【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日5
CASE 03-1 うつろいの木曜日
目を開くと、同じ天井があった。
視線を下ろすと、見慣れたTシャツが汗でびっしょりと体に張り付いている。
乱れた息を整えながらベッドの上で体を確認する。――怪我はない。
何かが刺さったはずの足の裏には傷一つない。アスファルトに擦ったはず掌も汚れていなかった。
熱を帯びた路面の感覚も、手のひらの焼けるような痛みも鮮明に残っているのに、痕跡はどこにもない。
まるで最初からずっとこの部屋にいたかのように、足元ではタオルケットが丸まっていた。
……待てよ。美里の荷物は?
慌てて立ち上がり、洗面台へ駆け込む。棚には化粧品が並び、歯ブラシもそのまま。料理本が何冊か本棚に並んでいる。ペラペラとページを捲ると、肉じゃがの写真で手が止まった。
何度も作ってくれた彼女の肉じゃが。苦手なインゲンを「ちゃんと食べて」と怒られたことを思い出す。
醤油のシミが茶色く飛んでいる。──確かにここに、彼女はいた。
本棚に戻す指先が、ほんの少しだけ躊躇した。
料理本と並んで、金沢のガイドブックがある。
そういえば、旅行先で二人そろって風邪をひいたことがあった。せっかく取った連休だったのに、金沢観光はほとんどできず、ホテルで寝てばかりいた。
「何しに来たんだろうね」と美里は笑っていた。
コンビニで買ったスポーツドリンクを半分ずつ飲んで、くだらないテレビを眺めていた。
楽しかった旅行はいくつもあったはずなのに、不思議とあの日のことだけはよく覚えている。
もう一度、行けないままだった。
部屋の隅にはバッグが置かれ、クローゼットを開くと、畳まれた着替えやパジャマまで揃っていた。規則正しく並ぶ衣類の整然さが、彼女の几帳面さを物語っていた。
昨日、確かに彼女は荷物を持っていったはずなのに。――いや、昨日は本当にあったのか?
指先が布の端に触れそうになり、その手を途中で止めた。触れたら、今の形が崩れてしまう気がした。扉を静かに閉めた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
「……またかよ」
声に出した瞬間、Tシャツの“ALOHA”の文字が視界に入り、無性に苛立った。
まさか、このまま永遠に木曜日を? 美里とのやり取りまで何度も繰り返すのか?いったい何のために?
胃の奥に冷たいものが落ちていくのを感じながら、スマホを確認する。LINEに美里からの通知はない。
だが、それ以上に胸を抉ったのは画面に浮かぶ『8月21日(木)5:25』の数字だった。
予想していた。現実を突きつけられて思わず唇を噛んだ。
氷をコップに落とし、冷水を一気に飲み干す。喉から胃にかけてひんやりと染みわたる感覚が、かろうじて思考を落ち着けてくれる。
……整理しろ。間違いなく俺は「8月21日」を繰り返している。繰り返すたび、彼女は覚悟を問う。
美里や渡辺、かおりちゃん、そして部長。彼らの様子を見る限り、この異常を覚えているのは俺だけだ。
居酒屋で椅子から落ちた。階段から転げ落ちた。そして今度はアスファルトに倒れた。
そのたびに、朝へ戻された。理由はわからない。ただ、一つだけ確かなことがある。選び直す時間は与えられている。
カラン、とコップの中で氷が鳴った。テレビをつけると右上の時計は「5:26」。
「東京では本日で、18日連続猛暑日となる見込みです」
やっぱり、同じ言葉。昨日も、その前も。胸の奥にひらめきが灯った。
──そうだ。
俺はずっと同じ選択をしてきた。だから同じ朝に戻ってくる。なら今度は、選ばなかった方を選んでみよう。その考えに背中を押されるように、急いで身支度を整え、朝の空気の中へ飛び出した。
◼️
いつもより一時間ほど早い電車に乗った。最寄駅を6時18分に出発するその車内は人がまばらで、座席にも空きがある。
普段は立ちっぱなしの通勤電車が、今日は妙に静かだった。途中で電車はスムーズに進み、あの急停止は起こらなかった。
思わず車内を見回したが、新聞を広げるサラリーマンも見当たらない。空いている席に腰を下ろした。
今日はどうしようか。選ばなかった方を選ぶとはいっても、うまくやれるだろうか。
――また気がついたら部屋に戻っていたらどうしよう、と考えると胸がざわつく。
そんなことを考えているうちに、大手町に着いた。
改札へ向かいながら、前に美里が立っていた左手の柱を確認する。あたりを見回してみても……誰もいない。
美里の姿はなかった。それどころか、駅構内の売店すらシャッターが半分しか開いていなかった。
ああ、そうか。この時間にはまだ「昨日の出来事」に登場していないのだ。渡辺の姿も見えない。
不思議と胸が軽くなり、早歩きでビルに向かった。時間外受付の手続きをしてオフィスへ向かう。
こんなに早く出社するのはおそらく初めてだ。本来なら上席に申請をしてから早朝出勤するのがルールなので、部長に「急ぎの案件があるので早く出社する」とだけ連絡しておいた。
まだぬるい空気に包まれた静かなオフィスに明かりを灯し、ノートパソコンを起動させると、すぐに例の見積書を開いた。
やはり桁数が間違っていた。修正したデータを添付して、黒澤部長をBCCに入れてメールを送る。
これで問題はマシになるだろう。仕事を続けていると、ちらほらと人が出社してきた。
「おはようございます、杉田さん。早いですね」
「おはようございます。ちょっと急ぎの仕事があって」
そんな会話をしていると、かおりちゃんがオフィスに入ってきた。時計を見ると始業の20分前。
「ちょっといいかな?」
背後からかおりちゃんを呼び止めた。少し緊張する。
「なんでしょう?」
かおりちゃんはふんわりとほほ笑む。この前、肉じゃがの日と同一人物とはとても思えない。
ふわりと笑ったその顔は、あの日の険しさが嘘のようだった。
――今、伝えなければ。
落下したのはただの事故だったとはいえ、少し足が竦む。階段には近寄らないほうがいいだろう。
「手短に済ますから、会議室までいい?」
「え、あ、はい」
俺は空いている会議室に入るやいなや、「ごめん!」と言いながら彼女に頭を下げた。かおりちゃんはぽかんと口を開けている。
「杉田さん、どうしたんですか?」
「謝らなくちゃいけないんだ。実は、か、山崎さんと食事に行きたいって思ってたんだけど……行けなくなった」
「え、あの??」
話についていけない様子で、彼女は首を傾げる。
それはそうだ。出社して早々、朝の忙しい時間にこんなことを言われて困惑しない方がおかしい。
「実は、本当は付き合っている彼女がいて。もう別れてるようなものだから、いいかなって思ったんだけど、不誠実だったよね。軽い気持ちで約束をしてしまって申し訳ないと思っています。ごめんなさい」
頭を下げたままそう告げた。すると、しばらくして頭の上から笑い声が聞こえてきた。
「ちょっと杉田さん、やめてくださいよ!誰かに見られたら勘違いされちゃいます」
かおりちゃん、いや、山崎さんは、安堵と可笑しさが入り混じった涙を浮かべながら笑った。
「たまたま食事に行こうって話になって、それが流れただけですよね?
まあ、今はコンプライアンスも厳しいし、きちんとしておきたい気持ちもわかりますけど……。大丈夫ですよ」
「いや、本当にごめん」
「もういいですって。それより杉田さん、誰かいい人がいたら教えてくださいね!私、婚活中なんですよ」
突然の思ってもいない言葉だった。その言葉が胸の奥に静かに沈み、わずかに鈍い痛みとなって残った。
「え、はい。うん」
「だから、彼女のいる人にかけられる時間もないんです。話してくださってありがとうございます。じゃあ、もういいですか?」
俺が頷くと、山崎さんは会議室から出て行った。体の力が抜けて椅子に思わず腰かける。
多分これで大丈夫なはず。彼女の切り替えの早さ、明るさ、「婚活中なんですよ」と笑ったのも俺を気遣ってくれたからなのだろう。胸の奥が少し熱くなる。
いい子なんだな、山崎さん。彼女の中身を知ろうともしなかったことに、改めて申し訳なく思う。
靴紐を結び直す。――今度は結び目を確かめて、強く引いた。これまで何度も躓いてきた足元だ。剥げたつま先が目に入り、思わず苦笑する。
――帰ったら磨こう。今度こそ、前を向いて歩くために。
▶︎六話
