名前を書いた文書、主語を外した文書〜協議会の応答を読む〜 辺野古転覆事故・第50稿
八月二日、ヘリ基地反対協議会がホームページに一本の文書を載せた。七月三十日の遺族会見への応答である。
会見の翌日、協議会は沖縄のテレビ局QABの取材に口頭で答えている。ご遺族の思いを受けて、当協議会としても真摯に向き合っていきたい、と。文書が出たのはその二日後だった。取材に即答した言葉を、二日かけて文書に組み直した。この時間も応答の一部として数えていい。
文書は長くない。三つの段落と、日付と、団体の正式名称。それだけの文書に、四か月半の経過が凝縮されていた。
まず、題名を見てほしい。「武石知華さまご遺族の記者会見を受けて」。
協議会が事故について出してきた文書で、亡くなった生徒の名前が使われたのは、遡って確認できる限り、これが初めてである。
名前の四か月半
協議会の応答を、時系列で並べ直す。
起点は事故当夜にある。三月十六日の夜、名護市大南の事務所で仲村善幸・浦島悦子両共同代表らが会見し、大変な事故を引き起こした、と頭を下げた。最初の応答は文書ではなく、会見での謝罪だった。
以後は文書が続く。事故直後の謝罪文の呼称は「亡くなられた高校生」。四月八日の「乗船目的および事実関係について」では「亡くなられた生徒様」。五月一日の「事故後対応および安全管理の不備に関するお詫び」では「かけがえのない大切なお子様」。丁寧さは一貫している。だが名前は、どの文書にもなかった。
遺族の側は、最初から名前を出すことを選んでいた。実名での報道を受け入れ、四月十六日の参議院文教科学委員会では伊藤孝恵議員が、ご遺族は実名報道を選ばれた、国会記録にも知華さんの名前を、と述べている。第三者委員会の調査でも遺族は実名での記載を認め、報告書は武石知華さんの名前で事実を認定した。名前を伏せていたのは、遺族ではない。
固有名を避けること自体は、被害者への配慮として広く行われている慣行であり、それを責める筋合いはない。ただ、事実として、遺族が名前を公にする選択を重ね、報告書が名前で書き、両親が名前で会見した後、協議会の文書に初めて名前が現れた。この順序は記録しておく。
対比として置くべき文書がある。学校法人同志社が七月二十八日に出した家宅捜索のリリースには、名前どころか「ご遺族」という語すらなく、詫びの宛先は「関係者の皆様」、内容は「ご心配とご迷惑」だった。第四十三稿から宛先の系譜をたどってきた。八月二日、その系譜に名前が加わった。
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とある地方都市の某外科医のひとり言
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