年十五歳、二人ともに生捕られ畢んぬ。此の戦に紛れ、大将林与五郎・加賀の井等潜に搦手を出で尾州に落行く。追手を撃ちて搦手より落つ。
夜を徹した戦いに、多くの伊勢国人が討たれ、16歳の楠十郎も捕らえられました。
生捕りし楠十郎、御前に引参るに瀧川儀太夫の聟なりき。浅野弥兵衛尉をもって一命を請い奉りしが、秀吉之を用いず遂に首を刎られ畢んぬ。
楠十郎は滝川一益の甥、滝川益重(儀太夫)の娘を妻としていました。
かつて柴田勝家と共闘して秀吉に抵抗した滝川一益・益重は、小牧長久手の戦いでは秀吉側についていました。
(おそらく滝川益重が)浅野長政を通じ助命を乞いますが、羽柴秀吉は聞き入れず、楠十郎は処刑されました。
引用した「勢州軍記」は戦いから約50年後に書かれた軍記物ですが、天正12年(1584)5月9日、羽柴秀吉が毛利輝元に送った書状には次のとおり記されています。
...、彼加賀野井城、去七日攻崩、大将分ニ者、勢住人采女・後藤・峯与八郎・あげき平三・楠十郎・千草常陸介・長ふけ并尾州之大将分ニ者、小坂孫九郎・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・渡辺甚右衛門尉下拾人、其外城中者一人も不漏刎首候条、...
加賀野井城を落とした秀吉の書状、討取った勢州(伊勢国)の大将の中に、楠十郎の名があります。
楠十郎は間違いなく歴史上に存在し、その他の伊勢国の小領主とともに、東西の戦いの狭間に散ったのです。

伊勢楠氏
楠十郎の伊勢楠(楠木)氏は、三重郡楠村(今の四日市市楠町)に拠点を構えた中世領主でした。
楠村は鈴鹿川河口の三角州に位置する湊町。
戦国時代の公卿・山科言継が「楠兵部大輔らが三河への船を手配した」と記すなど、楠村は伊勢湾海上交通の要所にありました。

(アプリ「スーパー地形」出力画像を加工)
前述「勢州軍記」は、楠氏を500人の兵を持つ家と記しています。
一、北方諸侍の事 北方諸家は、源平以後、北條・足利の代々、領地を給わるの人々なり。先ず、三重郡千草家、是一千の大将なり。同郡、宇野部、後藤家、是れ後藤兵衛實基の後胤なり。同部赤堀家、是れ武蔵守藤原の秀郷の後胤なり。同郡楠家、是れ五百の大将なり。徹芸郡稲生家、是れ守屋大連の後胤にして、幕の紋は、丸の中に二つ鷹の羽なり。朝明郡南部家、幕の紋は藤の丸靏の丸なり。同郡加用家・同郡梅津・同郡富田家は、是れ伊勢平氏富田の進士家資の後胤なり。同郡濱田家·員辦都上木家・同都白瀬家・同郡高松家・桑名郡持福家・同郡木股家、以下諸侍四十八家有りと云々。各々足利家の侍たり。一味同心の者なり。
ここでは、楠氏はあくまで北伊勢の諸家として列記された氏族のひとつであり、特段扱いが大きいわけではありません。
織田信長の伊勢侵攻に際しても抗戦しましたが、特筆すべき活躍があったわけでもなさそうです。
一方、伊勢楠氏には興味深い伝承があります。
南北朝時代の大英雄・楠木正成の後裔だという伝承です。
伊勢楠氏は楠木正成の後裔?
豊臣秀吉の出世物語・太閤記、江戸後期以降のバージョンには、伊勢楠氏・楠正具が北畠氏の武将として登場します。
城の南の方は楠正成の後胤は楠七郎左衛門正具(楠七郎左衛門後に八田を去て大坂本願寺顕如上人に従ひ三番の定専坊といふ)とて先祖に劣らぬ智謀武勇の名士を大将として固めたり 正具常に能兵士を調練して手足の如く働かせ功に誇す威を立す 偏に判官正成の風韻ありとて皆人靡き従ふ程に外見は柔弱ながら数年持固めし城なれば織田の大軍押寄攻るといへども少しも騒ぐ色を見せず纔かに五百の勢を以て戦へども日頃教導せし輩なれば正具が指揮に従がひ思ふ儘働きけり
楠正具は楠木正成の後胤であり、正成に劣らぬ武勇と智謀の士として、伊勢に侵攻する織田軍に八田城(現・松阪市)の守将として立ちはだかります。

(パブリックドメイン)
また、江戸末期の地誌「勢陽五鈴遺響」は次のとおり記しています。
楠ト名クルハ楠七郎左衛門尉橘正具 河内国楠正成力後孫ニテ永禄中ニ至リ累代此二住ス 信長記二見エタリ 旧名クスノキニシテ村名二モ名ケテ後ニ楠村ニ転訛セシナリ
江戸後期には「伊勢楠氏=楠木正成の後裔」との認識があったことが分かります。
全休庵楠系図
現在、ウェブ上に見られる伊勢楠木氏の情報の多くは、昭和13年の藤田精一著「楠氏後裔楠正具精説」と、そこに記される「全休庵楠系図」が主な情報源となっています。
系図によると、楠木正成の孫・正勝が応永の乱で負傷して死亡。
その子・正盛(後に正顕)が伊勢国鈴鹿郡の鹿伏兎に逃れたしています。
初正盛、母従三位紀刑部卿俊文女、小字多聞丸、兵衛助、賜大河内顕雅諱、応永六年己卯十二月於堺浦合戦敗亡、始勢州鈴鹿郡鹿伏兎谷平之澤江落居、永享十年戊午十一月没、行年六十二歲
以下、正顕の長男正重の系統(川俣氏)が続き、正顕の三男正威の子孫(木俣氏)が川俣氏に養子に入った後、楠氏に復姓、その後太閤記に語られる正具が出ますが、石山合戦で討死。
正具に男子はなく、娘の子(正具の孫)、盛信(十郎)が養子として家を継ぎました。
楠盛信 十郎、実者庄三郎盛邦嫡、母七郎左衛門尉正具女、永禄十二年己已誕生。正具無嗣子、依為三七郎左衛門嗣、祖父忠盛隱居依而続家、為庄三郎後見、天正十二年己三月峰落城、濃州下向、同五月七日加賀野井合戦為生捕被刑刎、行年十六歲。
十郎盛信は加賀野井で処刑され、伊勢楠氏は滅びた、と記しています。
なお「全休庵楠系図」は旧家に伝わったとされる系図のひとつであり、藤田精一は慎重な姿勢を表明しています。
凡そ我国諸家の系図は、多く後世の編纂者であるから、種々の誤記や、年代の錯誤等の為め、当時の正確資料に合致せぬ向が比々皆然りで、誠に持て余しものが多い。
この「全休庵楠系図」も、察するに全休庵が、家記又は楠家記伝等を辿りて集録したものらしいから、尤も厳正な検討を歴ねば、其歴史的価値が判らんのは申す迄もない。
そのうえで、諸記録・物証とあわせ約50頁にわたり検証し「本系図が史的に無意味でないことを示して居る。」等と評価しています。
三重県関町(現・亀山市関町)の「鈴鹿郡関町史」(1977)も、この系図などを基に、楠氏が鹿伏兎(加太)谷に逃れた伝承を記しています。
(旧)楠町史と地元伝承
楠氏が拠点とした三重県楠町(現・四日市市楠町)は、「楠町史」(1978)で伊勢楠氏を詳細に記しています。
それによると、伊勢楠氏は応永の乱(1399-1400)の際、伊勢国司北畠顕泰が密かに籠城方の楠氏一族をかくまったとのこと。
(前略)北畠顕泰は、落城前に城内に楠氏一族が城内にいることに苦慮した。この戦で北畠満泰も父顕泰の先陣として奮闘し終に討死している。落城寸前菊水の旗を守って楠一党は血路を求めていた。
北畠顕泰はこれを見て、楠氏の血を絶やしてはならないと、鹿伏兎孫太郎忠賀を先立て、危くも楠一党を味方に混入し寄手軍に偽装して脱出に成功したのであった。こうして楠氏一族が伊勢に向ったのである。
伊勢にきた楠氏は、応永七年一月も終る頃伊勢安芸郡楠平尾に至って、北畠、鹿伏兎氏の力添いでこの地を領した。(後略)
(鹿伏兎記、鹿伏家楠氏詳伝、邑戦異闘家記系図参照)
「楠町史」は上記のほか、伊勢楠氏の菩提寺・正覚寺の由緒や楠町に残る旧家の伝承、「鹿伏兎記」「鹿伏家楠氏詳伝」(詳細不明)、前述「全休庵楠系図」などを典拠に、楠城城主となった伊勢諏訪氏3代・伊勢楠氏5代を詳細に記しています。

また、出典は明記されていませんが過去帳と思われる文言を示し、八代楠城主・楠十郎の名を正盛(初名盛信)としています。
明治22年発行の「伊勢名勝志」は、正覚寺の旧記などから「一説によると楠木正成の遺児・諏訪十郎正信が信濃からやって来て楠城に入った」と紹介しています。
楠城址 本郷村字風呂屋ノ田圃中ニ在リ 今、三十坪許ノ小丘ニシテ松樹一株ヲ存ス 伝ヘ云フ 往昔楠易孝[十郎]之ニ居ル [一説二楠正成遺腹ノ子諏訪十郎正信ナルモノ信濃ヨリ来リテ此ニ居ルト云ヒ 又国司北畠氏ノ末裔ナリト云フ 孰レカ是ナルヲ詳ニセズ](後略)
江戸時代前半の資料
一方、比較的信頼性が高いとされる江戸時代半ば以前の書物には「伊勢楠氏=楠木正成の後裔」説の根拠を示すものは見当たりません。
16世紀末から17世紀初めとされる「北畠物語」
17世紀前半の「勢州軍記」
17世紀半ばの「勢陽雑記」
いずれも伊勢楠氏は登場しますが、その出自には触れていません。
これらの書物が書かれた当時は伊勢楠氏の由緒は当然のこととして知られていたので記録しなかった、という可能性もあります。
しかし、赤堀氏、後藤氏、稲生氏などの出自に触れながら、伊勢楠氏の先祖には触れられていないことは厳しく受け止める必要はあります。

信長の楠城攻めが記された部分
江戸時代半ば、藤堂藩・伊賀上野城代であった藤堂元甫が編さんした地誌「三国地志」(1763)では「楠十郎の系統は分からない」としています。
楠十郎 [名欠]
按太閤記等ニ出ルモノハ天正十二年五月戦死ノコト也一説摂津守主水ナド云者アリ系統詳ナラズ
江戸末期の藤堂藩の学究齋藤拙堂も、「伊勢国司記略」では(翻刻されている限り)「伊勢楠氏=楠木正成の後裔」説には言及していません。
伊勢楠氏は1584年に滅び、菩提寺の正覚寺も信長侵攻で焼失しました。
今の正覚寺は寛永20年(1643)に桑名藩主により再興されたということです。
伊勢楠氏の家伝はその多くが失われたでしょう。
かつて京の公卿も伊勢路の旅に頼った名族・伊勢楠氏。
彼らは楠木正成の後裔だったのか?
南朝ファンの一人として「そうであってほしい」という気持ちはありますが、冷静な目で見るなら「諸説のひとつ」とするのが現時点での正解でしょうか。
最期に~藤堂藩 無足人の記録~
天正12年(1584)、異国の地・加賀野井城で楠十郎が処刑され、伊勢楠木氏は絶えました。
前後して、南伊勢の太守・北畠氏をはじめ、千草、工藤、神戸、稲生、峯、赤堀、浜田など伊勢国の名族も歴史の表舞台から姿を消しました。
それから時は過ぎ、慶長13年(1608)に伊予から伊勢・伊賀に入府した藤堂氏は、地元の土豪を無足人として取り立て、平時は庄屋として、戦時には兵卒として、藩の機能を担わせました。
その中には滅びた氏族の末裔・旧臣が多く含まれていました。

(石水博物館企画展示を模写)
明治5年(1872)、旧津藩領の無足人の由緒調査書には、楠木正行の子孫である先祖が伊勢国司・北畠氏に仕えていた、と称する者があります。
先祖楠正行九代後胤和田平右衛門尉正光之三男和田平九郎光則戦死仕、其後次男和田八郎光祐有故改姓、於川治永録三申年北畠家ニ奉仕罷在候所、没落ニ付天正十六子年川治八三郎光實浪人安部村ニ居住仕、寬文五巳年川治八郎兵衛光房大部田村江引越申候、右之以由緒、享和二戌年十二月十八日帯刀御免許御書付頭戴仕候、以上
安芸郡大部田村無足人 壬申三年 川治岸治郎
伊勢無足人由緒書
その真偽はともかく、楠氏など旧南朝氏族の末裔が伊勢北畠氏を頼ることは十分あり得ただろうと思わせる記録です。
伊勢湾の重要港・楠を支配し、若き当主楠十郎を最後に多くの記録を残さないまま歴史の中に消えた伊勢楠氏。
その居城の跡は田畑となり城らしい遺構は残っていません。
ただ明治期に植えられた一本の楠木と傍らの案内板が、その栄華の跡を示しています。

参考文献等
山中為綱「勢陽雑記」三重県郷土資料叢書第13集(1968)
神戸良政「勢州軍記 上」三重県郷土資料叢書第39集(1984)*
神戸良政「勢州軍記 下」三重県郷土資料叢書第97集(1987)*
作者不詳「北畠物語」三重県総合博物館ミュージアムパートナー 歴史グループ(2023)
藤堂元甫「定本三国地志 上巻」上野市古文献刊行会(1987)*
齋藤拙堂「伊勢国司記略」三重県郷土資料刊行会叢書第79集(1976)
藤田精一「楠氏後裔楠正具精説」(1938)*
四日市市「四日市市史 第7巻 (史料編 古代・中世)」(1991)*
関町教育委員会「鈴鹿関町史 上巻」(1977)*
楠町史編纂委員会「楠町史」(1978)*
四日市市楠総合支所「新編楠町史」(2005)
安岡親毅「勢陽五鈴遺響 参」伊藤善太郎等翻刻(1904)*
「真書太閤記 : 重修 元之巻」文事堂(1887)*
宮内黙蔵「伊勢名勝志」(1889)*
「伊勢無足人由緒書」三重県総合博物館資料叢書No.6(2020)
「伊勢無足人由緒書」三重県総合博物館資料叢書No.7(2020)
*付は 国立国会図書館デジタルコレクション
画像:
「太平記英雄伝」(Wikipedia)
「北畠物語」「勢州軍記」(国立公文書館デジタルアーカイブ)
以下は、楠十郎と同じく加賀野井城に散った伊勢国人侍の記事です。
