『その刀の煌めきは』二章:夢の中。#3
誰かが走っている。必死に暗闇を走り続けている。手を振って、大地を蹴って、前へ前へと進んでいく。
自分が今立っている場所を確認する。枯れ葉と土が混ざり合った地面。それから落ち葉の主であろう木が何本も生え広がっている。それから立つのに安定しない斜面。さらにひんやりとした夜の空気と土の匂い。
おそらくここは山だ。どこの山かわからないが、とにかく山だ。それはわかる。
それから月明かりが地面を照らしている。街灯など明かりは一切なく、それでも足元がわかるほどに照らされているのは、この月の光のおかげだろう。
再び走っていた誰かに目を向ける。さっきまで見えていなかったものに気が付く。走っている誰かの後ろに、またもう一人いる。同じように続けて走っている。誰かが追いかけて、誰かが逃げている。
そしてもう一つのことに気が付く。逃げている方はボロボロの服装に子供のように小さな背。黒く赤い肌。その体系に似つかわしくない発達した筋肉。そして、前頭部から長い突起が——角が——生えている。
追いかけている方は白っぽい肌を甲冑に包み、手には一振りの刀を持つ。その刀身が月明かりに照らされ白く明るく輝いている。器用に跳ねて悪い足場を踏み越え、距離を着実に縮めていく。その動きは重く頑丈な甲冑を着込んでいるとは思えないような軽い身のこなしだった。
「——これで終わりだ」
追いかけて走る甲冑から静かに言葉が漏れた。
大きく踏み込み、一瞬で距離を詰める。刀を振り上げ、逃げ惑う影に容赦なく振り下ろす。
小さく短い悲鳴が闇夜に残って、消える。
暗くてよくわからないが、刃が赤く染まっているように見えた。
(一体何や、これ)
戸惑いが隠せない。目の前で人が殺された。
いや人なのかわからないが、とにかく目の前で殺された。
それでもあまり動揺していないのは、現実味が無さすぎるからだろうか。
この光景が現実じゃないのは、なんとなくわかる。追いかけられていたのは鬼とか妖怪みたいなものだろうか。そして追いかけていた鎧武者。
明らかにこの現代には存在しない者たちだ。鎧武者も鬼も、どちらもこの現代においては絶対に存在しない。いや絶対とは言い切れないが、間違いなく俺がこんな簡単にお目にかかれるような存在ではない。たぶんもっと俺なんかより出会いたい研究者の人らはたくさんいるだろう。
そんなものらを今目の前にしている。
うん、これはきっと夢。そうとしか考えられない。
ふと気が付くと、周囲に気配を感じる。暗闇の中にいくつもの影が浮かぶ。数体の小さな影。一瞬空気がひりついたのを感じる。
だがその空気のひりつきの意味が分からなかった。次に何が起こるのか、想像できていなかった。空気の異変に気が付き、周囲を見渡す。
小さな影、鬼たちは俺の周りを囲んでいる。そして俺の方を強く睨みつけている。
そう気づいてから、さすがにこの状況で次に何が起こるかは想像できた。だが体は動かせない。その場に金縛りのように硬直している。
鬼たちは次の瞬間、一斉に跳びかかってきた。
長く尖った爪が俺に向かって一斉に伸びてくる。
冷や汗が止まらない。
(うわ、やめ——)
叫ぶことも、動くこともできず、ただただこちらに目掛けて飛んでくる害意を見ていることしかできない。
(もう無——)
もう無理だと、瞳に涙が浮かんだ。
いくら現実ではないとわかっていても、怖いものは怖い。死の感覚が迫っていた。
眼前に尖った爪が迫るその刹那、薄く横一筋に光が見えた。
迫る爪の勢いは止み、眼前から消える。
また何が起こっているのかわからない。
目の前に襲い掛かってきた鬼が血を流しながら倒れている。
さらにわからないまま、次々と周囲を囲んでいた鬼らは倒れていく。
気付くと、目の前に鎧武者が血濡れた刀を持って、こちらに背を向けて立っている。
すらりと長くしなやかな一振りの刀。手に持つ鈍く輝く銀色が、赤く滴っている。
思考が追い付かない。こんなにもはっきりと鮮明な夢があるのだろうか。
とりあえずの危機が去ったことに安堵して、身体の強張りが解ける。脱力した体は、安定性を欠いて思わず尻もちをついた。
後ろに座り込んだ俺を、武者はちらりと見てまた前に向き直る。
背格好しか見えないため、相手の表情が掴めない。
だがその背中は冷たくは見えなかった。大きくて暖かいような印象。ずっと今まで傍にいたかのような安心感。感覚でしかなかったが、俺自身はそう見え、そう思えた。
少なくとも守ってくれたのだから、俺のことを気にしてくれている、気がする。
鎧武者は前方を見続けている。その様子から、まだ警戒を解いていないのがわかる。
ようやく動くようになった身体を起こして立ち上がる。ふと武者が立つその向こうを見る。なにか巨大なものがそこに在るのがわかった。目を凝らせば黒く闇に紛れてそこに何かが立っているのがわかる。
大岩のような体躯に、ごつごつとした筋肉質の四肢。左手には金属製でくすんだ鋼色の金棒を持っている。そして頭部から天に向かって鋭く生える角。明らかに人間の体格ではない。
そんな存在——昔話で見るような、巨大な鬼——が闇の中にボウっと立っている。
その存在の目がこちらを睨んだように、あるいは目標に定めたかのように見えた。
明らかな敵意だった。
その目にはこちら二人が映っている。
鎧武者はゆっくりと二、三歩前に歩き刀を構えなおす。刀の先が闇の方に向く。
いや無理やって。あんな巨大な相手にそんな細い刀が通用するはずないって。
心の叫びが溢れる。
どう足掻いても人間が対等に太刀打ちできるような存在ではない。
あんなの、一方的に殺されるだけやん!
さっきの鬼と比べても明らかに何か異質である。
さっさと逃げへんと!
急いで武者に駆け寄って、逃げようということを伝えようとする。
武者はまたこちらに振り返る。そして優しく笑いかけたように見えた。
その武者が構えると同時に、その刀が再び月の明かりに照らされ輝く。
その武者をよそに、その前方で鬼の姿が消える。次の瞬間振り返る鎧武者の前に現れ、大きく金棒を振り上げているのが見えた。
振り下ろされる金棒。
巨大な鬼の不敵な笑み。
それと、変わらずこちらへ振り返って笑う鎧武者。
それらの景色が一瞬にして目に焼き付く。
——それから、鎧武者がなにか口を動かすのが見えた。
†
気が付くと、三限終わりのチャイムが鳴り響いていた。
「……夢?」
手や額に嫌な汗が滲んでいる。
前に倒れこんでうつぶせて、机にもたれかかっている身体を起こす。
しばらく同じ体勢だったからか、腕が痺れて仕方がない。痺れている腕や身体を見回して五体を確認する。
(最後、夢やと気づかんかった……)
最初の方は夢だとわかっていたはずだった。
それほどまでに引き込まれていた。あの夜の暗さに、冷たい風。それから土や山と混ざり合った血と汗のきつい香り。そして重苦しく張り詰めた殺し合いの空気。
どれもがリアルだった。本当にそこにあるかのような存在感だった。
だがそれらを、俺自身は体験したことがない。
あの化け物は見たことがないし、あの鎧武者とも当然会ったことがない。
なにかのアニメかゲームのキャラクターかとも思ったが、どれにも心当たりはなかった。
俺の頭が勝手に作り出したものといえばそれまでだが、妙にリアルな雰囲気がその存在感を強めていた。
(うーん、昔親父と一緒に見た特撮とかのキャラクターか……?)
考え込んでいると、ふと腕時計が目に入る。時計が指し示す時間は十四時二十五分。
「うわっ、もう時間ないやん!」
四限目の授業が始まるまであと五分。一応周りに配慮して小声で愚痴をこぼす。
足元に置いていたカバンを肩にかけて、急いで図書館を出る。そして次の教室まで全力で走る。
