ブスコパン販売中止が示す製薬企業の日本撤退という現実
今年末、ブスコパン錠が保険薬として販売終了する。
製造販売元はサノフィ。フランスに本社を置くグローバル製薬企業だ。理由は「諸般の事情」。公式文書にはそう書かれている。
諸般の事情。便利な言葉だ。訳せば、採算が合わなくなった、ということになる。
1952年から70年以上、胃痛や腹痛の現場で使われてきた薬だ。消化管のけいれんを抑える鎮痙薬として、内科・外科・救急を問わず処方されてきた。市販薬のブスコパンAは同じ成分の大衆薬として今後も残るが、保険診療で使われる錠剤が消える意味は小さくない。
採算割れで市場から退場する薬を「先発品の役割を終えた」と読むか、「そこまで追い込んだ」と読むか。
外資が最初に動く
サノフィは日本で複数の製品を展開している。その中でブスコパン錠を切ったのは、グローバル本社の投資判断だ。
外資系製薬企業の日本法人は、本社から毎年問われる。この市場にどれだけ投資するか。売上規模、成長性、将来の薬価見通し、規制の複雑さ。総合評価で優先順位が決まる。日本市場は今、不利な数字が並ぶ。
薬価は毎年下がる。売れれば市場拡大再算定で追加で下げられる。特許切れの後はジェネリックに置き換えられ、先発品の価格は形骸化する。長期収載品に入ると、さらに段階的な引き下げが待っている。2024年改定では選定療養の仕組みが導入され、長期収載品を希望する患者に追加の自己負担を求める方向に動いた。先発品を保険で使い続ける理由そのものが、制度の側から削られている。
外資にとって、日本でロングセラーを持ち続けることは「損をしながら在庫を抱える」に近い。
ブスコパン錠の撤退は、その論理の終着点だ。
国内メーカーの矛盾
外資が撤退した後に残るのはジェネリックメーカーだ。日本の後発医薬品市場は国内メーカーが支えている。数量ベースのシェアはすでに8割を超えた。国の政策目標は達成されつつある。
だがジェネリックメーカーの経営は、見た目ほど安定していない。
2020年以降、業界を揺るがした品質不正問題が相次いだ。日医工、小林化工、沢井製薬。摘発と行政処分が続き、出荷停止と供給不足が全国で起きた。なぜ不正が起きたか。背景のひとつは、価格競争の果てに品質管理への投資が追いつかなくなったことだ。
現場では、いつもの薬が届かない状況が常態化した。処方を切り替え、患者に説明し、代替品を探し、それでも入らない。数年前までは異常事態だったはずの風景が、日常になった。
ジェネリック薬価も毎年改定で下げられる。競合他社との価格競争もある。利益率が薄くなる中で、設備更新や人員確保を続けるのは難しい。「安くて安全」を両立させる余力が、業界全体から失われつつある。
レボドパ製剤の問題はその象徴だ。パーキンソン病の基幹薬で、代替がない。9割のシェアを持つメーカーが製造継続の困難を訴えている。長年使われてきたがゆえに薬価を下げられ続け、赤字構造に陥った。不採算品再算定という救済ルールは存在するが、適用基準と引き上げ幅が実勢に追いつかず、構造赤字を解消する水準には届いていない。2026年3月に国会でも取り上げられたが、制度の論理は変わっていない。
ベンチャーが来ない
前作で触れたように、新薬開発の65%は今やバイオベンチャーから生まれている。大手製薬企業が創薬の担い手だった時代は終わった。
バイオベンチャーは資金と人手が限られている。開発候補品を持ったとき、どの市場に最初に申請するかを慎重に選ぶ。選ばれる市場には理由があり、選ばれない市場にも理由がある。日本は後者に分類されつつある。
治験には日本人データが求められることが多い。規制対応のコストも高い。市場参入後は薬価が毎年下がる。投資回収の見通しが立たない。
現場に立っていると、海外の学会で話題になっている薬が数年経っても日本で使えないという場面に出くわす。論文は読める。手は届かない。その距離がじわじわ広がっている感覚が、ここ数年ずっとある。
小さなベンチャーには、複雑な縮小市場に向き合う余力がない。嫌っているわけではなく、優先順位の問題だ。結果として、日本での開発情報がない新薬が米国承認品の約半数に達している。
遅れて来るのがドラッグ・ラグ。そもそも来ないのがドラッグ・ロス。前者は待てばいずれ届くが、後者は待っても届かない。日本が今直面しているのは、ラグからロスへの移行だ。
三層同時の機能不全
外資は不採算品から撤退する。国内ジェネリックメーカーは品質と価格の板挟みにある。バイオベンチャーは日本を後回しにする。
この三層が同時に機能不全を起こしているのが現在地だ。
誰かが悪いという話ではない。それぞれの判断は、与えられた条件の中では合理的だ。問題は、その条件を設計した制度にある。
厚労省も手をこまねいているわけではない。新薬創出加算の対象見直し、創薬ベンチャーへの支援、薬価制度の抜本改革の議論。いずれも動いてはいる。ただ、企業の撤退判断と制度改革の時間軸が噛み合っていない。制度が整うまでの間に、薬が先に消えていく。
薬価を下げて医療費を抑制する。短期的には帳尻が合う。だが企業が市場から退出し、新薬が来なくなり、既存薬の供給すら危うくなれば、何のための節約だったのか。
ブスコパンの次は
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