見出し画像

【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日7


CASE 04  まぼろしの木曜日




目を開くと、見慣れたいつもの風景だった。
耳鳴りは止み、心臓の鼓動の速さだけが、さっきまでの出来事が現実だったと告げている。
事故に遭ったはずなのに、傷一つない。汗が背中を伝い、ALOHA Tシャツは水色から濃い青へと変わっていた。
脱ぎ捨てるようにシャワーを浴び、LINEの通知が消えているのを見てため息をついた。
テレビの日付と「18日連続真夏日」という言葉に、苛立ちが募る。



俺はいつもより少し早い電車に揺られている。最初はもう、どうにでもなれと思った。それでも足は、いつもより早い電車を選んでいた。
そうだ、見積書の修正をするのを忘れていた。再作成してメール送付、それでいい。

「次は大手町、大手町」

アナウンスとともに駅の改札を出て辺りを見渡したが、やはり美里の姿はどこにもなく、LINEを入れることにした。

『おはよう。なかなか連絡ができなくてごめん。
話したいことがあるので、夜にでもまた連絡します。暑いから体に気を付けて、今日も仕事頑張ろう』

これで良し。会社のエレベーターを出たところで、後ろから声がかかる。

「杉田くん、ちょっと……」

部長の声だ。振り向いた瞬間、彼のスマホが鳴る。
ディスプレイに表示された名前が、一瞬だけ目に入った。“山下専務”

「あ、悪い。杉田くん、また後でいいかな」そう言って、スマホを耳に当てながら歩いていく。
何を言われるつもりだったのか。会釈をして自席へ向かった。
また、少し違う。今朝はもう、叱られる理由がない。でもそれだけじゃない。時間を変えることで会う人も変わる。
少しずつ変わっている。いい方向に?それとも悪い方向に?
救いなのか、罰なのかは、まだわからない。
浮かんでは消える疑問をキーボードに叩きつけながら午前中の仕事を終えた。





ループが始まる前は外で昼を食べ、そのまま取引先に向かった。
なので今度は社食で手早く済ませて車で向かうか、少し方法を考えよう。
混雑している社食では、いつものA定食とハヤシライス、ほかにもいくつかメニューがある。ちなみにA定食のメニューは肉じゃがだった。
先日の山崎さんとのやり取りを思い出して、ハヤシを注文した。
ほぼ満席に近い状態で空席を探していると、「杉田!もう食べたから、ここ空くぞ」と渡辺に声をかけられた。

「お疲れ」
「ありがとう、助かる」

渡辺は空になった食器をまとめていた。

「あ、そうだ。今度、四つ星商事の受付の子と合コンの話があるんだけど、杉田も来るだろう?」

渡辺は得意げに口元をほころばせている。四つ星商事との合コン。今までなら即答していただろう。

「……いや、やめておくよ」
「え、なんで。ああ、美里ちゃんだっけ。はっきりさせたんだ?」
「……まだだけど。きちんとしておこうかなって思っただけ」

そう告げると、渡辺はさらに嬉しそうに見つめてきた。

「お、真面目じゃん。まあ、上手くいくといいな。じゃ、俺行くわ」
「ありがとう。それじゃ」

渡辺が座っていた席に滑り込む。ハヤシライスが半分くらいになった頃、山崎さんが食堂に入ってきた。ちょうど前の席が空き、そこを見つけた彼女が「ここ、いいですか?」と視線を向ける。

「あ、はい」
「良かった。なかなか席空かないんですよね」

山崎さんは食堂でサラダを買い、持ってきたお弁当を広げる。その中身は肉じゃが。
にんじん、じゃがいも、インゲン。卵焼きとミニトマトが彩りよく収まっていた。
階段から落ちた日のことが頭をよぎり、胸がぐっと締めつけられる。彼女の記憶の中にはなくても、雑に扱って傷つけた事実は変わらない。
なのに目の前では、まるで何もなかったかのように肉じゃがが箸で掬われていく。
それが、どうしようもなく心苦しかった。たとえ彼女が覚えていなくても、自分の中では無かったことにはならない。

「そうだ、杉田さん。食事の話なんですけど」山崎さんの声のトーンが低くなる。今回はまだ彼女には何も告げていない。

「ああ、ごめん。その話なんだけど、行けなくなった」

山崎さんの箸の動きが止まる。

「厳密には付き合ってると言えるかわからないけど、まだ心に残っている人がいて。だから行けない。軽く受け流すようなことを言ってしまって、不誠実だったと思う。ごめん」

頭を下げると、少し切なくて優しい声が返ってきた。

「もう、やめてくださいよ杉田さん。そんな深刻に謝られたら困ります。部署の食事会の話ですよ?……そんな大げさに言わないでくださいよ」

山崎さんは明るい声でそう取りなし、周囲の視線も散っていった。

「大丈夫ですよ。わかりましたから。渡辺さんにはそのように伝えておきます」
「あ、ああ……」
「さ、杉田さん、食べたら席空けないと。待ってる人がいますよ?別の意味でも、多分」

山崎さんにそう促されて席を立つ。
彼女のお弁当は、きっといつか、他の誰かのもとへと届く。肉じゃがは、つややかに光りながら箸にすくわれていった。


◼️


取引先にはタクシーで向かい、帰りもタクシーを使うことにした。歩かなければ、確率的に事故に遭うことは減るだろうと考えたからだ。
一日の予定を終えた涼しいタクシーの中で、ポケットからスマホを取り出す。
ちゃんと話がしたい。今度こそ向き合わなくちゃいけない。

「あー、なんか事故があったみたいですね、ちょっと迂回します」

運転手の言葉に、視線をスマホに向けたまま「はい」と呟く。今朝送信したLINEは既読になっていたけれど、朝と変わらず沈黙している。
けれど、もう待つのはやめようと思った。会えないなら、電話でもいい。いや、電話でいい。
タクシーを降りて自宅に戻り、エアコンを付けると、その勢いのまま意を決して通話ボタンを押した。 そうだ、揺らがないうちに。起きたときのままのタオルケットを眺めていたら、数コールの後、美里が出る。

「……どうしたの? LINE、見たよ。今日はちょっと忙しくて。まだ仕事中なんだけど」
「……ごめん、急に。話したいことがあって。大事なことなんだ」

少しの沈黙のあと、美里が「うん」と答える。一度、息を整えた。
心臓がひとつ打つたびに胸の奥がぎゅっと狭まっていく。
これまで逃げてきたこと全部が、いま喉の奥に詰まっているようだった。

「——美里。俺と、結婚——」

言葉の最後に、わずかなためらいが残った。ため息が聞こえて口をつぐむ。俺が言い切る前に、受話器の向こうで、美里が小さく息を吸う。

「……それは、違うと思う」

静かで、優しい声だった。
喉の奥に言葉が貼りつき、最後まで言えなかった「してくれ」が、宙にぶら下がったまま消えていく。
声を聞いた瞬間、ああ、と思った。
五年という時間より、もっと長く聴いてきた声だった。間違えようがなかった。

「亮介がそう言うのは、今じゃないと思う。ずっと向き合ってくれなかったのに……その埋め合わせみたいに言われても、困るの。
私ね、何年も待ってきた。でも、そのあいだに心が離れてしまったの。もう、戻らない」

声はあくまで優しかった。責めるでも突き放すでもなく、ただ事実を確認するように。

「……ごめん。でも、本気なんだよ」
「わかってる。でも、私も本気だから。だからこそ無理だと思う。もっと早く言って欲しかったな。そういう未来にならなくて残念だけど……楽しいこともあったよね。感謝してる。ありがとう」

通話はそれだけで終わった。ありがとう、と言われたのに、その言葉の中に自分の居場所は、もうどこにもなかった。画面が暗くなっても、スマホは掌の中でずしりと重い。
何をどうすればよかったのか。遅かったのか、違ったのか、あるいはその両方か。

わからないまま、サンダルをひっかけてふらりとコンビニへ向かった。
店に一歩足を踏み入れると、冷気が体を包み込む。
アルコールの棚の前に立ち尽くし、冷えたビールを一つ、二つ、三つ、四つと手に取る。

あれが美里の答えだ。
どれだけ同じ木曜日を歩き直しても、彼女の気持ちだけは、もう戻らない。
何を言えば良かった、という話ではない気がしていた。そもそも、やり直せる場所に、もう立っていなかったのかもしれない。


気づけば、かごの中は缶ビールと安いつまみばかりで埋まっていた。つまみにさきいか、ポテトチップス。手がチョコレートに伸びるが、美里が好きだったお菓子だと気づいて慌てて棚に戻す。

「レジ袋はつけますか?」
「お願いします」

会計を終え、マンションまでの道をとぼとぼ歩く。夏の夜は妙に音が静かだ。オートロックを抜け、エレベーターに乗り込む。ボタンを押し、扉が閉まる。蛍光灯の明かりがやけに眩しく感じる。 数階を上がったところでゴンッ、と腹に響く衝撃。
直後に、ヒュウウウと機械が止まる音が響く。

「……え?」

一瞬、思考が凍る。天井の照明がわずかに明滅し、壁が軋むような小さな音。
その直後、ズズズッと地の底から響いてくるような重たい揺れ。
床がじわりと斜めに傾いたような錯覚に襲われる。

「——っ!」

いつのまにかビニールが破れて缶が転がっていく。
慌てて追いかけたとき、視界がぐらりと揺れる。ビルケンシュトックがつんのめる。
散らかったつまみに手を伸ばしたとき、視界が真っ暗になった。  

暗闇の中で、ひとつだけ思った。
美里はもう、戻らない。耳の奥で、世界がぷつりと途切れる音がした。




▶︎八話

いいなと思ったら応援しよう!