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美とは何か――遠さと近さから考える私的仮説 私的美学ノート①

私は美学者でも哲学者でも神経学者でも心理学者でもなけらば、批評家でもない。
しかし、そんな私がこの数年間ずっと取り憑かれてきた疑問がある。

それが、美とは何かという問いと、自己とは何かという問いである。


この二つの問いがここ数年の私の問題意識を常に貫いていた。

後者の自己とは何かという問いに対しての答えは、さまざまな本を読んでいく中で、先人たちの出した偉大な答えにある程度納得することができた。

前者の美とは何かという問いも、たくさんの偉大な哲学者や美学者が取り組んできたテーマである。
しかし、この美の問題に対しては、自分の感覚と100%合致した答えを先人の回答の中からまだ見つけることができていない。

しかし、さまざまな著作に触れることを通して、自分の中に一つの仮説が形作られてきた。

その仮説がある程度まとまってきたので一度ここで形にしたいと思い、この文章を書いている。


これから論じる仮説は、学問の世界とはほとんど無縁の1人の人間の想像に過ぎない。そのため、論理的飛躍や、学説の誤った理解などが多分に含まれている可能性があることをご理解いただければ幸いである。

また、これは私が考えた仮説として提示するが、私のような一衒学趣味の音楽家が思いつくようなアイデアはとうの昔に専門の学者が検討したものだと思う。私は過去のそのような研究に今まで寡聞にして出会ったことがなかったのだが、すでに類似するアイデアが提示されたものであるのであればぜひご教授いただければ幸いだ。



美とは遠さと近さである

美とは何か。
私の仮説の結論は、「遠さと近さ」である。

さらに正確に言うならば、「遠さが発生させる引力と、近さが発生させる包容力」である。

遠さと近さは矛盾している。
矛盾した二つのことが、同じ「美」という概念で括られるのはなぜか。


その答えは、自己とは何かという問いに隠されている。

自己とは、拡張を望みながら、現状の維持を強く望むという矛盾した存在である。
そんな矛盾した自己という存在を成立させるために、我々は「美」というこれまた矛盾した二つの方向をもつ感情を抱くのである。




1.遠い美

基本的に、我々が何かを美しいと感じる時というのは、その対象と自分との間に距離が広がっている時である。
人は基本的に、自分から遠いものに惹かれる。その惹かれる感情が美と呼ばれるものである。

対象との距離の広がり方は、便宜上、主に横軸と縦軸の2つに大別することが可能である。
横軸は空間的な遠さ、縦軸は時間的な遠さである。


1. 空間的遠さ

この空間的遠さを民藝運動の主唱者である柳宗悦は「方処の間隔」と呼んだ。

以下、宗悦が茶道における茶器について論じた箇所からの引用である。

初代の茶人達にどうして美へのよい認識があったか。-(中略)
その大きな理由は、主に茶器が外国のものであるため、とりわけ新鮮な印象を受け得たことに因るのです。-
あの「大名物」となったものは外国からの将来品なのです。
他国の作であるから、第三者として充分それを顧ることができたのです。-

ちょうど吾々の浮世絵が異常な注意を欧州で起したのと同じなのです。

方処の間隔は、美への認識を新鮮にします。

柳 宗悦. 民芸とは何か (pp. 23-24)

時代が過ぎて、その新鮮さが薄らぐ時、ものへの見方は鈍り停止し、ただ因襲に沈んできます。-

なぜその時代(※注:江戸期)の茶人達が民芸に冷かであったか。-
一つにはそれが当時のあまりに普通な品だったからです。
盛に生産せられ、誰でも用いていたからです。

あまり普通であり安ものであったから、人々はとりわけそこに美を見ようとはしなかったのです。

花園に住むものはその香を忘れるに至ります。

柳 宗悦. 民芸とは何か (pp. 24)

宗悦が挙げている通り、茶の湯の文化において茶器に見出される美や、19世紀にヨーロッパで起こった「ジャポニスム」の流行などが、この空間的遠さによる美の典型的な例として挙げられる。

ただし、私がここで主張したい美の論理は、宗悦の考える美とは異なることを強調しなければならない。

上記引用文にある通り、宗悦は方処の間隔(空間的遠さ)を、美を正しく見つけ出すための好条件であることを主張してはいるが、方処の間隔それ自体が美を引き起こすとは言っていない。

宗悦によれば、対象の中に美は絶対的にすでに存在しており、それを正しく見つけるためには方処の間隔があったほうが容易であると言っているだけだ。

つまり、もし仮に対象との間に方処の間隔がなかったとしても、(宗悦のように)熟練した審美眼を持つ者であれば、対象から"正しく"美を見出すことができる、というのが宗悦の主張であり、私の考えと異なる部分だ。

一方で私の考えは、対象自体に絶対的な美というものは内包されておらず、方処の間隔(空間的遠さ)自体が観察者の中に美感を想起させるものであるというものだ。
いわば、方処の間隔自体が美であると言ってしまっても良い。

(ではなぜ宗悦(そして現代の我々も)は方処の間隔がなくなった自国内の茶器に対して美を見出すことができたのか。その答えは次の章「時間的遠さ」で触れる。)


当然、自分がどこにいるかによって、対象との距離は広がったり縮まったりする。
日本にいる人からすれば、ヨーロッパの街というのは空間的に遠くに位置し、これがヨーロッパの街並みに対する美感を日本人に想起させる。

一方で、ヨーロッパに住んでいる人からすれば逆に日本は空間的に遠いため、日本の街並みに対して美を感じるのである。

日本人は空間的に極めて近い一般的な日本の街並みに美を感じることはなく、ヨーロッパの人間も自国のありふれた街並みに美を感じることはない。

それはその対象(街)自体が美しいか美しくないかということではなく、観察者がどこにいるかという問題でしかないのだ。



2. 時間的遠さ

空間的な遠さがなくなってしまったら、そこから美はなくなる、というのが前章での私の主張だった。

では、なぜ宗悦は20世紀初頭、すでに自国の生活文化にすっかり馴染んで空間的遠さを失った民芸品に美を見出したのか。

また、日本に住む我々が日本のありふれた街並みに美を感じないことを上記の例に挙げた。
確かに日常でベッドタウンの舗装道路を歩いているときに美を感じることはなくても、同じ国内でも古都に赴けば、その街並みに美を感じ、感動する。
なぜ日本に住んでいる我々が、空間的には遠くない日本の街並みに美を感じるのだろうか。

これを説明するのが、時間的な遠さである。

宗悦が民藝という概念を提唱したのは20世紀初頭だが、宗悦が民藝品として寵愛した物品の多くは19世紀以前に作られたものであった。※
つまり、宗悦という観察者と、対象の間には空間的な遠さ(方処の間隔)はあらずとも、時間的な遠さがあったと言える。

また、我々が古都を訪れた時に感じる美というのも、まさにこの時間的な遠さが対象との間に広がっていることで説明ができる。



3.3軸目の遠さ

ここまで、対象への遠さを横軸(空間的な遠さ)と、縦軸(時間的な遠さ)で分類して論じてきたが、この分類法に収まりきらない遠さというものも当然存在する。
端的に言えば、社会通念から外れているもの、"社会的な遠さ"とでも言えるかもしれない。

宗悦のコレクションの多くが19世紀以前のものであったと述べたが、宗悦は同時代の民芸品にも強い関心を持っていた。
宗悦の提唱した民藝の本質は「用の美」(日常で用いられるものの美しさ)というところであったが、それと同じくらい宗悦が民藝という概念を定義づける上で重要視しているのは、それが職人の手仕事によるものである、という点である。

宗悦が民藝運動を提唱した20世紀初頭は、商業主義が日本を覆い始め、まさに大量生産の時代に入ろうとしていた時代であった。
つまり、その時代は手仕事で作られるものに対して、距離が生まれ始めた時代でもあった。
ここに社会的な遠さが生まれたのである。

それゆえ、宗悦は同時代の民藝品にも美を見出すことができた。


※「社会的な遠さ」という表現を用いてしまうと、空間的な遠さも時間的な遠さもその中に意味として内包されるような気もするのでこれが適切な表現であるかはわからない。 

そもそも、これまで議論をわかりやすくするために「空間的」「時間的」という言葉で説明したが、それは全て我々の観念上のものでしかない(実際にヨーロッパの街並みを観光するときその対象は手に触れられるほど近くにあるはずだが、我々はそこに空間的な遠さを観念的に感じる)ため、実際に空間的、および時間的に遠いということではない。

それはあくまで我々の観念の中で生じるものである以上、「社会的」「空間的」「時間的」という概念それぞれの境界線はグラデーションであり、解釈次第では時間的に遠いということもできれば社会的に遠いということもできる、という場合が往々にしてあるだろう。

いずれにしても、対象と観察者との間に何らかの形で距離が広がっているということは間違いない。






1-2.なぜ遠いものが美を想起させるのか

ここまで、美という概念の大部分が遠さで説明できそうであることを主張してきた。

しかし、もしそうだとして、なぜ我々は遠いものに惹かれ、そこに美を感じてしまうのか。

その答えとなる仮説を探っていきたい。


ホメオスタシスとアロスタシス

ホメオスタシス(恒常性)と呼ばれる概念が広く一般に知られている。

恒常性(こうじょうせい)ないしはホメオスターシス: ὅμοιοστάσις、: homeostasis)とは、生物において、その内部環境を一定の状態に保ち続けようとする傾向のことである。

wikipedia '恒常性'

わかりやすい例を挙げるならば、体温が上がれば下げようとするし、下がれば上げようとする、というように一定の状態に保とうとする仕組みなどがホメオスタシスで説明される。

wikipedia記事によれば、ホメスタシスの考え方は19世紀末~20世紀初頭に生理学者によって提唱され、主に体温や血圧、傷の修復など、生体機能の説明に適用されてきた。

ホメオスタシスの概念は、あくまで生理学的機能において適用されるものであり、この考えをむやみに敷衍し濫用することは危険であるが、近年その考え方は生体機能だけでなく、神経科学、脳科学、心理学、さらには社会学にまで拡張されているようである。

中でも、神経科学者であるアントニア・ダマシオはホメオスタシスを意識の範囲にまで拡張して考えることを高らかに宣言し、その主張は"ソマティックマーカー仮説"として大きな影響力を持った。

Numerous scientists have been preoccupied with understanding the neurophysiology of homeostasis, with making sense of the neuroanatomy and the neurochemistry ofthe au tonomic nervous system (the part of the nervous system most directly involved in homeostasis), and with elucidating the interrelations among the endocrine, immune, and nervous systems, whose ensemble work produces homeostasis.
But the scientific progress made in those areas had little influence on the prevailing views of how mind or brain worked. Curiously enough, emotions are part and parcel of the regulation we call homeostasis. It is
senseless to discuss them without understanding that aspect of living organisms and vice versa. In this book, I propose that homeostasis is a key to the biology of consciousness.
(多くの科学者は、ホメオスタシスの神経生理学を理解することに取り組んできた。具体的には、自律神経系(ホメオスタシスに最も直接的に関与する神経系)の神経解剖学や神経化学を解明し、内分泌系、免疫系、神経系の相互関係を明らかにし、それらが一体となってホメオスタシスを生み出す仕組みを解明しようとした。しかし、これらの分野での科学的進展は、心や脳の働きに関する既存の見解にはほとんど影響を与えなかった。興味深いことに、感情はホメオスタシスと呼ばれる調整の一部であり、それらを議論するには生物のその側面を理解することが不可欠であり、その逆もまた然りだ。本書では、ホメオスタシスが意識の生物学における鍵であると提案する。)

Antonio Damasio. The Feeling of What Happens(邦題:『意識と自己』)  P40

ダマシオの主張はとても刺激的で極めて興味深い。

しかし、ダマシオが"homeostasis"という言葉を使ったことについて留保をつけたい。

静的安定としてのホメオスタシスに対して、動的適応システムとしてアロスタシスという概念がある。
ダマシオの議論をさらに発展させる視座として、アロスタシスの考え方を加味すると有益かもしれない。(この点についてはこちらの記事を参照)

Allostasis:
The concept of allostasis shifts the focus away from the body maintaining a rigid internal set-point, as in homeostasis, to the brain's ability and role to interpret environmental stress and coordinate changes in the body using neurotransmitters, hormones, and other signaling mechanisms.
(アロスタシスの概念は、ホメオスタシスのように体が固定された内部のセットポイントを維持することから、環境のストレスを解釈し、神経伝達物質、ホルモン、およびその他のシグナル伝達メカニズムを用いて体内の変化を調整する脳の能力と役割に焦点を移すものである。)

wikipedia 'Allostasis'

簡単に言えば、アロスタシスとは、状況に応じて生体の内部状態を柔軟に変化させながら、全体の安定を維持する仕組みである。
つまり、状態を「一定に保つ」か、状態を「必要に応じて変えてでも安定を図る」かが、ホメオスタシスとアロスタシスの違いであると言えそうだ。

wikipediaによれば、「アロスタシス」とは、ギリシャ語のἄλλος(「他の」「異なる」)と στάσιςstasis(「静止」)を組み合わせた語であり、「変化するがゆえに安定を保つ」という意味だそうだ。

そして、現代のストレス生理学や行動科学では、ホメオスタシス理論よりも、むしろこのアロスタシスの概念の方がより重視されるモデルとなっているようである。

アロスタシスの概念はダマシオが『デカルトの誤り』で高らかにホメオスタシスの神経科学への拡張を訴えた1994年の6年前、1988年に提唱された概念であるらしいが、素人の私の目には、この二つの主張にはとても似たものがあるように写った。


美の根源についての考察から少し離れてしまったが、私のアイデアは、このアロスタシスの概念が私の考える美学を補強する材料として使えるのではないかというものである。


アロスタシスと美

とても美しいものを見た時、それに感動し、強く惹かれると同時に、痛みのようなものを感じるのは私だけだろうか。

極めて感覚的なものであり言語化するのが難しいが、強いていうならば、美しいものを見て、それに強く憧れるときに、「私はそれではない」「私とそれは別のものである」という事実が苦しい、というような感覚。

誰かを近くに感じると、自分と他者とのあいだには必ず距離があるという当然のことに気づかされる。もっと彼女に近づきたいというよりも、自分がこの人になりたいと変なことをおもった。

又吉 直樹. 人間 (角川文庫) (p. 47)

このようなとき、ひとは対象に一瞬自己を重ね合わせてしまい、そこに重ね合わせた自己と、実際の今ある自己のギャップに痛みを感じているのではないだろうか。
そのギャップを無くして痛みをなくすために、「その遠い対象に近づきたい」「できればその対象に”なりたい"」という感情を抱いてしまうのではないだろうか。

つまり、精神の安定を維持するために、内部状態を柔軟に変化させようとするアロスタシスがここで働いているのではないだろうか?

だとしたら、対象が遠ければ遠いほどこのアロスタシスは強く働くだろう。

その結果が、遠いものに対して想起される美感であると考えることはできないだろうか?



なぜ重ね合わせてしまうのか

この仮説が正しかったとしても、そこで終わりではない。
すでに述べたとおり、アロスタシスによって美が想起されるという私の仮説は、人が対象に美を感じる時に対象と自己が同一化されているという仮説を前提にしている

ならば、なぜそもそも対象と自己を同一化させてしまうのだろうか、と問わねばならない。


ミラーニューロン -自己と他者-

20世紀末に神経生理学者によって報告された「ミラーニューロンシステム」という脳の機能がある。

ミラーニューロンシステムとは簡単に言えば、人の行動や表情を見たとき、自分の脳の中でも同様の神経活動が起こるということである。

ミラーニューロン: Mirror neuron)とは、動物が行動する時と、他者が同じ行動を行うのを観察する時の両方で活動する神経細胞である[1][2][3]。このように、ニューロンは他者の行動を「鏡のように映し出す」のであり、まるで観察者自身が行動しているかのようである。

wikipedia 'ミラーニューロン'

人が悲しそうにしていると、自分まで悲しくなってしまう、人が恥ずかしそうにしていると自分まで恥ずかしい気持ちになってしまう、という経験は誰しも一度はあるのではないだろうか。
そのようなとき、このミラーニューロンシステムによる感情共鳴が起こっている。

つまり、ミラーニューロンシステムは、人が自己と他者の境界線を揺らがせ、他者と自己を同一化してしまうことを生物学的に支えるメカニズムだと解釈することができそうだ。

また、神経科学の研究においては、自己認知時と他者認知時に活動する脳内の神経領域が部分的に重なることがあるということもfMRI研究によって示されている。(e.g., Mitchell et al., 2006

つまり、我々の脳は、自己と他者とを明確に切り離して考えるのではなく、柔軟にその境界線を変えながら認識しているらしい。

このような我々人類の特徴は、社会を形作る上で有用な機能として進化の過程で残っていったようである。(参考:心の理論)


他者論の研究で有名な哲学者、メルロ=ポンティも似た意味で解釈できることを論じている。
さらに彼は、自他の境界が連続的であることを、人対人に限定せず、人対物の関係にも適応できると考えていた。

Si la distinction du sujet et de l’objet est brouillée dans mon corps … elle l’est aussi dans la chose
(もし主体と客体の区別が私の身体の中でぼやけているのなら、それは事物の中でも同様である)

メルロ=ポンティ『サイン (Signes)』(1960) p166



ここまでのまとめ

  1. ミラーニューロンシステムなどの神経学的なプログラムによって、自他はときに同一化されてしまう。

  2. そのとき同一化された他者と自己の間にある距離を、アロスタシスが縮めたがる。

  3. そのときに感じるもどかしさ、遠い対象が我々に対して発揮する引力が美である。

  4. よって、我々は遠いものに対して美を感じてしまう。

これがここまでで私が提示してきた仮説である。

私は神経学も生物学も脳科学も哲学も美学もどれも門外漢なので、これまで披瀝してきた仮説は私の想像に過ぎない。
決して学術的に検討されたものでもなければ、そもそも援用した学説に対する重大な誤解も含まれているだろう。

しかし、それでもこのアイデアは私個人の美に対する感覚にはピッタリと当てはまる。

この仮説が妥当なものであるかどうかを測るためには、人が美を感じる対象を見たときに、脳内の神経領域において自他の認知システムに反応があるかどうかを調べなければならない。
もし、美しいものを見たときに自他の認知システム(ミラーニューロンなど)に変化があり、対象と自己を同一化しているような動きが確認できれば、この仮説の妥当性が高まるかもしれない。





1-3.遠ければいいのか

これまで、美は遠さであるという主張をしてきた。

しかし、我々は、自己から遠いものであればなんでも美を感じるというわけではない。
また、遠すぎるものに対しては美しいというよりも、何が何だかわからないという感情を抱くだろう。

例えば、ロックやポップス、ヒッポホップなどのポピュラーミュージックを普段聴いている人からしたら、ノイズミュージックというジャンルはとても遠いと言って良さそうだ。
では、そのような人がMerzbowのWoodpeckerシリーズ(ノイズミュージックの中でもトップレベルにノイジーなことで有名な作品)をいきなり聴いたとして、それを美しいと感じるだろうか?

美しいどころか、嫌悪感や恐ろしさを覚える人も少なくないだろう。
ここまで極端な例を挙げる必要はないかもしれない。
私個人の体験を引き合いに出してみる。

私の音楽遍歴は以下の通りだ。
幼少期に椎名林檎とORANGE RANGEに育ち、小学校のときにandymoriとRADWIMPSにハマり、中学生のときにはいわゆる邦ロックと呼ばれるシーンにどっぷり浸かった。
高校生になってからもその方向性を突き詰め、日本のインディーズバンドばかり聴いていた。
その期間にtoeやmouse on the keysなどから少し電子的なアプローチにも横展開していった。
大学に入ってからもしばらくバンド音楽ばかり聴いていたが、少しずつ海外の音楽も聴くようになり、Copelandやunderscoresを知ったことをきっかけに電子的なアプローチを使った楽曲に惹かれ始めるようになった。
そして大学を卒業し、ドイツに移住したことをきっかけに一気にエレクトロニクスを用いた音楽を大量摂取するようになり、今に至る。

このような音楽遍歴を辿ってきた私だが、正直、ドイツに来る頃くらいまでは、テクノやハウスの良さが全くもってわからなかった。
わからないどころか、そのような音楽に怒りと言ってもいいほど強い反感を抱いていた。ルサンチマンである。

しかし、今ではテクノの良さもハウスの良さも理解りはする。エレクトロニカに関しては大好きだ。

上記添付したMerzbowのWoodpeckerも好きではないが、楽しみ方は理解る気がする。

同じような経験をしたことのある人は少なくないだろう。

しかし、これまでの議論に則れば、おかしくはないか。
対象との距離が遠いほど強く美を感じるのであれば、私は大学時代よりも前にこそテクノに感動しているはずだ。

むしろ、当時より今の方がテクノとの距離は近づいてしまったのだから、感じる美感は小さくなっていないと辻褄が合わない。

美を感じるのに教養は必要か

ここで提起している問題は、「美を感じるのに教養は必要か」という頻繁に議論されるテーマとも重なる。

これに対する私の答えは、必要だ。

つまり、対象が遠ければ遠いほど美の力は強くはなるのだが、その対象を全く理解できない場合には美の力は働かない、ということだ。

もう一度私が提起した美を感じるメカニズムを確認する。

  1. 観察者によって対象(作品など)が自己と同一化される

  2. アロスタシスが働き、対象との間の距離を埋めたがる

  3. 対象が観察者に対する引力を発揮する(=美)

このプロセスにおいて、今回問題となるのは、1の部分だ。


観察者が、対象に自己を重ね合わせることがなければ、その後のプロセスも働かない。

では、全く知らないものに対して自己を重ね合わせてしまうだろうか?
答えは否だろう。

それゆえ、全く知らないもの、遠すぎるものに対しては美感が働かない。


これは、すでに紹介したMitchellによる脳活動の研究でも明らかにされている。

この論文は、自己に類似していると認識された他者の潜在的な精神状態についての判断中に、自己に類似していないと認識された他者の場合よりも強く活動したことを示している。

つまり、自分に似ているものは自己と重ね合わせやすいが、自分と似ていないものは自己と重ね合わせられないということだ。

つまり、最も強烈な美を感じるときというのは、自分からはちゃめちゃに遠い対象に対峙したときではなく、共感できる範囲の中で最も遠いものに対峙したときであると言えそうだ。

遠ければ遠いほどいいというわけではない。




2.近い美

これまで、美とは遠さであるという主張を展開してきた。

しかし、本当にそれだけだろうか。

先ほどの私の音楽遍歴の話に少し戻らせていただきたい。
私にとってのエレクトロニカやテクノは確かに遠いものに対して感じる美として説明ができるだろう。
(また、そもそもシンセサイザーで人工的に作られた波形というものは、我々人類の身体的な感覚からも遠いものであるため、エレクトロニクスはその音楽的特徴から誰にとってもある程度遠いものであるだろう。)

しかし、私が小学生の時から聞いているandymoriに対して私が抱く美感は、遠さで説明できるだろうか。

小学生当時の私からしたら、おそらくandymoriは遠いものであったことは間違いない。
しかし、それから15年以上聴き続けた現在、andymoriの音楽はほぼ私という存在の一部と言っていいほど近いものである。

(また、andymoriをはじめとしたフォークロックは人の声による歌を核とした音楽である。これはエレクトロニクスとは対照的に人類の身体的感覚から極めて近いものである。フォークロックはその音楽的特徴から誰にとってもある程度近いものであると言っていいっだろう。)

こんなにも私自身に'近い'andymoriの音楽に対して、私は今でも強い美感を抱く。

ここに、遠さによる美のプロセスとは別のメカニズムを打ち立てる必要が出てくる。

美とは近さである

これまで論じてきたこととは真逆のことをここで論じてみたい。
美とは近さである。

我々が何かを美しいと感じる時というのは、その対象が自分と極めて近い特徴を持っているときである。

人は自己という存在に一貫性を求める。
もし自己の一貫性がなければ、自分が自分であるという感覚(パーソナル・アイデンティティ)そのものが崩れてしまう。

おのおのの物が自己の有〔注:存在〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。

バールーフ・デ・スピノザ. エチカ(第三部定理七)

しかし、それは決して簡単なことではない。
ヒトの身体は生きている限り代謝を続け、昨日の私と今日の私は文字通り違うものでできている。今の自分の身体と10年後の自分の身体は同じ要素を探す方が難しいかもしれない。

セウスの船(テセウスのふね)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題同一性の問題)をさす。

wikipedia 'テセウスの船'

身体は変わってしまっても、精神は一貫し続けるというかもしれないが、本当だろうか?

ある悩みに苛まれている時期、そればかりが頭の中をもたげていた。当時の私は四六時中その悩みに取り憑かれていて、その悩みがほとんど'私'であったと言っていいほどだ。
しかし、数年経った今、私はその悩みからは解放されてしまい、今となっては何にそんなに悩んでいたかもよく思い出せないほどだ。
このような状況でも、一貫した精神があり続けている本当に言えるのだろうか?

善悪の判断や、倫理観、物の見方なども、時代や年齢、住む場所が変われば簡単に変わってしまう。

個物の同一性ということは、しかしながらすこし考えてみると微妙な問題を含んでいる。川の流れは絶えずあたらしく、しかも川としては同一である。この世の中に変化したり流転したりしないものはない。この万年筆もペンの先端は一字を書くごとに磨滅してゆく。人物の同一性の基礎となっているように思われている身体の同一性も、その内容は川の流れと同じことである。

木村敏. 異常の構造 (講談社学術文庫) (p. 92).


このような不安定な自己の同一性・一貫性を保持するために、人は習慣や反復というものに心地よさを感じる。
また、自己の同一性・一貫性を示す存在に好感を抱く。
これが近い美の正体だ。

つまり、自己という不安定な存在を追認してくれる対象と出会った時、人はその存在に快を感じる。これが美感と呼ばれるというわけだ。


例としては、先ほど挙げた音楽の例が一番わかりやすいかもしれない。

我々はときに下手くそで土臭い歌唱や、情けない歌詞に惹かれることがある。これはまさに近い美と言えるだろう。
遠い美を人の成長を促す美であるとすれば、近い美は人の存在を承認し人を救う美と言える。


3.自己の保存本能と二つの美

以上で見たきたように、人は、遠いものに対して美を感じる一方で、近いものに対しても美を感じる。
端的に言えば、美とは、遠いものと近いものの発揮する力である。

遠いものと近いものという二つの概念は矛盾している。

なぜ、このような矛盾が発生するのだろうか。
それは、そもそも美を感じる主体である自己という存在が同様の矛盾を抱えている物だからである。

歓びというものは、いつも、より多く求められるものでありながら、ある臨界点を超えると、とたんに預わしいものに転化する。
快楽が少なすぎれば不満が昂じるのに、いったん飽和状態に達すると、快楽そのものが苦痛に変わってしまう。
歓喜に酔いしれたあとに訪れる白んだ気分を、悲嘆に暮れたはてに陥る麻薄状態から区別するのは、案外むずかしい。

わたしたちは、<過少>から<過剰>へと、あるいは逆に<過剰>から<過少>へと、たえず取りたてられながら、そのどちらの極点にもとどまることができないものらしい。

このように、二つの深淵にはさまれ、たえず一方の極へと押しやられながら、行きつくことができないまま反対の極に向かって押しもどされ、結局はその中間に漂うしかないような人間の状態を、バスカルは「人間の不釣り合い(ディスプロポルシオン)」と呼んでいる。

鷲田清一.「モードの迷宮」(p.008)

つまり、人は根源的に「自己を維持したい」という内向きの矢印と、「自己を発展拡張させたい」という外向きの矢印の矛盾する欲求を同時に抱いている物である。

自己を維持したいという内向きの欲求は、近い美という力を駆動し、自己を発展拡張させたいという外向きの欲求は遠い美という力を駆動する。


論のさらなる展開(補助線)

ここではこれ以上深く立ち入らないことにするが、前者の内向きの欲求(近い美)は、スピノザの「コナトゥス」の概念に、後者の外向きの欲求(遠い美)はニーチェの「力への意志」の概念に接続して考えることができるかもしれない。

また、フロイトの快原理と接続して考えるのも面白いかもしれない。
前者の内向きの欲求(近い美)をフロイトの快原理で説明すれば、後者の外向きの欲求(遠い美)は『死の欲動』の概念で説明できるかもしれない。

國分功一郎による『暇と退屈の倫理学 増補新版』の付録-傷と運命-で展開されていた論がここでの問題意識と重なるため参考までに該当部分を引用しておく。

(ここからは今後の私の研究の補助線として記録しておくための部分なので読まなくても大丈夫)

『暇と退屈の倫理学』との接続可能性

以下、『暇と退屈の倫理学 増補新版』より該当箇所引用。

精神分析学の創始者ジークムント・フロイト[1856-1939]は、人間の精神生活はあらゆる面において快をもとめる快原理によって支配されていると言っている(12)。
-問題はここにいわれる「快」が何であるかということだ。 - 生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らを一定の状態に保とうとする。-生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止めるのだ。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p. 308). (Function). Kindle Edition

習慣は人間を一定の安定した状態に保つ。何かを反復することで習慣が生じる──ということは、何かが快いからそれを反復するのではなくて、反復するから習慣が生じ、それによって快が得られるのである(14)。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p. 309). (Function). Kindle Edition.

本書では、人は習慣を形成し、周囲の環境を一定のシグナル体系に変換して生きていると述べられている(第七章)。これは、新しい外的刺激から身を守り、自らの世界に引きこもることが生の条件であることを意味する。人は慣れない刺激に絶えず晒されていては生きていけない。
しかし、当然のことながら、刺激がなければ人は退屈する。ラッセルが述べていた通り(第一章)、退屈の反対語は興奮であって、興奮できるような刺激がなければ人は不快な状態に陥る。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p. 382). (Function). Kindle Edition.

ここからが國分氏の論においてとても刺激的なところだ。

あらゆる経験はサリエント(注:サリエンシー:精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激のことを指す。))であり、多少ともトラウマ的であるとすれば、あらゆる経験は傷を残すのであり、記憶とはその傷跡だと考えられる。
絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている我々は傷だらけである(6)。いや、より正確に言えば、傷跡だらけである。
すると、次のように考えねばならない。
ある種の記憶は痛むが、別の種の記憶は痛まないのではない。記憶はそもそも全て痛む(7)。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p. 390). (Function). Kindle E

人はサリエンシーを避ける方向に向かって生きており、サリエンシーに出会った場合には何とかしてそれに慣れようとする。だが、この慣れの作業は当然ながらコンプリートされない。いくつかのサリエンシーは、その強度ゆえに十分な慣れの作業を経ることなく、痛む記憶として心身に沈澱する。普段、人はそれを意識の覚醒によって抑えつけている。  さて、人はサリエンシーを避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した、安静な状態、つまり、何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下してDMNが起動する。すると、確かに、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈澱していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体ではないだろうか。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (pp. 394-395). (Function). Kindle Edition.

絶えざる刺激には耐えられないのに、刺激がないことにも耐えられないのは、外側のサリエンシーが消えると、痛む記憶が内側からサリエンシーとして人を悩ませるからではないか。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p. 395). (Function). Kindle Edition.


ラカンとの接続可能性

千葉雅也氏の『センスの哲学』で援用されたラカンの享楽についての論もとても面白かった。もしかしたら私の美論に接続できるかもしれないと思ったので、ここに該当部分を引用させていただき、今度の補助線とするためのメモとさせていただきたい。

生物のいろんな機能は「予測誤差を最小化する」という原理で説明できる、という理論を、イギリスのカール・フリストンらが提唱しています。
これは「自由エネルギー原理」と呼ばれるものです。この理論を、僕に理解できる範囲で応用することにします。

センスの哲学

普通、生き物としては、世界の運行は予想通りになってほしい。でも、どうもその原理だけでは人間の性というものはわからない。人間は、予測誤差が生じて驚くこと、サプライズを期待しているところもある。  
ただの反復ではつまらないわけです。あれっ、と違うことが起きる=予測誤差が生じることが面白い。

センスの哲学

生物は安定を求める、と先に言いましたが、遊びとは、わざと不安定な状態、緊張状態を作り出して、それを反復するのを楽しむことです。
それはもちろん本当の不安定ではなく、どこかに「大丈夫だ」という信頼があった上で、一種の「ごっこ」として、シミュレーションとして行われる。
わざとストレスがかかることを、安全性をどこかに確保した上で楽しむ。  

しかし、遊びからリアルな危険へと境界を踏み越えてしまう場合もあり、人間には、わざと死のギリギリまで近づこうとする文化もあります(エクストリームスポーツなど)。
そこまで行かなくても、リズムを楽しむということは、あえて面倒なことをしている面があり(絵をよく見るには集中力が要るし、音楽を聴くことも、ひどく疲れている時にはしんどいでしょう)、それは言ってみれば、不快を快に転換するマゾヒズムのようなところがある。

センスの哲学

ここで千葉も國分がぶつかった「なぜ人は退屈してしまうのか」=なぜ安定状態からわざわざ抜け出して危険を求めてしまうのか、という問いに対峙している。
これに対して、千葉は、「マゾヒズムのようなところがある」と説明するが、ではなぜ人はそもそもマゾヒズムという特徴を備えてしまっているのか、という問いが立てられる。
以下それに対するらなる考察が続く。

根本にあるのは予測誤差というネガティブなものによる緊張状態であり、それは即物的に言えば、神経系におけるエネルギーの高まりでしょう。より文系的に言えば、死が迫ることの興奮であり、それを抑えるとホッとして心地良いのが基本的傾向であるのと同時に、興奮の不快がむしろ快であるような状態がある。死へと向かう興奮の不快が快になる。
-(中略)
 他の動物とどのくらい共通性があるのかはわかりませんが、人間では、興奮が自己目的化するような自動運動が、奇妙なことに高度に発達している。ということを、精神分析などの理論で想定しています。
 これを明確に述べたのがフロイトです。フロイトは、生存本能だけでは説明できないように思われる、わざと否定的なことを繰り返してしまう人間の症状を、「死の欲動」という概念を考え出すことで、なんとか説明しようとしました。

センスの哲学

そういう遊びやゲームを中毒的にやり続けてしまうこともある。それはなぜか。根本的に、イヤなこと=刺激自体が、不快であるにもかかわらず快であるという両義性を持っているからではないか──と、ひとまず述べることにします。  
このことに関し、いろんな理論家がそれぞれの言い方をしています。  
精神分析家のラカンは、ホッとして鎮静することが基本的に「快楽」であるのに対し、より根本的なものとして、不快かつ快であるような状態を区別し、それを「享楽」と呼びました。  
フロイトが「快原理」と呼んだのは、興奮度が下がること=「快楽」へと向かうのが一般的傾向である、ということで、その「彼岸」として、むしろ否定的な興奮へと向かう「死の欲動」があるというわけです。  
また、ラカンより後の人ですが、レオ・ベルサーニという理論家は、こうした議論をふまえて、生きていくにはマゾヒズムが必要なのだ、と主張しました。
そもそも、身体が外から受ける刺激、また内から湧いてくる刺激は、すべて不快です。
それに耐えなければ生きていけないわけですが、この「耐える」というのは、最小限の意味で、快に変換するということです。  
以上をつないで言うと、次のようになるでしょう。
生物としての安定志向を超えて、不快かつ快である「享楽」をマゾヒズム的に求めてしまう自動運動=死の欲動があり、それは通常はリズムの中に収められているが、ときにリズムのタガが外れるまでに激化し、死を賭けるような行為におよぶこともある。

センスの哲学

ラカンにおける享楽とは、予測誤差が肯定的なものとして受け取られることだと言えるでしょう。
それは、予測誤差の最小化という原理に反しているのか、それとも、予測誤差の最小化における何らかの事情として──変化に対する「適応」の過程で生じる情動として、など──説明できるのか。
この問題は、僕の手には余ります。
調べたところでは、精神分析を脳科学と結びつける「神経精神分析」という分野において、ラカン的享楽を、予測誤差が残留し続けるということに関係づける論文もありました。

センスの哲学

結局千葉はこの最終的な問いに対して追求を続けることをここで辞めてしまっているが、その後の方向性をラカン精神分析と脳科学と結びつける「神経精神分析」という分野に求められることを示唆している。

予測誤差とラカンの享楽の概念を結びつける試みとしては、次の論文があります。ただこれはDall'Aglio階だと思います。 John Dall'Aglio, "Sex and Prediction Error, Part 1: The Metapsychology of Jouissance," Journal of the American Psychoanalytic Association, 69(4), 2021. John Dall'Aglio, "Sex and Prediction Error, Part 2: Jouissance and The Free Energy Principle in Neuropsychoanalysis," Journal of the American Psychoanalytic Association, 69(4), 2021. John Dall'Aglio, "Sex and Prediction Error, Part 3: Provoking Prediction Error," Journal of the American Psychoanalytic Association, 69(4), 2021.)

センスの哲学


4.補論 アロスタティック・ロードと近い美

「1-2.なぜ遠いものが美を想起させるのか」でアロスタシスという概念を取り上げた。

すでに紹介した通り、人間が生き延びるために、体は状況に応じて「変わる」(アロスタシス)。
しかし、この「変わる作業」には当然身体的/精神的コストがかかっている。

アロスタシスが働き続け、長期的にストレスや負荷が続くと、この調整システムがオーバーワークして、体や心に慢性的なダメージが蓄積されてしまう。
この「蓄積されたダメージ」がアロスタティック・ロードと呼ばれる。

Allostatic load is "the wear and tear on the body" which accumulates as an individual is exposed to repeated or chronic stress.
(アロスタティック・ロードとは、個体が繰り返しあるいは慢性的なストレスにさらされることによって蓄積される「身体の消耗」のことである。)

wikipedia 'Allostatic load'

簡単にいうと、人は変わり続けることに疲れる。
つまり、本記事の主張になぞらえれば、遠い美を求め続けていると疲れてしまう、ということだ。

遠い美を求めすぎて、アロスタティック・ロードが溜まってしまった状態の精神は、自己を癒す何かを求める。
そう、近い美である。

遠い美を求め続けると、その疲れを癒すために揺り戻しが起こり近い美を求めてしまう。

しかし、近い美を求めているうちに今度は退屈したまた遠い美を求める。

このようにして、我々は遠いびと近い美の間を行ったり来たりしているのかもしれない。


5.今後の論の展開

これでひとまずは私の美論を一通りさらうことができたと思う。
しかし、まだ重大なテーマについて触れていない。

「醜とは何か」という問いである。

美とは何であるかがわかったからと言って、自動的に醜が何であるかが決まるわけではない。

なぜなら、今回私が展開した論に従えば、美の反対は醜ではなく、もう一つの美(遠い美vs近い美)なのだから。

今後、は「ダサい、気持ち悪い、醜い、つまらない」といった感情をどのように説明できるかということを、今回提示した道具を使って使って体系立てて行きたい。


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