島左近(しま さこん/島清興) 拙者の履歴書 Vol.25 ~主なき世に貫く武の道~
この「拙者の履歴書」は、日経新聞の名物コラム「私の履歴書」をもしも戦国武将が書き記したら、という空想企画です。
第25弾は、島左近(しま さこん/島清興)。本人と一緒に、彼の人生を振り返ってみましょう。
一、大和の地に生を受けて
拙者、島清興の生まれた年は、後の世に天文九年(一五四〇年)と伝えられている。もっとも、これは享年六十一という後の世の伝えから逆に数えたものにすぎず、確かな証はない。生国もまた、大和国平群谷の在地領主・島氏の出とするのが最も有力な説で、ほかに対馬の出とも近江の出とも言う者がある。拙者の家は大和の国衆として細々と暮らしていた。幼名は忘れたが、成長するにつれて「清興」と名乗るようになった。幼き日々の記憶は遠く霞んでいるが、父が竹の棒を持って我に武芸の基礎を教えた情景だけは今も心に残っている。
「清興、剣は命じゃ。だが、それは人を斬るためではない。身を守り、主君に奉公するためのものじゃ」
父の言葉を胸に、幼き日から刀の扱いを学んだ。大和の地は平穏ではなかった。あちこちで国衆同士の小競り合いが絶えず、拙者の家も何度か難を逃れることがあった。そのような環境で育ったためか、物心ついた頃から危険を察知する鋭さと、いざという時の判断力が身についたように思う。
正直に申せば、拙者の前半生を伝える確かな書付はほとんど残っておらぬ。若き日に筒井順慶公の父・順昭公の目に留まり、小姓として召し出された――そのような話が後の世に伝わっているらしいが、順昭公は天文十九年(一五五〇年)に世を去られており、その頃の拙者はまだ十を出たか出ぬかの童である。拙者が筒井家に出入りするようになった時期も、その縁も、今となっては霧の中というほかない。父は島豊前守と称したと伝わるが、その名が書き留められているのは永禄十年(一五六七年)、平群の島城で起きた凄惨な事件の記録の中である。
二、筒井家での武名
いつの頃からか、拙者は「左近」と呼ばれるようになった。若い頃の通り名は今や忘れられ、「島左近」として通るようになったのである。初めて人を斬った日のことは覚えている。手が震え、足がすくんだが、主君の命令とあれば迷いはなかった。
永禄年間(一五五八~一五七〇年)、筒井家は松永久秀、三好三人衆と大和の覇権を巡って争っていた。この頃から拙者は先鋒を務めることが多くなり、「島の左近はたとえ百の敵が相手でも動じぬ」と言われるようになった――と、後の世の物語は語る。実は怖くない戦などないのだが、恐怖を表に出さぬよう常に心がけていたのは確かである。
筒井順慶公が長じ、自ら大和の采配を執られるようになった頃、拙者は三十を数えていた。順慶公は幼くして家督を継がれたが、才知に長け、特に政略では並ぶ者がなかった。拙者は順慶公の信頼を得て、しばしば特命を受けるようになったと伝わる。敵地への潜入や、裏切り者の処断など、人には言えぬ苦い任務も多かったが、主君の命とあれば躊躇いはなかった。
「左近、お前の剣は鬼神のようだ」
順慶公にそう褒められた日は、拙者の誇りであった――と、これも後の世の書物が伝えるところである。いつしか「鬼左近」と呼ばれたとも言うが、その異名も、拙者が生きた頃の書付には見えぬ。ただ一つ申し添えておけば、拙者は決して乱暴者ではなかった。むしろ、普段は静かで物言わぬ方であったが、一旦合戦となれば人が変わったようになるのだ。
三、織田の台頭と大和の動乱
織田信長公が近畿へと勢力を伸ばしてきたのは、拙者が三十半ばを過ぎた頃である。大和の情勢も一変し、筒井順慶公は苦渋の選択として信長公に従うこととなった。拙者は当初、外から来た武将に頭を下げることに抵抗があったが、順慶公の深慮遠謀を信じ、従った。
「左近、時には風に身を任せることも武士の智恵じゃ」
順慶公の言葉は、常に先を見据えていた。実際、信長公の庇護を得ることで、筒井家は大和の統治を安定させることができた。
この頃の拙者の姿を今に伝えるものが、一つだけ確かな形で残っている。天正五年(一五七七年)四月、拙者は春日大社に灯籠一基を寄進した。その石には「嶋左近丞清興」と刻んである。拙者の名が確かに書き残された、最も古い証がこれである。天正七年(一五七九年)には春日大社若宮祭の願主人も務めた。大和の地でそれなりの立場にはあったということであろう。
筒井家の家臣として拙者の名がはっきり記録に現れるのは、天正十一年(一五八三年)五月、伊賀で筒井の陣所が夜討ちを受け、拙者が手傷を負うた時のことである。後の世は拙者を「順慶公の右腕」「松倉右近と並ぶ左近・右近」などと語ってくれるが、同じ天正十一年の暮れ、羽柴秀吉公の命で筒井家中の十一人が大名並みの扱いを受けた折、その中に拙者の名はない。拙者は家中の中堅どころ、というのが実のところであったかもしれぬ。
天正八年(一五八〇年)、筒井家は信長公の支援もあって大和一円をほぼ平定した。この時、拙者は四十を超えていたが、なお戦場に立ち続けていた。采配を持つようになってからは、単なる武勇だけでなく、軍勢の統率にも力を入れるようになった。
だが、平穏は長くは続かなかった。天正十二年(一五八四年)、順慶公が突如として病に倒れ、数え三十六という若さで他界された。拙者にとって、これほどの悲しみはなかった。主君亡き後、養子の筒井定次公が家督を継いだが、若年でありかつ性格も順慶公とは異なり、家中は混乱した。
四、離散、そして新たな主君
拙者が筒井家を去ったのは、天正十六年(一五八八年)の二月と伝わる。数えて四十九の年である。その後しばらく、奈良興福寺の塔頭・持宝院に身を寄せていたともいう。
なぜ去ったのか。後の世の書物は「酒色に溺れる定次公を諫めて見限った」と説く。だが、これは定次公が慶長十三年(一六〇八年)に改易されて以後、あの方が暗君として語られるようになってから整えられた話であろう。近頃の学者衆は、拙者の所領と中坊秀祐殿の所領との水争いにおいて、定次公が中坊殿に有利な裁きを下されたことを理由に挙げておられる。こちらの方が、いかにも在地の領主らしい、ありふれた諍いではある。
いずれにせよ、拙者は主家を離れた。ただ、憤然と袂を分かって二度と口も利かなかった、というような話ではない。出奔から十年を経た慶長三年(一五九八年)にも、拙者は家臣を遣わして定次公に馬を献じている。人の縁というものは、そう簡単には切れぬ。
浪人となってからの数年、拙者がどこで何をしていたかを確かに語る書付はない。豊臣秀長公・秀保公に仕えたとする書もあり、蒲生氏郷殿を頼ったとも、その与力の関一政殿の縁を頼ったとも伝わる。天正十八年(一五九〇年)に拙者の妻が伊勢亀山に住まっていた記録があるゆえ、伊勢に縁があったのは確かであろう。
そのような中、石田三成殿との出会いがあった。
「島左近殿の名は聞き及んでおります。ぜひ私のもとで力を貸していただけませんか」
三成殿は若く、拙者よりも二十ほども年下であったが、その眼光と決断力に惹かれるものを感じた。拙者は新たな主君との出会いに運命を感じ、石田家への仕官を決意した。天正十八年(一五九〇年)五月、三成殿の書状に使者として拙者の名が見えるのが、石田家臣としての初めの記録である。同じ年の七月には、拙者自身が佐竹家の重臣・小貫頼久殿と東義久殿に宛てて書いた書状が二通、今も残っているという。
後の世に「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という落首が流布した。今は「三成に過ぎたるもの」の形で知られているが、古い書に見えるのは「治部少に」の方である。江戸の初め頃には広まっていたようだが、拙者や三成殿が生きた頃まで遡る確かな証はない。詠み手も分からぬ。似た形の落首に「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」というものもあるゆえ、これは一つの型として流行ったものかもしれぬ。
また、後の世の逸話集は「三成殿が四万石の身代であった頃、その半分の二万石を投じて拙者を招いた」と記す。「君臣禄を分かつ」という美しい話ではあるが、拙者が三成殿に仕えた頃、あの方はすでにそれよりずっと大きな身代であられた。拙者の知行がいかほどであったかを記した確かな書付は、実のところ一枚も残っておらぬ。ただ、破格の厚遇で迎えられたという実感だけは、拙者の胸にある。
五、石田家での奉公
石田三成殿のもとでの日々は、筒井家とは異なる緊張感があった。三成殿は豊臣秀吉公の側近として重要な地位にあり、全国レベルの政治に関与していた。拙者は年齢も経験も三成殿を上回っていたが、常に謙虚な姿勢で仕えた。そのような態度が三成殿の信頼を得ることにつながったのだろう。
「左近殿、あなたの経験と知恵は我が家の宝です」
三成殿はそう言って、拙者を家老のような立場に置いた。拙者に任されたのは、軍事ばかりではない。小田原征伐の折には常陸大掾氏の帰属をめぐる交渉を担い、佐竹家の重臣衆と幾度も書状を交わした。慶長の初め頃には、山田上野殿・四岡帯刀殿とともに、領内の年貢収納の責任者を命じられてもいる。槍を握る手で算盤も弾く。それが石田家における拙者の日々であった。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の折、拙者も海を渡ったと伝える書があるが、そのことを確かに示す記録は残っておらぬ。天正二十年(一五九二年)には、拙者の妻が近江佐和山の城に住まっていたことが書き留められている。
佐和山城での日々は、戦場とは違った充実感があった。三成殿は行政手腕にも優れた人物で、拙者はその姿勢から多くを学んだ。
「左近、武は民を守るためにこそある。民が豊かでなければ国は強くならぬ」
三成殿のこの言葉は、拙者の心に深く刻まれた――と申したいところだが、これも拙者の口を借りた後の世の言葉であろう。ただ、若い頃は武勇のみを誇りとしていた拙者が、年を重ねるにつれて、平和な暮らしを守ることこそが武士の本分だと考えるようになっていたのは、まことのことである。
六、秀吉公の死と主なき世の混乱
慶長三年(一五九八年)、豊臣秀吉公が亡くなられた。拙者はこの時、六十に近かった。加齢とともに体力は衰えていたが、知恵と経験は決して色あせていなかった。秀吉公の死後、天下は五大老・五奉行による合議制となったが、すぐに亀裂が生じ始めた。特に徳川家康公と石田三成殿の対立は日に日に深まっていった。
三成殿は秀吉公の遺言を守り、豊臣家の存続のために動いていた。しかし、家康公をはじめとする多くの大名は、そのような三成殿の姿勢に反感を持っていた。拙者は三成殿の忠義に感銘を受けつつも、時代の流れを感じ取っていた。
「殿、世はすでに変わりつつあります。ご用心ください」
拙者の進言も虚しく、三成殿と家康公の対立は決定的となった。慶長四年(一五九九年)閏三月、前田利家公が世を去られた直後、加藤清正殿や福島正則殿ら七人の大名が三成殿を糾弾する騒動が起きた。後の世はこれを「屋敷を襲うた」と語るが、近頃の学者衆は、実のところは家康公のもとへ束になって訴え出た、訴訟に近いものであったと見ておられる。いずれにせよ三成殿はこの一件で表舞台を退き、佐和山城に隠居されることとなった。
この危機的状況の中、拙者は三成殿を守るため昼夜を問わず警戒にあたった。三成殿の周囲から人が離れていく中、拙者は最後まで側に留まる決意をしていた。かつて筒井順慶公を失った悲しみを再び味わいたくなかったし、今の主君である三成殿を守ることこそが、武士としての最後の務めだと思っていた。
七、関ヶ原前夜、西軍挙兵
慶長五年(一六〇〇年)七月、運命の時が訪れた。徳川家康公が上杉景勝討伐のため会津へ向かった隙を突き、石田三成殿は挙兵を決意した。拙者は老体に鞭打ち、三成殿の側近として準備に奔走した。
「左近殿、ついに時が来ました。あなたの力が必要です」
三成殿のこの言葉に、拙者は生涯最後の奉公となるかもしれぬと覚悟した。六十年の生涯で培った全ての経験と知恵を注ぎ込む時が来たのである。
まず伏見城を攻略する作戦が立てられた。伏見城の鳥居元忠殿は少ない兵で籠城していたが、頑強に抵抗した。激しい戦いの末、城は炎上し、元忠殿は城兵とともに討たれた。拙者は敵ながら武士の生き様に敬意を表した。
しかし、その後の戦況は思うに任せなかった。八月、美濃の岐阜城が東軍の福島正則殿・池田輝政殿らに攻め落とされた。城主・織田秀信殿は我らの側に立っておられたゆえ、これは大きな痛手である。各地の大名の離反も相次ぎ、思うように戦力は集まらなかった。そして九月、家康公が急遽東海道を引き返してきた。美濃国大垣城に集結していた西軍は、迎え撃つ準備を整えた。
九月十四日、家康公が赤坂に着陣されると、大垣の城内は目に見えて動揺した。拙者は五百ほどの兵を率いて杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄殿・有馬豊氏殿の手勢を誘い込んで、明石全登殿とともにこれを打ち破った――と、後の世の軍記は書いてくれている。実際にこの日、大垣の周りで小競り合いがあり、我らが三十ばかりの首を挙げたことは、島津家の家臣が書き留めた覚書にも見える。ただ、拙者の采配がどれほど鮮やかであったかは、書いてくれた者に聞いてもらうほかない。
拙者は三成殿と作戦会議を重ね、決戦の準備を進めた。年老いた体に鎧をまとうのも容易ではなくなっていたが、最後の合戦という思いが拙者を奮い立たせた。なお、この夜に拙者が家康公の本陣への夜襲を献策し、三成殿が退けられた、という話も後の世に伝わっているが、これは軍記の作り事である。
「殿、明日の戦いがどうなろうとも、拙者は最後まで殿のお側にございます」
三成殿はただ静かに頷かれた。その目には、勝ち目の薄い戦いを知りながらも、武士としての覚悟が宿っていた。拙者もまた、明日が最期となるかもしれぬと、静かに覚悟を決めていた。
八、関ヶ原、最後の合戦
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、関ヶ原の地に両軍が対峙した。集まった兵の数は、書物によって七万とも八万とも言い、東西どちらが多かったかも一定しない。ただ、我ら石田の手勢が寡兵であったことだけは間違いない。
拙者は石田隊の前衛を担い、最前線に配置された。明け方からの霧で視界は悪かったが、やがて霧が晴れると同時に戦いの火蓋が切られた。
「進めーッ!」
拙者の声に応じて、配下の兵が雄叫びを上げながら東軍へと突撃した。正面から寄せてきたのは黒田長政殿、細川忠興殿、加藤嘉明殿、田中吉政殿らの手勢である。鉄砲の音、馬のいななき、兵の叫び声が混じり合う戦場。拙者は長年の経験から、戦況を冷静に判断しながら指揮をとった。
「退くな!前へ!常に前へ!」
そのとき、突然の衝撃。横合いから浴びせられた鉄砲の一斉射――黒田長政殿の手勢が、菅正利という者に鉄砲隊を率いさせ、拙者の側面に回り込んでいたのである。拙者は倒れた。
「左近様!」
近くにいた家臣が駆け寄ってきたが、拙者は彼らに手を振った。
「気にするな。進め。三成殿をお守りせよ」
拙者は自らの血で濡れた地面に横たわりながら、空を見上げた。六十年の生涯が走馬灯のように脳裏をよぎる。大和の地で育った少年時代、筒井家での日々、そして石田家に仕えてからの充実した時間。
「拙者は...悔いなし...」
九、武士としての最期
拙者が倒れたのち、戦は一気に傾いたと聞く。松尾山の小早川秀秋殿が山を下って大谷吉継殿の陣に向かい、続いて脇坂安治殿、小川祐忠殿、朽木元綱殿、赤座直保殿の四隊も相次いで東軍に転じた。西軍は、思いのほか短い刻のうちに崩れたという。
後の世は「昼まで山の上で日和見を続ける小早川殿に、業を煮やした家康公が鉄砲を撃ちかけて催促した」と語るそうな。だが、その話が書物に現れるのは戦から百年余りも後のことだと聞く。数万の鬨と絶え間ない銃声の中で、山上の本陣がどうしてその一発を聞き分けられよう。
拙者はどうなったか。それが、拙者にもよく分からぬのである。
黒田家の記録は、拙者が銃撃を受けて負傷し、その後の乱戦で討ち死にしたと記す。備中の戸川家には、戸川達安殿が拙者を討ち取ったという伝えもあるという。だが、拙者の首級も骸も、ついに誰も確かめてはおらぬ。合戦の後、京の都で拙者を見かけたと申す者が相次いだそうな。
京の立本寺の塔頭・教法院には、拙者が僧となり、寛永九年(一六三二年)六月二十六日に世を去ったと伝える位牌と過去帳、そして墓がある。近年、その墓が掘り返され、ほぼ全身の骨が出てきたという話も聞こえてくる。浜松には島金八と名を変えて田を耕したという話が、安芸の酒屋には子孫が続いているという話が、それぞれ残っているらしい。
いずれが真かは、拙者にも申せぬ。
ただ一つ、確かに申せることがある。この六十年余りの生涯を思い返せば、拙者は常に武士としての道を歩んできた。主君に忠義を尽くし、民を守り、時に厳しく時に慈しみながら生きてきた。筒井順慶公に仕え、そして石田三成殿に命を捧げた。
「武士として...悔いなし...」
夕暮れの関ヶ原の空を、拙者は今も覚えている。
後書き
島左近は、実名を清興という。天正五年(一五七七年)に春日大社へ寄進した灯籠に「嶋左近丞清興」と刻まれており、これが実名を確定させる物証となっている。世に流布する「勝猛」の名や「鬼左近」の異名は、いずれも後世の軍記・系図に由来し、同時代の史料には見えない。
今回の改訂で改めた主な点は次のとおりである。第一に、生年を天文八年としていたのを天文九年(一五四〇年)の説に改め、これが享年六十一という後世の伝からの逆算にすぎない旨を明記した。第二に、少年期に筒井順昭に召し出されたとする記述を削った。順昭は天文十九年(一五五〇年)に没しており、年代が合わない。筒井家臣として確実に記録に現れるのは天正十一年(一五八三年)の伊賀での負傷が最初で、同年末の筒井家中「大名成」十一人に左近が含まれないことから、当時の地位は限定的だったとみられる(金松誠『筒井順慶』戎光祥出版、二〇一九年)。第三に、筒井家出奔の時期を天正十六年(一五八八年)とし、「定次の酒色を諫めて」とする通説より、島領と中坊秀祐領の水利争いをめぐる裁定への不満とする説が有力視されている点を記した。出奔後の慶長三年(一五九八年)にも定次へ馬を贈っており、絶縁ではない。第四に、「島左近は十万石の値打ちがある」という文言を、実際に流布した落首「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」に改め、成立時期の不確かさを添えた。「知行の半分二万石で招いた」という三顧の礼の逸話は『常山紀談』(十八世紀)由来で、年代・石高ともに整合しない。左近の知行高を示す同時代史料は存在しない。第五に、「岐阜城も攻略し」という記述は誤りで、岐阜城は西軍方の織田秀信が守り、東軍に攻め落とされた城である。あわせて杭瀬川の前哨戦を補った。第六に、関ヶ原本戦で交戦した相手を藤堂高虎・井伊直政から、石田隊の正面にあった黒田長政・細川忠興らに改めた。第七に、討死の断定を改めた。首級・遺体は確認されておらず、京都立本寺塔頭教法院に寛永九年(一六三二年)没と伝える墓・位牌があり、二〇二四年には同墓の発掘調査で人骨が出土している。
主要な典拠として、花ヶ前盛明編『島左近のすべて』(新人物往来社、二〇〇一年)、谷徹也編『石田三成』(戎光祥出版、二〇一八年)、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、二〇一七年)、白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、二〇一四年)を挙げておく。なお、確実な辞世の句や名言は伝わっていない。
―――――――――――――――――
【改訂履歴】
・2025年3月18日 初出
・2026年8月4日 改訂(歴史研究の文献と照合し、誤りのあった記述を訂正しました。伝承・俗説に由来する逸話は、その旨が伝わる表現に改めています)
【読者の皆さまへ】
本連載は空想企画ではありますが、お読みくださる方に誤った歴史をお伝えしないよう、研究文献と照らし合わせながら内容の見直しを続けています。それでもなお、至らぬ点や誤りが残っているかもしれません。お気づきの点がございましたら、コメント欄でご指摘いただけますと幸いです。内容を確認のうえ、記事へ積極的に反映してまいります。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートされたお金はすべて、お城を盛り上げる「デジタル城下町プロジェクト」の開発・運営に使われます!