東京都写真美術館の3つの展覧会が問い掛ける写真と写真家の現在

東京都写真美術館で開催されていた3つの展覧会を回って感じたのは、写真とは何を描くのだろう、写真家とは何だろうということ。展覧会ごとの表現の違いが、美術館からの問い掛けにも見えました。
地下1階の展覧会「STORM」から2階の「作家の現在 これまでとこれから」、3階の「遠い窓へ」と、階を上がるに連れて、難度が高くなって行くのが、まずおもしろい。
「STORM」:その美しさで、社会課題の残酷さを顕在化する写真の力
地下1階の「STORM」は、環境や社会問題をテーマにした国際写真展プリピクテの受賞作品展。

写真家が、現実の社会を観察して見つけたテーマを、5ー10枚程度の組写真にまとめたもの。正統的に社会課題に向かい合い、どう作品に高めるかを追求した写真は、鋭敏で美しいことで、状況の残酷さを顕在化していました。

コロナ禍のコンゴの洪水の中、浸水した家で暮らす人々を撮した作品



高潮で浸水し、水浸しになった書籍を撮影したもの
「作家の現在 これまでとこれから」:5人の作家の写真から、作家性について考える
そういうストレートに迫る「Storm」展の写真に対して、2階の「作家の現在 これまでとこれから」は、エスタブリッシュされ、写真家というよりはアーティストの立ち位置の作家(石内都、志賀理江子、金村修、藤岡亜弥、川田喜久治)の代表作を展示。作家性とは何かを考えさせるディレクションでした。
例えば、3人が取り上げた広島の原爆の写真を比べれば、作家性の違いは明白。
石内さんの写真は、原爆資料館に寄贈された被爆者の「女性」の遺品と向かい合い、恣意性を排除し、ただ記録するように撮影。原爆が損壊し、命を奪ったそれぞれの人の気配が立ち上ります。

被爆者の遺品を撮した、石内都さんによる「ひろしま」シリーズ
藤岡さんは、何気ないふつうの日常の中での原爆の記憶を写すことで、原爆が遠い過去の話ではなく、現在と地続きになっていることを伝えます。

一方、各年代によって、撮影する対象を変えながら、社会を切り取って来た川田さんが原爆の風景を撮ったのは、1950-60年代。作家に取り、その時代の広島は、日本社会をもっとも鮮烈に象徴する場だったのでしょう。

川田喜久治さんの「地図」(1959-1965)シリーズの1枚で、「原爆爆心地の天井」
作家の作品は20ー30年間の代表作で、川田さんに至っては70年間。だから、手法が変遷した作家もいますが、それにもかかわらず、作家性が一貫している証左に見えたのは、タイトルの付け方。
石内さんは、つねに収蔵品ナンバーと寄贈者の名前で、ここでも恣意性を排除。藤岡さんや金村さんは、一つの決定的写真ではなく、写真的瞬間の集積を一つの作品とし、シリーズ名で表現。川田さんは、何を撮影したかったかが理解しやすいタイトルで、タイトルを追うと、作家にとって、それぞれの時代を表象したもの、あるいは、時代時代で引き寄せられたものが見え、その最たるものは「昭和最後の太陽、昭和64年1月7日」。
その4人と対照的なのが志賀さん。写真とタイトルを結ぶ回路やタイトルの真意を見抜くハードルが高く、見る側の読解力を試します。
見比べると、作家性とは、手法の一貫性ではなく、対象との距離感の一貫性の中に生き続け、タイトルがそれを示すことに気付かされました。




金村修さんの「Clashlanding in Tokyo's Dream」シリーズ


藤岡亜弥さんの「Hiroshima Today」シリーズの一部

川田喜久治さんの「地図」シリーズの1枚で、「日の丸」


川田喜久治さんの「ラスト・コスモロジー」シリーズの一部
左は「二十世紀日本最後の金環食」で、右は「昭和最後の太陽、昭和64年1月7日」


左は「ヒューマン・スプリング」シリーズの「人間の春・絶句」
右は「いつか、こいつらは自分を救うかもしれない、鉄は売れる、けど、そうしないように、こいつらもいつか土に還るまでここに眠らせておけるように、俺は稼ぐ」
「遠い窓へ」:写真が切り取った個人的な時間が不変的な時間に変わって行く
もっとも心動かされたのが、3階の「遠い窓へ」。正直、1巡目ではよくわからず、微妙に見えました。それが2巡、3巡するに連れて、少しずつ引っ掛かり始めます。いくつかの作品が、作家の個人的体験を通して、循環する時間を浮かび上がらせていたからです。
スクリプカリウ落合安奈さんの作品は、親の母国であるルーマニアで一年を過ごした記録「ひかりのうつわ」。取り留めなく撮ったスナップのような写真を、展覧会の3方向の壁に5台のプロジェクターで映し出します。
写真の合間に、物語を紡ぐ言葉が時々挟まれ、詩のような美しさ。たとえばこんな感じです。
・・・この国には 「ただいま」 という言葉がない 嘘みたいな春の始まり 街は喜びと花々に染まる はじまりの7日間 人々は空を仰ぎ 新たな季節の一巡りを占う この国の 春を告げる花を知らない・・・
最初、音を立てて写真を替えるプロジェクターをうるさく感じましたが、測定すると、写真は5秒ごとに切り替わり、プロジェクター自体が時を正確に刻む装置になっていました。エンドレスで繰り返す写真と音の中にいると、ルーマニアを超えた、いつまでも果てしなく続く時間という存在の豊かさに身を委ねるようで、その時間の循環の心地よさに、結局5回見ていた。




甫木元空さんの作品は、故郷に戻り、母を看取り、その後、子供が生まれて成長して行く風景を写し、ピンぼけも含めて、こちらも、個人的なスナップ風写真の集積。
個人を取り巻く小さな世界の小さな時間ですが、誰にでも撮れそうな写真による、誰にでも起こり得るシーンの集積を繰り返し眺めていると、それが、多くの人にとっての共通の時間であり、子が親となり祖父母となって、未来永劫繰り返して行くはずの時間であることに気づき、個人的写真の向こうに不変的な時間が立ち現れました。
循環する時間の象徴、海の写真が最後に現れ、物語は初めに戻ります。

故郷に戻ったときに最初に撮った写真だろうか?



「遠い窓へ」の作家が、いつか作家性を究め、2階の作家のようなアーティストとなるかはわかりませんが、未明の作家が提示する、どこか違う景色の新鮮さが魅力でした。
3つの異なる展覧会が併存することで見えて来る現在
一人の既知のアーティストの大きな展覧会もいいですが、得てして懐古的になるもの。それに対して、同じ写真という分野で、アプローチの違う、さまざまな写真家たちが、3つの展覧会で併存する状況は、写真や写真家の現在の在り方そのままでもあり、そして、一つの切り取り方では描き切れない現在社会の表現にもなっていた。
