がんと体の大きさ なぜ大型動物はがんにならないのか
パラドックスの入り口
前回の記事でこんな問いを立てた。
がん細胞は、新しい凶悪な能力をゼロから発明したわけではない。胎児期の始原生殖細胞が使っていた移動プログラムを、そのまま乗っ取って血管壁を突破している。
では逆に聞く。その「乗っ取り」を封じている動物がいるとしたら?
クジラは体重80トンを超えるものもいる。細胞数は人間の1000倍以上だ。人間の体には37兆個の細胞があるとされる。細胞分裂のたびにDNAのコピーミスが蓄積していくとすれば、1000倍の細胞数は1000倍のリスクを意味するはずだ。論理的には、クジラは人間より圧倒的にがんになりやすい。
実際にはそうなっていない。
この矛盾を1977年に指摘したのが英国の疫学者リチャード・ペトーで、「ペトーのパラドックス」と呼ばれる。半世紀近く経った今も、がん研究の最前線で参照され続けている問いだ。
種の内と外で法則が逆転する
パラドックスの厄介な点は、「種の内側では法則が成立する」ことにある。
同じ人間の中で比べると、身長の高い人は低い人よりがん発生リスクが高い。年齢を重ねるほどがんになりやすい。手術室でも、同じ診断名でも若い患者と高齢患者では腫瘍の性状が違うことがある。変異の蓄積期間が長いほど進行が変わる、という感覚は臨床の現場でも出てくる。犬の品種間でも同様で、大型犬は小型犬よりがんによる死亡率が明らかに高い。
ところが種をまたいで比較すると、この関係が消える。
マウスと人間のがん発生率は、生涯を通じてほぼ同程度だ。体格差は三桁を超えているのに。クジラは理論上、50歳までに大腸がんを発症する確率が100%に達するとモデルが予測する体サイズを持っている。それでも実際のクジラはがんで死なない。
種内では「大きい=リスク大」、種間では「大きくてもリスクは変わらない」。同じ変数が逆の結果を示す。統計学者ならシンプソンのパラドックスと呼ぶような構造だ。
進化が解決策を持っていた
矛盾の答えは進化の時間軸にある。
大型動物が大きくなる過程で、がんリスクの増加は個体の生存と繁殖を脅かす。それが自然選択の圧力になり、がんを抑制する方向にゲノムが改変されていく。何百万年もかけて。クジラやゾウは体が大きくなると同時に、その体サイズに見合ったがん防御機構を共進化させてきた。
大型種はがんに強いのではなく、大型化しながらがん抑制を進化させたから生き残れた。
この視点を逆から見ると、もう一つの問いが浮かぶ。
では、「最近人工的に大型化された生物」はどうなるか。
大型犬がその答えだ。セントバーナードやグレートデンは数百年前には存在しなかった。人間が審美的・機能的な理由で急速に大型化した品種で、自然選択が許す進化の速度をはるかに超えている。骨肉腫の発生率は小・中型犬の200倍に達する。グレートデンの平均寿命は7〜8年、チワワは15〜17年。体だけが大きくなり、がん抑制機構が追いつかなかった結果が寿命の差として現れている。
サラブレッドも似た構造を持つ。全世界の個体が父系3頭に遡る極端な閉鎖集団で、300年間「速さ」という単一形質への選択が続いた。遺伝的多様性は現代の馬の品種の中で最低水準にある。がんそのものより骨折・腱損傷・運動誘発性肺出血が深刻な問題として顕在化しているが、構造は同じだ。単一形質への急速な人工選択が、ゲノム全体の健全性を損なっていく。
クジラとゾウ、二つの解法
では実際に、大型動物はどんな機構でがんを抑えているのか。
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