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【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日6


CASE 03-2   うつろいの木曜日




いくつかの電話に出てメールを返していると、黒澤部長が近づいてきた。見積書の修正はしたはずだけど……また何か間違えただろうか。

「杉田君。ちょっといいか?」

俺はすぐに立ち上がり、パーティションで仕切られたミーティングスペースへと向かう。
──また同じ展開か。でも、今回は違う。そう自分に言い聞かせた。

「見積書、日本スマイリーの分を確認したぞ」
「はい、確認不足ですみませんでした」
「おお、あれはよく直したな。先方にも無事提出できたようで、先に確認してくれたのか?」
「はい。ミスが見つかったので、念のため朝イチで修正しておきました」

部長は静かに頷いた。

「あれ、もしそのまま出していたらまずかったぞ」そう言って言葉を区切り、俺をまっすぐに見つめる。

「杉田君、前から聞きたかったんだけど……これからどうしたいと考えている?」

──この奇妙な木曜日から抜け出したいです。
もちろん部長が言っているのはそういうことではない。黙っていると、部長は続けた。

「何をしてるときが一番しっくりくるか──考える時期なんじゃないか」
「ありがとうございます」と頭を下げた。
ミーティングスペースの小さな机の上に部長が軽く手を置き、反対の手で眼鏡のつるをくい、と上げる。
これは部長が考え事をしているときの癖だ。仕立てのいいネイビーのスリーピース姿で、じっとこちらを見つめている。
その視線が俺の足元に一瞬落ちる。

「ええ、午後には。……はい、では改めて資料を送ります」

──電話は変わらないんだな。おそらく専務だろう。ということは行動によって「自分に関すること」だけが変化するのか?

「悪いな。専務からだった。あの人はせっかちでな、全く」

黒澤部長はスマホを指で小突いた。

「あ、いえ、大丈夫です」
「じゃあ、これからも頑張ってくれ。頼んだぞ」

肩に優しく手が置かれ、部長はにっと笑って席へと戻っていく。その後ろ姿を眺めていたら胸の奥で熱いものが広がった。誰もいないのを確かめ、テーブルの下で拳を握りしめた。


◼️


5時30分。打ち合わせは無事に終わり、取引先のビルを出て大通りへ向かって歩き出す。
夕方の日差しはまだ強く、背中をじわりと汗が伝っていく。ふと、視界の左に見慣れた暖簾が揺れていた。
一昨日、いや“最初の木曜日”に入ったあの居酒屋だ。今日は素通りすると決めていたのに、足が一瞬だけ止まりそうになる。

冷えたビール、冷やしトマトの酸味、しょっぱすぎた刺身のことが脳裏をよぎる。
入り口の脇では、昨日と同じ店員が小さなホウキで不揃いなタイルを掃いていた。店員と一瞬目が合ったが、彼はすぐに視線を落とし、作業を続けた。
俺は工事中の看板を少し眺めたあと、駅へと向かった。
歩きながら今日を振り返る。居酒屋には寄らなかった。渡辺とも喋らなかったし、山崎さんともきちんと距離を取った。その副産物として部長には褒められた。

「……これでいい。今度こそ、大丈夫なはずだ」

そう自分に言い聞かせながら歩道を進む。夕暮れ時の空は真夏特有の紫がかった色をしていて、ビルの隙間から風が大きく吹き抜け、スーツの袖口をわずかに揺らした。
俺はプライベートのスマホを取り出し、母親に連絡を入れる。
昨日、美里と会ってから気になっていたこと──彼女とちゃんと生きていくことができるだろうか。
彼女が望むように家庭を築くことを、今の自分はできるだろうか。

「……かあさん、今、大丈夫?」

電話越しに、驚いたような、それでいて嬉しそうな声が響いてくる。

「どうしたの? ちゃんと食べてる? 今度いつ帰ってくるの?」

取り締まりのような立て続けの問いかけに適当に答えると、その答えに一応は満足したのか、母は言葉を区切った。

「ところで、電話してくるなんて何かあった?」
「いや、なんでもない。ただ……ひとつだけ聞いていい?」

少し沈黙を置いてから訊いた。

「かあさんは、結婚して……よかった?」

受話器の向こうで、小さく息をのむ気配があった。これまでこんなことを聞いたことはない。
子どもの頃から両親の仲があまり良くなかったことは見ていてわかっていたからだ。

「……いろいろあったけどね」母の声はそこで途切れ、これまでの長い年月を逡巡しているように聞こえた。
「若いころは喧嘩ばかりだったし、お父さんとも正直うまくいかない時期もあった」
「うん」
「でも、あなたたちが生まれてきてくれて、いま思えば……それでも幸せだったなって思う」
「そっか……」

母の声が穏やかだったことにほっとした。俺たち子供がいたから離婚できなかったのじゃないか、足枷になっていたのではないか──そう感じていたからだ。
実際、シングルで子供を育てるのは大変だし、ましてや母の世代なら別れるという選択はなかっただろう。

「亮介、誰かと結婚しようと思ってるの?」
「まだちゃんとは決めてない。ただ……相手をちゃんと幸せにできるのかなって、ふと思っただけ」

母は少し笑って静かに言った。

「完璧になってからじゃ、きっと遅いよ。誰かと一緒にいたいって思った時が、そのときなのかもしれないね」

ありがとう、とだけ告げて通話を切った。
結婚。美里を幸せに出来るだろうか。

「ちゃんと食べてる?」

母の言葉が耳に残る。
その一言で、不意に美里と囲んだ食卓のことを思い出した。肉じゃがの皿に、苦手なインゲンをわざと多めに盛る。

「ちゃんと食べて」
「嫌だ。苦い」
「子供か」

美里は呆れたように笑っていた。いつかの食卓を思い出す。あの笑顔をもう一度みたい。

画面が暗くなったスマホを見つめていたら、美里のLINEのアイコンが通知画面に突然現れた。
以前は開く前に消えてしまったあのLINEだ。早くしないとまた削除されてしまうかもしれない。
震える指でパスコードを押すが、うまくいかない。早く、早く、早く……!
横断歩道を渡りきる足が、一歩、二歩と重くなる。――次の瞬間だった。

目の前から飛び込んでくる車のライト。ブレーキの音が耳を切り裂くように響く。動けない。
足の裏が地面に張りついたみたいに。
明るすぎる光、運転手の叫び、周囲の悲鳴のような声──耳鳴りがしてよくわからない。

――ああ、うまくやれたと思ったのに。
今度は自分で選んでしまったのかもしれない。

ライトが視界を白く塗りつぶしていく。クラクションが大きく鳴っている。
最後に目に焼きついたのは、美里の犬のアイコンだった。



▶︎七話

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