同志社国際、宛先ごとに違った言葉〜文科省へ・生徒へ・保護者へ・遺族へ〜 辺野古転覆事故・第43稿
宛先
七月十七日の午前二時二十五分、事故から百二十四日目の未明に、遺族のnoteが更新された。書き手は、姉である。題は、自由を学んだ母校に、いま問いたいこと。
姉は二〇二〇年四月、同志社国際高校に入学した卒業生だった。制服がなく、髪型も服装も自由で、帰国生の背景や個性がごく自然にそこにある学校。同校が掲げる三つの主義の一つ、自由主義について、姉はそこで学んだ中身をこう書いている。他者の尊厳を守ること。自分の自由が、誰かの自由や安全を侵していないかを考えること。自由の中にある責任を、自分自身で引き受けること。卒業して別の大学に進んだ後も、京都に戻れば知華さんと一緒に職員室へ顔を出した。それくらい母校が好きだった、と。
その卒業生が、四か月目に、母校を宛先にして書いた。この稿では、学校の言葉を、宛先ごとに並べる。同じ学校が、相手によってどう語ったかの記録である。
遺族への言葉
姉の投稿によれば、三月十六日の事故から四か月の間に、学校から遺族への説明の場は三回だった。三月二十四日と二十五日の保護者説明会。四月の保護者説明会。五月、偲ぶ会の前に行われた一時間の面談。それが全てである。
最初の言葉から数えると、間隔が見える。事故翌日の三月十七日、校長は会見で、救急車や警察車両が来ることで事実がすべて分かった、と語った。一週間後に最初の説明会。その次は翌月。その次は、さらに翌月の一時間。以後、四か月目の今日まで、遺族への説明の場は開かれていない。
文部科学省は五月二十二日、学校の安全管理を著しく不適切と認定し、教育内容が教育基本法第十四条二項に反すると判断した。姉によれば、現行の教育基本法が制定された平成十八年以降、国がこの条項への違反を示したのは今回が初めてである。
それでも学校が繰り返すのは、同じ言葉だという。第三者特別調査委員会が調査中ですので。
姉は、第三者委員会の必要性は理解している、と書く。その上で、問いを並べていく。始業式で知華さんへの黙祷を捧げることに、調査の結果は必要だったか。文科省が認定した問題について自らの言葉で説明することに、第三者の報告書は必要か。事実の認定と、人として向き合うことは、別の問題ではないか。
そして、想像ではなく事実として、と断って二つを記す。沖縄で生徒たちの引率にあたった教員は、今も事故の前と同じように教壇に立ち続けている。開会礼拝を金井船長に依頼するきっかけをつくったとされる外部講師の牧師は、今も月に一回、朝の礼拝に招かれていると聞いている、と。教壇の件は、姉の投稿の二日前の七月十五日に産経新聞が報じており、それによれば国民民主党の伊藤孝恵参院議員が、引率教員はきょうも変わらず教壇に立っている、と国会の側からも指摘していた。処分をしろと言いたいのではない、とも姉は書く。検証が終わるまでの間どうするのかという判断と、その説明はできたはずだ。それすらないまま、すべてが事故の前と同じ形で続いている。投稿の指摘は、そこに向く。
この連載は、捜査中という言葉の働き方を六つ数えてきた。六つ目の、先送りの言葉、という名前は、七月十六日の姉の言葉から借りた。翌日のこの投稿は、その具体だった。学校版の言い回しまで、姉は特定している。調査中ですので、である。
文科省への言葉
では、学校は調査する側に何と言ったか。
文科省が五月二十二日に公表した報告書によれば、学校側は聞き取り調査に対し、年間を通じた平和学習全体として基地問題以外にも様々な内容を扱っており、政治的中立性は確保していた、と主張した。その上で、こう認めている。事前学習も含め辺野古への移設工事の扱いにバランスが取れていたかという点で、対立する意見について両方の視点が提示できていなかったことに疑いを持たれてもやむを得ない活動となっていたことは、至らない点があった、と。
主張と譲歩が一つの文に同居しているが、両方の視点が提示できていなかった、という部分は、学校自身の言葉として報告書に残った。
松本洋平文科相は五月二十六日の会見で、こう明かしている。多様な意見を学習で扱った証拠を出してくれと学校側に何度も尋ねたが、沖縄県のホームページしか出てこなかった、と。
ひとつ、比較のための数字を置いておく。六月末の県議会で教育長は、県立高校の令和七年度実施報告書によれば、国内外の修学旅行先での平和学習は実施されていない、と答弁している。沖縄の県立高校が修学旅行先で平和学習を行っていない年に、京都の私学は辺野古の海の上でそれを行っていた。
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