容顔美麗 人に勝れたり…皆が涙した林松千世の最後
天正12年5月10日朝、一人の少年が処刑されました。
林松千世、数え15歳。
その最後に人々が皆哀れみ涙した、美しくも健気な少年でした。
加賀野井城の戦い
天正12年(1584)、織田信長亡き後、西の羽柴秀吉、東の織田信雄・徳川家康が対峙した小牧長久手の戦い、。
主力同士の戦いだけでなく、近隣の各所で戦いが繰り広げられました。
その中のひとつ、加賀野井城の戦い。
そこでは、織田信雄の与力として籠城した多くの伊勢国人が討死しました。

地理的に近い北伊勢の侍が動員された
加賀野井城の戦いを記した勢州軍記は、若く散った3人の少年たちに言及しています。
峯与八郎、享年18歳。
関氏の御三家・峯家の当主。
幼少時に当主であった兄が戦死し、峯家は没落して織田氏配下の小領主となっていました。
しかし、与八郎は女子供が小唄にして歌うような期待の若侍だったようです。
楠十郎、享年16歳。
伊勢楠氏最後の当主でした。
林松千世とともに生け捕られたと記されています。
すでに秀吉に降り従っていた滝川益重の娘婿であり、おそらくその伝手を使って、浅野長政を通し助命嘆願しますが、秀吉はこれを容れず処刑されました。
峯与八郎が討死し、楠十郎と林松千世が生け捕られたのは5月6日深夜の包囲網突破戦。
秀吉の大軍に囲まれ、降伏を容れられず、城からの夜間強行突破を試みた戦闘です。
加賀野井城に援軍として入った伊勢国人は約二千人。
そのうち半数の約千人が討死しました。
戦死者の中には、神戸家当主で林松千世の兄・神戸十蔵(林十蔵)も含まれていました。
故に加賀の井謀を廻し、同六日の夜、夜討を敵陣に撃ちて、駆け通さんと欲し、伊勢衆を以て子の刻ばかりに追手に打出で合戦を挑む。
一番に林新右衛門尉、其の頃新蔵、打破りて駈け通る。終夜の戦に城衆、千草三郎左衛門尉・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・峯与八郎・上木以下千許り討死す。
夜を撤した戦いの末、林松千世も楠十郎とともに生け捕られました。
又、楠十郎生年十六歳、林松千世生年十五歳、二人共に生捕られ畢んぬ。
林松千世の最後
勢州軍記の記録
加賀野井城の戦いについて記す勢州軍記は、林松千世の最後について筆を尽くして記しています。
林十蔵が弟松千世丸、容顔美麗人に勝れたり。見る者之を憐れむ。然りと雖も去年父の与五郎、神戸拝領の砌り秀吉の御恩を悦び、松千世丸をもって人質をなれるも当春之を返し給ふ。早くも此の如く敵となること、秀吉之を悪み給ひ是亦首を刎られ畢んぬ。
林松千世、15歳。
数え年齢ですので、今でいう満13~14歳です。
名からするとまだ元服前、幼い美少年。
秀吉方の人々も憐れに思い、陰に陽に助命を願ったことでしょう。
しかし、父の林与五郎は、神戸信孝(織田信孝)の死後、秀吉に伊勢神戸を与えられ、松千世を人質として差し出していたという経緯がありました。
いったん羽柴秀吉に臣従しながら織田信雄についた林与五郎。
「松千世とは林与五郎の子か!奴の人質の童か!」と、秀吉は対面もせず処刑を決めたかもしれません。
浅野長政を通じて命乞いした楠十郎も処刑されたことを考えると、降伏した者もすべて殺すという、秀吉の非情な方針だったのでしょう。
なお、林与五郎は大手(正面)の戦いで子の十蔵が討たれ、松千世が捕らえられる中、搦手(裏口)から逃げ出しました。
大将林(神戸)与五郎・加賀の井等潜に搦手を出で尾州に落行く。追手を撃ちて搦手より落つ。寄せ手皆合戦と聞て追手に向ひしが故に搦手に人無しと云々。東せんと欲せば西を襲ふとは是なり。
今の倫理観モノサシにあてれば超クソオヤジ。
しかし戦国の世の習い、あるあるだったのでしょうね。

覚悟を決めていた松千世
勢州軍記では、楠十郎の処刑の顛末を記した後、林松千世の最期を記しています。
同九日夜、情有る者此の旨を松千世に語りて曰く「最後の文を書きて父母の方に送らるべし」と云々。松千世曰く「早くニ、三日以前、夜々書置き候」とて文十ばかり取出し、形見を相副へて之を渡す。其の気色厳重なり。皆人涙を流す。遂に十日朝、心静かに念仏を唱へて誅せらると云々。
加賀野井城の籠城兵の包囲網突破作戦は旧暦5月6日子の刻、夜11時から日付が変わるあたり。
林松千世が捕らえられたのは、5月7日の未明までの間でしょうか。
その処刑の断が下された日時は不明ですが、3日後の10日朝、松千世は処刑されました。
彼を憐れに思う人が「(どうも処刑されるようなので)父母に遺書を書いてはどうか」と松千世に伝えたところ、「実は、捕らえられた2、3日前から、夜な夜な遺書を書いていたのです」と答え、十通ほどの遺書に形見を添えて、その人物に託しました。
その様子は「気色厳重」、取り乱すこともなくしっかりした様子で、人々の涙を誘ったということです。
5月10日朝、林松千世、数え15歳。
心静かに念仏を唱えながら斬られました。

林松千世の最期を記した部分
小姓の殉死
又、其の小姓、松千世十歳の頃より属き従ひし者の一人、相伴して追腹を斬る。是れ又人々之に感ず。
松千世が10歳の時から仕えてきた小姓が1人、殉死しました。
松千世と同年代なら遊び相手、年上ならお兄さん役の少年だったのでしょう。
戦国の犠牲となった美しい少年の死と、彼を後を追った小姓。
人々は感動せざるをえなかったということです。
終りに
林松千世の最期を記した勢州軍記は、紀州徳川家に仕えた神戸良政が記した軍記物で、その要約版勢州兵乱記が成立した寛政15年(1638)より前に原型があったと推測されます。
その父祖は神戸や船江に住んでおり、良政も父・神戸政房から伝えられた諸家の記録をもとに、地元の古老に取材してまわったということです。
その出自が確かならば、関氏の名族・神戸家を養子で乗っ取った林氏は、神戸家出自の著者にとって憎むべき相手。
しかし、上記のとおり、林松千世の最後については最も多くの文字を割いてその死を悼んでいます。
親族や地域の人々からも「そう、あの可愛い子も…」と惜しまれた少年だったのでしょう。

歴史の本流、小牧長久手の戦いの陰で、加賀野井に散った伊勢の若武者たち。
峯与八郎18歳、楠十郎16歳、林松千世15歳、ともに遊びともに学ぶ時もあったかもしれない伊勢の貴公子たち。
同時代の人々がその死を惜しみ、記憶していたことは間違いありません。
これからも新たな情報が次々と生まれる現在において、我々も彼らを語り継いでいかないと、やがて記録からも失われるでしょう。
私がこのようなブログを書く動機でもあります。
この記事は以上です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
参考文献等
神戸良政「勢州軍記」 (三重県郷土資料叢書 第97集)(1987)
勢州軍記画像:国立公文書館デジタルアーカイブ
