【第4章】裏切って、腐って、殴られて、それでも生きた話」
また全部失って、全部拾い直そうと足掻いたお話。
このお話ちょっと長めですので読まれる方はお気をつけください。
大体5700文字弱あります。
この経験を経て
私は裏切りには “2種類”あると学びました。
■ 【ニートの入り口】
■ 【職人の世界へ】
■ 【現場の日々と“やりがい”】
■ 【親方との会話】
■ 【危険と隣り合わせの現実】
■ 【WEBライターとして見た世界】
■ 【再び“現場”へ】
■ 【第4章】あとがき
【ニートの入り口】
仕事を辞めたのは、あの頃の私にとって
ある意味では“必然”だったと今なら確信が持てます。
塾へ就職を決めた時、私は本当は大学の単位を落とし続けて
ほぼ留年確定だったことを誰にも言えていませんでした。
一番そばで支えてくれた彼女にすら、
「実はまだ大学は卒業できないかもしれない、1年いや、2年は留年するかもしれない」
とは打ち明けられなかった。
年上だった彼女とは長い期間付き合っており、早く結婚するのが楽しみだと二人で話たりもしていました。
全てを裏切る決断を隠したまま、覚悟のつもりで塾に飛び込み、
全部背負うつもりが、結局は一番大事な人を裏切る形になりました。
「大事なことを二人で決められない人とは、私は一緒にやっていけません。」
そう言って、彼女は泣きながら私の元を離れていきました。
恋人を失い、居場所を失い、
残ったのはどこにも逃げ道のない自分自身だけ。
塾の激務で体調を崩して退職した私は、
何者でもない“ニート”として時間を浪費する毎日を送っていました。
【職人の世界へ】
そんな私を見かねたのが中学時代からの友人です。
彼は高校を途中で辞めて職人の道に入り、
若くして現場でも信頼される立場にまでなっていました。
「お前、このままだと本当に腐るぞ。
枠は一人分空けてやるから、ここでやってみろ。」
そう声をかけてもらったとき、
「お願いします。」
と、迷わず頭を下げました。
友人は
「簡単に辞めさせてやると思うなよ。
仕事に来なかったら家まで引っ張りに行くからな。」
と厳しくも優しい言葉をかけてくれました。
私が「俺は根性がなくて自分に甘いから、そうしてくれると助かる。」
と笑って返すと、
「そんな事、お前より俺の方がお前の事わかってるよ。根を上げたくなってもすぐに甘えんなよ。」
と笑って返してくれました。
【現場の日々と“やりがい”】
何も持たない自分に、もう一度「人として役に立つ場所」を与えてくれたのが現場でした。
言葉は荒くても、やることはシンプルで、現場の仕事はとても正直でした。
重い荷物を運ぶのも、汚れるのも当たり前。
夏は地獄のように暑く、冬は骨の芯まで冷え切る。
だけど、今まで経験してきたどんな仕事よりも過酷な環境で、
大変なことを続けられたら、きっと私は変われるかもしれない。
何も思い入れのない仕事だったけれど、友人が差し伸べてくれた救いの手だけを糧に、彼女への借金を返して、その責任を果たすために必死でした。
現場では、一番下っ端として入ったので、
誰もやりたがらない泥だらけの仕事や、一日中重いものを運ぶだけの日もありました。
肩に担ぐ金属が熱すぎて背負えないときは、バレないように段ボールをシャツの中に挟んで運んだこともありました
(これ、見つかるとめちゃくちゃ怒られるんです、笑)。
通勤時間や昼休みに寝ようとすると、
「仕事も覚えてねぇ奴が寝れると思うなよ!俺の時代はなぁ〜」と
定番のお説教が飛んできました。
打撲や打ち身は当たり前で、先輩に道具を貸したら無くされるなんて日常茶飯事。
いわゆる“可愛がり”も含めて、仕事の厳しさを肌で感じました。
でも、そんな日々の中で色んな人が顔を覚えてくれて、
現場で顔を合わせると
「お!◯◯さんとこの〇〇君じゃないか!ドヤされてないか?笑」
と気さくに声をかけてくれる人も増えました。
お説教を受けた後に近寄ってきて、
「お前が頑張ってるのは周りがちゃんと見てるから。踏ん張れよ。」
職人さんたちのまっすぐさを見て、
「ここで絶対に3年は続ける」と何度も何度も心に誓いました。
ただここまで言うと美談ですが当時の事を思い出すと
3年は続けるって自分に言い聞かせてたけど、だいたい朝はダルいなぁって思ってましたし、
職場での可愛がりもたまに度が過ぎて普通にめっちゃイライラしてましたし、理不尽なことも散々やられましたし言われたし、
現場監督が同僚と同じノリで私をいじってきた時は
「この野郎…。」って思ったりもしてました笑
それでも一週間に一回くらいは褒められることもあったのでそれを糧にして、
「こいつら全員見返してやるから今に見てろよ…。」
と復讐心に近いやる気の炎を脳内でメラメラと燃やしておりました
まぁその火が消えかけることも、しょっちゅうありましたけど笑
【親方との会話】
一つ、とても印象に残っている出来事があります。
その現場にいた親方の一人で、周りからも一目置かれる発言力のある方でした。
いつも周りを気にかけてくれて、私達が仕事をしやすいように
周囲と調整してくれる、本当に“背中で語る”かっこいい親方でした。
ある日、その親方とタバコ休憩が重なり、二人で並んで煙をくゆらせていると
「お前、いつもシゴかれてるけど、仕事つまんねぇだろ?
元々大学もいいとこ行ってたんだろ?
お前はこんな場所じゃなくて、もっと別のところで働いた方がいいんじゃねぇの?」
と聞かれました。
私は3年は続けると決めていましたが正直ずっと続けるとは決めてはおらず、でもそんな事を馬鹿正直にこの親方へ言えば
「てめぇ甘えた事言ってんじゃねぇぞ!」
とどやされるか、私の先輩に言われたらきっとこの後大変なことになる。でも嘘は付きたくない…。
そんな私が精一杯怒られず、自分の気持ちを嘘なく伝えようと考えこう答えました。
「仕事はもちろん大変ですししんどくないって言ったら嘘になります。
でも、一生懸命頑張るって決めたらどんな仕事でも楽しいです!
だから俺は今の仕事楽しいですよ。」
それを聞いた親方は大笑いして
「そっかそっか!一生懸命やったら何でも楽しいか!
おう、お前のこと気に入ったわ。
うちで働け!親方に話をつけてやる。
これはマジで言ってんだからな?
俺もそう簡単に人に声をかけると思うなよ?」
と笑いながら言ってくれました。
びっくりしましたが、私は謹んでお断りしました…笑
でも、あの親方に「お前がいい」と言ってもらえたことが、
心の底から嬉しかったのを今でも覚えています。
このとき私は初めて、
「やった分だけ誰かに認められる」という
当たり前の感覚を取り戻せた気がします。

ものすごく熱くなる、海賊みたいな人でした。
【危険と隣り合わせの現実】
やりがいは、ありました。
同級生や先輩たちはみんな本気で厳しかったけれど、
それは全部「お前を一人前にするためだ」と伝わってきていました。
「お前の年齢で新人はこの業界じゃ若くない、どんどん覚えて責任を持て。
早く追いついて一緒に現場を回せるようになれ。」
そんな言葉も、当時の私には嬉しかった。
怖いぐらいに正直な現場の人たちの声に、何度も救われました。
でも、どうしても拭えない不安がありました。
同級生も、その会社の他の先輩たちも、
みんな誰かしら体を壊していました。
腰が悪いのは当たり前、指が曲がらない、足が悪い人もいた。
若い人間なんて本当に貴重で、
40代で「若手だ」なんて言われる世界。
それを肌で感じるたびに
「このまま自分は何十年も立っていられるんだろうか」と思っていました。
ある現場では、雨の吹き抜けのエレベーターホールで
幅5センチほどの板の上に立って作業をしたことがあります。
安全帯をかけてはいたけれど、
少しでも気を抜けば地上6階から落ちてしまう。
「足を滑らしたら死ぬな」と、
そんなことを考えながら足を踏ん張りました。
組んだ資材が前からドミノ倒しのように崩れて、
自分の目の前1メートルで止まったこともありました。
あと少し遅れていたら、どうなっていたかわかりません。
そして一度だけ、協力会社の人たちが
作業中の事故で命を落とすのを目の当たりにしました。
私がかわいがってもらった職人さんたち。
優しくて、気にかけてくれて、若い自分にも丁寧に声をかけてくれた人たちが
ある日突然いなくなってしまった。
「この仕事を続けるっていうのは、
こういうリスクとずっと隣り合わせなんだ。」
それを実感した時、心がすごく揺れました。
頑張ろうと思っていたのに、心の奥底で
「この仕事を自分の一生の仕事にするのは違うかもしれない」と
思ってしまったんです。
誘ってくれた同級生は責任ある立場で、
彼には本当に頭が上がりませんでした。
だからこそ、辞める話は親方に直接お願いしました。
親方は理由を聞いて、黙って頷いてくれました。
「わかった。」とだけ言ってくれた、
あのときの背中を私は今でも忘れません。
もちろん、同級生には激怒されました。
「誰のために口を利いて入れてやったと思ってんだ!」
「一生連絡してくんな!」
そう言われて、私たちは一時、友人関係も切れました。
でも、今ではまた笑って話せる仲に戻れています。
あのとき私は、自分の命を守るために、
自分の未来を選ぶために、この道を手放しました。
取捨選択をしたつもりはなくても、
私の人生の中で「大切なものを置いて進む」という決断を、
あのとき初めて自分の意思で選んだのかもしれません。
【WEBライターとして見た世界】
こうして職人の仕事を辞めるとき、
ありがたいことに、私には次の居場所になるかもしれない場所が見えていました。
前にお世話になった方のご縁で、
「お前、うちで社員として働いてみないか」と声をかけていただいたんです。
本当にありがたい話でした。
ただ、何度か話を重ねるうちに、
「まずはお互いのやり方を見ていこう」ということになって、
最終的には“社員”ではなく、業務委託契約を結んで関わる形に落ち着きました。
⸻
そこから私は、いわゆるフリーのWEBライターのような立場で、
イベントの取材、映画の発表会、グラビア撮影の現場などを飛び回ることになります。
普段テレビの向こう側にいる人たちにインタビューをしに行き、写真を撮り、自分の記事がwebページに載る。
職人をやっていた時とは別の達成感や今までとの非日常にワクワクし頑張ろうと思っていました。
あとはグラビアの取材が多く、間近で綺麗な女性の方々を間近で見れることにも役得を感じていたのは事実です…笑
取材現場には、芸能関係の方々や、いわゆる“業界の人”と呼ばれる人たちが集まっていました。
私は誰かに名前を覚えてもらえるような立場ではありませんでしたが、
ただ、その人たちがどんなふうに人脈を築き、
どんなふうにお金を使い、どんなふうに“接待”をしているのかを、
間近でずっと見せてもらうことができました。
ときには誰もが知っているような繁華街のお店で、ときにはディープでニッチな場所で社長さん達の接待をすることもありました。
(※このあたりの話は個人的に面白いと思うので需要があれば番外編として書いてもいいかもしれません)
高級な店やお酒のマナー、
どんな言葉をかければ場が和むのか、
どこまでが許されて、どこからが礼儀なのか。
何も知らなかった私には、
その一つ一つがすごく新鮮で、どこか大人の“社会勉強”のような時間でした。
⸻
こうして、職人の現場とはまったく違う世界で、
人のつながりの作り方や、
“信頼をお金に変える”という感覚を、
私は少しずつ教えてもらっていました。
【再び“現場”へ】
けれど、どんなに新しい世界を垣間見させてもらっても、
所詮はフリーのWEBライター。
現実的には原稿料の未払いがあったり、
契約とは話が違うこともあり、正直思ったほどお金にはなりませんでした。
「このままじゃ、やっぱり食っていけないな…」
そう思いながらも、少しでも生活を繋ぐために
私は再び“イベントバイト”をちょこちょこ入れるようになりました。
現場では、当時はまだ派遣スタッフとして
呼ばれるままに動いているだけの立場でしたが、
そこである人に声をかけてもらったんです。
「お前、動きがいいな! その派遣でいくらで働いてんだ?
もしうちでやるなら、もっと時給出してやるぞ。
遠方への出張もあるし、面白い現場もたくさんあるぞ。」
今思い返せば、
この声をかけてもらった瞬間が、
私が“イベント業界”に本格的に足を踏み入れるきっかけでした。
WEBライターの仕事を続けながら、
私はだんだんと“イベント”という現場の面白さに
惹かれていくことになります。
職人として汗を流した時間、
接待の現場で見た知らない世界、
どちらも私にとっては大切な“通過点”でした。
次の話では、
このイベントの世界で私が何を見て、
どんな人と出会い、
どう自分を試すことになったのかを、
ちゃんと残しておこうと思います。
【第4章】あとがき
職人としての時間も、
WEBライターとして外の世界を少し覗けたことも、
全てが私にとって必要な通過点でした。
振り返れば、
当時の彼女には本当に大きな裏切りをしてしまったと思います。
支えてくれていた人を最後の最後で自分が信じられなかったこと、
それは今でも消えない当時の自分の弱さです。
ただ一方で、
職人として誘ってくれた友人との関係は、
一度は大きくぶつかって離れたとしても、
自分で話しに行って、ちゃんと謝って、
時間をかけてでも繋ぎ直すことができました。
私はこの経験で、裏切りには “2種類”あると学びました。
仕事の縁や人との約束をどう繋ぐか。
誰かに救ってもらった以上は、
どこかで必ず自分が“自分の責任”を背負わなければいけない。
その当たり前のことを、
私はこの3、4年でようやく強く心に刻むことができました。
この続きでは、イベントという現場で私は何を見て、
何を感じ、どうやって立ち直っていったのかを
正直に残しておこうと思います。
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