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[vol.32] 親切第一な製薬王 荏原の星薬科大学・星一像

令和8年(2026)は、福島県政150周年であると同時に、猪苗代町出身の医学者・野口英世が生誕150周年を迎える年でもあります。
英世は細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で大きな功績を残しました。英世を支援した人物は少なくありませんが、その中に「東洋の製薬王」と称された実業家がいます。いわき市出身の星一(ほし はじめ)です。ショートショートで知られる作家・星新一の父親としても知られ、首都圏の福島県人の絆である東京福島県人会(※1)の初代会長も務めました。

星一は明治6年(1873)、いわき市錦町に生まれました。幼少期、近所の子どもたちと遊んでいる際に不慮の事故に遭い、右目を失明します。しかし、この大きなハンディを抱えながらも、星は懸命に人生を切り拓いていきました。
上京後は働きながら東京の商業学校で学び、そこで出会った自己啓発書『西国立志編』に強い感銘を受けます。海外で学ぶ志を抱いた星は、卒業後、アメリカのコロンビア大学へ留学しました。

留学生活の中で星は、伊藤博文や新渡戸稲造らと交流を持つとともに、野口英世と出会います。星と英世は、年齢が近いこと(星が三歳年上)、貧苦を経験していること、そして同郷・東北出身であることなど、多くの共通点がありました。東北なまりも相まって、二人は急速に親交を深めていきます。
明治38年(1905)、12年に及ぶアメリカ生活を終えて帰国した星は、留学で修めた統計学や経済学ではなく、留学中に自身の健康を支えた製薬の道を選びました。まず湿布薬イヒチオールの事業化に成功し、明治44年(1911)には星製薬株式会社を創業します。さらに、モルヒネの国産化や抗マラリア薬キニーネの製造により事業を拡大し、やがて「東洋一の製薬会社」と称されるまでになります。

星製薬には社内に教育部門が設けられ、これを端緒として商業学校、専門学校へと発展していきました。そして昭和25年(1950)、品川区荏原(※2)に星薬科大学が設立されます。現在、本館前には星一の銅像が建ち、歴史資料館には野口英世が使用していた顕微鏡も展示されています。

顕微鏡といえば、星と英世の間には、次のようなエピソードが残されています。

二人がアメリカで初めて出会った夜、星は英世に研究室を案内され、そこに置かれていた顕微鏡をのぞき込みました。星が両目で観察する姿を見て、英世は冗談交じりに「医学者になれよ」と声をかけます。顕微鏡は通常、片目をつぶって観察しますが、医学の専門家は両目を使い、観察とスケッチを同時に行うためです。
そのとき星は、自身の右目が義眼であることを打ち明けました。英世は自らの発言を深く恥じ、謝罪します。英世自身も、幼少期に左手に負った大やけどを「手ん棒」とからかわれた経験がありました。この出来事をきっかけに、二人の心の距離はさらに縮まります。
その後も星は英世の帰国旅費を工面したり、二人で発明家・エジソンを訪ねたりと、交流は生涯にわたって続きました。

星の信条は「親切第一」(※3)。それは、「自己に親切になれ、何人にも親切になれ、職務に親切になれ…」と会社の企業理念や大学の教育理念にも息づいています。二人が友情を深めたあの夜のような温かいまなざしで、星は生涯、人や世界と向き合っていたのかもしれません。

星薬科大学の星一像
星薬科大学の本館

<最後に>
星を支援した人物の一人に、政治家で医師の後藤新平(ごとう しんぺい)がいます。後藤は岩手県に生まれ、東京市長、関東大震災時の帝都復興院総裁等(※4)を歴任しますが、須賀川医学所(現・福島県立医科大学)の出身でもあります。ここにもまた福島ゆかりを見つけられそうです。

※1…東京福島県人会は、福島県出身等のつながりを持つ首都圏の方々が、自主的・自発的に結成した親睦団体。
※2…品川区荏原は、近くに武蔵小山商店街パルムや戸越銀座商店街等があり、活気に満ちたエリア。
※3…息子・星新一の本名が「親一」であることも、父の信条に由来するといわれています。
※4…詳しくは、別記事「百年前の復興 陣頭に立った堀切善次郎 有楽町の東京府庁舎跡」をご覧ください。

【関連URL】
・いわき市HP 「星一の生涯 ~努力と情熱の人~」

https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1526636755362/simple/shiryou3.pdf

・いわき市観光サイト「星一胸像」

https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10264

・星薬科大学HP

【参考】
・星新一「明治・父・アメリカ」(新潮文庫)
・星新一「人民は弱し 官吏は強し」(新潮文庫)

【掲載元】
・福島県東京事務所HP(2026年3月掲載)