クジラの設計図を借りられるか ヒトへの応用の壁
問いの整理
このシリーズを通じて、一つの問いが浮かび上がってきた。
クジラは200年生きながらがんにならない。その機構の中心にCIRBPというタンパク質があり、DNA修復効率を格段に高める。ヒト細胞にクジラ由来のCIRBPを導入すると修復効率が上がることも確認されている。
では、そのまま使えるのか。
答えは「そう単純ではない」だ。その理由を順に整理する。
同じ分子が逆の顔を持つ
最初の障壁は、CIRBPそのものの二面性だ。
クジラの正常細胞ではDNA修復を促進し、がん化を抑制する。ところがヒトの膀胱がん細胞では、CIRBPが過剰発現してHIF-1α(低酸素誘導因子)を活性化し、がん細胞の増殖と浸潤を後押しする。同じ名前の分子が、文脈によって正反対の働きをする。
分子の機能は、そのタンパク質単体ではなく、周囲の分子環境・細胞の状態・組織の文脈によって決まる。クジラの正常細胞という文脈と、ヒトのがん細胞という文脈は、分子にとってまったく異なる舞台だ。
外科の現場でも似た構造は繰り返し現れる。分子標的薬が特定の遺伝子変異を持つがんには劇的に効く一方、別の変異背景では同じ薬が増殖を促進するケースがある。術後の経過観察で、同じ薬に対してまったく逆の反応を示す患者を続けて診ると、「文脈依存性」が教科書の言葉ではなく、体感を伴った問題として立ち上がってくる。「クジラでうまくいく」という事実は、「ヒトのがんにうまく作用する」とは別の命題だ。
システムの問題
二つ目の障壁は、CIRBPが単独で機能しているわけではないという点だ。
ホッキョククジラのがん抑制は、CIRBP一つで成立していない。60種以上の哺乳類ゲノムを比較した研究では、長寿種に共通して正の選択を受けた遺伝子が296個同定されており、免疫応答・DNA修復・がん関連経路に広く分布している。ヒトのゲノムにコードされるタンパク質は約2万個。その1.5%にあたる296個が長寿種で選択を受けている。 がん抑制が単一の経路ではなくゲノム全体に分散した問題だということは、この数字が示している。
クジラのがん抵抗性は、数百の遺伝子変化が何百万年かけて積み上がったシステム全体の産物だ。CIRBPはその一部に過ぎない。部品の問題ではなく、システムの問題だ。だからこそ、一つの遺伝子を標的にする従来の分子標的薬の限界も、同じ構造から来ている。がんを「単一の欠陥」として捉える発想自体が、そもそもこの複雑さに追いついていない。
ゾウTP53の前例
同じ問題はゾウのTP53研究でも既に浮上している。
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