②シンガーソングライター・松本哲也のそばにある1曲
(インタビュー①から続く)わたしのブログによると2011年3月末~4月2日までの間にてっちゃんと飲んだ記録があって、“てっちゃんはそれまでずっと沿岸部にいた”と書いてました。“復興食堂、期待!”とも。
その復興食堂(補足:「いわて三陸復興食堂」が正式名称)の第1回目が、ちょうど震災から1ヶ月後の4月11日。山田高校でまず2日間開催して、それがスタートですね。それからは、“何かやってる炊き出しチームがいるぞ”みたいな感じで、色んな方が協力したいって集まってくれるようになって。広がっていった感じですよね。

わたしもお邪魔していました
こうしてインタビュー・原稿化を通し
蘇ってくる記憶が
たくさんありました
復興食堂としては結果として、いつまで展開した感じ?
沿岸での炊き出しは1年半やりました。避難所の全員が完全に仮設住宅に入ったら一旦、炊き出しはやめようということにしていたので。それからは、沿岸で飲食店をやっていた方を応援することをやろうって。東京とか県外で震災の支援イベントのようなものがある時に「復興食堂」として、沿岸の人と一緒に行って。物を売ったりしながらコミュニケーションをとって、沿岸部の今の状況などを知ってもらう。そういう方向にシフトした感じでしたね。
その間、てっちゃんの音楽活動というのは?
復興食堂で、皆が一緒に歌えそうな歌をカヴァーして歌うだけでしたね。「満月の夕」(ソウル・フラワー・ユニオン)とか「上を向いて歩こう」(坂本九)とか、70~80年代の曲やフォークソングを選んでやってました。
そこから、自分自身の音楽活動を戻していったのは?
釜石に宝来館っていう宿があるんですけど、女将に“あんだ達、もうこっちは大丈夫だから自分のことをやって、自分のことを大事にした方が良いから”って。大丈夫なんかじゃないのに“自分たちは大丈夫だから”って…そういう風に言ってくれて。山田八幡宮の宮司さんも“てっちゃん、ありがとうだけど、俺たちは、てっちゃんが音楽でやってくれることがすごい励みになるから”って…“俺たちはもう十分やってもらったから、てっちゃんを応援してっから”みたいなことを、逆に言われたんですよね。その2人の言葉とか気持ちに…確かに、そうだなぁと思って。

そんな中、(広島県)尾道で“お蔵入りになったような映画をもう一度ちゃんと世の中に出そう”っていう「お蔵出し映画祭」っていう映画祭があって。2011年10月かな、「しあわせカモン」がエントリーされて、グランプリを獲ったんですよね。それがきっかけで、ワーナーミュージック・ジャパンから“主題歌の「ユキヤナギ」をまたリリースしましょうよ”っていうお話があって。
それで再デビューしたんですけど、自分から動いたと言うよりは自然とそういう方向に行った感じがあります。そもそも1回デビューして失敗してますんで、自分はメジャーの前線で音楽をやるという感じではないだろうなと思ってましたしね。でもそれが決まったら決まったで、また、頑張らなきゃっていう自覚が出てくると言いますか。
そうだったね、東京で皆でベロンベロンに酔っ払ってお祝いしたことを思い出したよ(一同笑)。
渋谷公会堂(現:LINE CUBE SHIBUYA)でのイベントの時ですよね、映画に関わった人たちも喜んでくれてね。そうだな…やっぱり、不思議ですね。

大集合した夜☆
(2013年1月)
では、インタビュー2つ目の質問。松本哲也を支えてきた1曲を教えて欲しいです。
これはもう、ね…そもそも昔は、“好きなアーティスト”っていうのも言わなかったんですよ。メジャーデビューした頃は、“ボブ・ディランやニール・ヤングが好きなノーザン・ロックシンガーでいこう”みたいなのがあったんですよね。
昔でいうキャッチコピーみたいなのがあったんだね。
正直、歌ってる内容もちゃんと分かってないし早口で、楽譜を見るのも大変だと思ってたんですよ(笑)。でも、そういう自分を演じなきゃいけないのかなと思ってて。思ってはいながらも、当時から好きだったのはSIONさん。やっぱりSIONさん、好きでしたね。

僕が新小岩で働いていた時に、働いたお店の隣の隣にパチンコ屋さんがあって。初めての給料でそこでパチンコを初めてやった時、200円で一箱になったんですよ。店にある景品と交換しよう、って見てたらCDが置いてあって。ブルーハーツとかジュンスカとかバンドのCDにしよう、って思ってたんですけど、「『蛍』/SION」って書いたCDが置いてあって(1992リリース)。帯には“ひっそりと、そしてあったかい”って書いてあって。
子供の時、預けられてた爺ちゃん婆ちゃんの家の前に小川が流れてて、時季が来るとすごくホタルが飛んでる家だったんですね。田んぼもあったから家中とか家の周りを、ウワーッとホタルが飛んでいるような。その光景をふっと思い出したのと、ジャケットのSIONさんの格好を見ても“何だろう”って気になって、そのCDに交換して。家で「蛍」っていう曲を聴いたら、イントロのピアノでもうグッときたんですけど、“蛍を見るならあの町が一番さ”っていう、歌い出しから。色々と思い出しちゃって、涙がバーっと溢れちゃって。そこからSIONさんを聴くようになって、僕は中期の頃からのSIONさんが好きですね、あったかくて。それでSIONさんにどんどん興味を持って。SIONさんを遡ると結構、パンクじゃないですか。パンク時代のSIONさんも聴くようになって。
SIONさんってずーっと音楽活動を続けててコンスタントに作品も出していて、その時その時のSIONさんがカッコ良く歌ってる。あの人には敵わないな…あの人が自分の憧れの人なんだな、っていうのはすごく思ってて。それは今でも変わらないですし、どこかやっぱり…ああいう、歌い出しの言葉ひとつにで涙が溢れたりとか、心を鷲掴みにされる。そういうアーティストになりたい、そういう作品を作りたいっていうのはずっとあって。だからあの人が、最初で最後の、俺の憧れの人なんだなと思ってはいますね。曲に関してはいっぱいあり過ぎてもう選べないぐらいなので、いつもすごく、励まされますね。うん、しんどい時は特に。
そもそもパチンコに行ってなかったら…とか考えると、すごい出会いだなぁ。
この話、SIONさんにしたことがあるんですよ。そしたら“おう、兄ちゃん、そのヒゲ、違うよ。3ミリだよ”って言われて終わりましたけどね(一同笑)。
俺のデビューのきっかけはTBSラジオで放送されていた番組のコンテストで優勝したことなんですけど、それでTBSラジオでコーナーをちょこっとだけやっていて。そのコーナー内で“好きなアーティストを2人だけ呼んでいいよ”っていうことがあって。1人はSIONさんでその時、SIONさんにその話をさせてもらって。そしてもう1人はshakeさん(木暮“shake”武彦(Gt)/RED WARRIORS・以下レッズとも表記)。僕がブルーハーツを卒業したのはレッズで、SIONさんを知る前からレッズを聴いてたんですけども。ブルーハーツはもちろん好きだし、すごく透明な心とか共感できる歌詞で。荒れてる中学時代にやっぱり好きではいたんですけど、だんだん大人になっていく中でRED WARRIORSを聴いた時に、何でしょう…あの、ビッグマウス的な歌詞というか。
と言うと?
「バラとワイン」(1987)で、“KingSizeのベッド”とかが歌詞に出てくるわけですよ(一同笑)。「CASINO DRIVE」(1987)にしても、歌詞の世界がイケイケで“なんか、カッケー!”みたいな感じで。DIAMOND☆YUKAIさんだって本当はクソ貧乏でそんな世界に住んでるわけがない…とか(想像で)思いながら、見栄っ張りな感じがカッコいいなって。ブルーハーツを聴いている時には自分が感じたことがなかった快感だったんですよね。音楽って良いな、自分もなんだかその気になってくるなぁ、って(一同笑)。「バラとワイン」で、女の人をはべらかせてバラの香りとワインをグラスに注ぐんですよ。ブルーハーツは現実を見る歌詞だったんですけど、RED WARRIORSは何だか現実逃避が出来て、夢があるなぁ、夢を見られるなぁって。それで好きになって、その後はSIONさんの音楽に行くんですけどね。
わたしはちょっと現実離れすぎだろ!って思った方だったけど(笑)、理解は出来るなぁ。話を戻して、SIONさんに初めてお会いした時のことを聞きますか。
パチンコ屋さんでCDを手にした話をして。僕はその時インディーズで1枚リリースをしていて“ビルの谷間に 天使たちの羽が降る”っていう歌詞を繰り返す曲があって(「天使の羽」/『枯れることのない花の唄』収録/2000年)、今聴かれると恥ずかしくなるような曲なんですけど(笑)。その曲をSIONさんに聴いてもらった時に“これ、俺の曲みたいだな”って言ってもらえたのがすごく嬉しくて。SIONさんが聴いてくれたということがメッチャ嬉しかったし、SIONさんもその時のことを覚えててくれてて、(会うと)“あぁ、雪駄だろ!”って言われて。
雪駄とは?
俺、SIONさんに会えるっていう時に何を思ったのか、TBSラジオに雪駄と甚兵衛で行ったんですよ(笑)。それでSIONさんに“オマエ、全然フレッシュじゃねーな!”って言われて(一同笑)。
(その後)デビューしてからも、SIONさんのライブを新宿LOFTに見に行ったりしてたんですけど、当時の僕のプロデューサーが音楽評論家の平山雄一さんだったんですね。平山さんがSIONさんのことをすごく知ってて、ライブを見に行った時にご挨拶をさせてもらって“おぅ!雪駄!”みたいな感じになってて、何だかんだ繋がりはあって。それで何とびっくりしたのが、僕が初めて手にしたSIONさんの『蛍』の帯を書いていたのが、平山さんだったんですよ。
えーー!?本当に!?
そうなんですよ。それであの当時、新宿LOFTに出入りしていた大御所の方・“菊さん”こと柴山俊之さんとか、めんたい(=博多のロック)系の方も紹介をいただいたりとか。その中には山口洋(HEATWAVE)さんもいるんですけど。平山さんがHEATWAVEのCDを俺にすごく“聴け!聴け!”って薦めてくれたりしましたね。SUNHOUSEでベースを弾く奈良(敏博)さんっていう方も紹介してもらって、奈良さんが「I wish...」(2002)っていう曲を聴いた時、下北沢の串焼き屋でメッチャ泣いてくれたこともあったり、しましたね。

てっちゃんに撮ってもらいました⭐︎
音楽界の重鎮の方々と知り合っていたのか、すごいな。そして今、「I wish…」を聴くと時の流れを感じるね。
ねぇ、面白いもんですよね。若くてちょっと恥ずかしいですけどもね。

岩手県生まれ・岩手県在住
希望郷いわて文化大使・さんりく大船渡ふるさと大使
2022年にデビュー20周年を迎え
最新リリースは「小さな手」(2024年11月)
同年1月「Live Music Pub CENTURY」を盛岡市にオープンし
同・4月には自身のマネージメント事務所
「株式会社センチュリー」を設立した
彼のこれまでの生い立ちや音楽活動は
映画やテレビの特集等、多く取り上げられている
【「③松本哲也が大切にしている言葉」に続く/3月21日公開予定】
