保険医に戻る可能性〜藤白りり氏の発言が示す医師キャリアの特権構造
藤白りり氏の日経メディカル対談から見える特権
前回、藤白りり氏のyoutubeについて記事にした。
今回取り上げるのは、日経メディカルの記者に「将来、保険医に戻る可能性はありますか?」と聞かれた際の彼女の返答だ。
「勝ち抜けるか知識・経験を得るため専門医資格取得を目指して保険診療の世界に戻るのか、別の道に進むのか。色々な可能性があると思います」
この一言が、すべてを物語っている。
選択肢がある人間、ない人間
彼女の発言が前提にしているのは、保険医という選択肢が常に自分の手元にあるということだ。
美容で失敗したら保険診療に戻る。YouTubeフォロワー19万人、東京医科歯科大卒、VC資本のクリニック。彼女が持つものは、すべて次の扉を開けるものだ。名前を出した医療情報の発信、業界内での認知度、VCとの接点。一般の勤務医には存在しない選択肢が、次々と彼女の前に並んでいる。
保険診療の医師たちはそうではない。
地方配置されれば都市部に戻る道は閉ざされる。大学病院に配置されれば進路は医局が決める。一度固まったキャリアを後退させることは、ほぼ不可能だ。動くたびに関係が切れ、スキルが評価されず、給与が下がる。
逃げられなさは、心理的なものではなく、制度として構造化されている。医局の人事配置、地方配置後のキャリア断絶、配偶者の仕事との兼ね合い、当番医の割当。子どもが生まれたから辞めたいと言っても、地域医療の人員が不足していれば、その願いは通らない。
「失敗したら戻る」の正体
美容医療がレッドオーシャンであることは、彼女自身も認識している。競争の激化、クリニックの乱立。だからこそ「戻る可能性」を想定している。ビジネスとして成立しなくなったときの保険として。
だが、その保険は本当に機能するのか。
保険診療に戻る際、形成外科の専門医資格が壁になる。美容クリニックだけで積んだ経験では、その資格への道は用意されていない。最低でも5年以上、形成外科で修行する必要がある。「知識・経験を得るため」という動機で正当化されるような話ではない。
消費者庁が実態調査を進めているのも、専門的な形成外科修練を経た医師と、美容クリニックのみのキャリアを持つ医師を、患者側が見分けられない現実が背景にある。
彼女の「戻る可能性」は、実態としてはほぼ幻想だ。それでも記者の質問に「色々な可能性があると思います」と軽く返せる。その軽さ自体が、保険診療を支えてきた医師たちへの、自覚なき侮辱になっている。
残った人間が背負うもの
「制度が悪い」という彼女の主張は、間違っていない。保険診療の給与体系には問題がある。当直の負担は過大だ。患者満足度の低さも現実だ。
だが、問題があると言えることと、去る権利は別の話だ。
その制度と向き合い続けている医師たちがいる。20年、30年、同じ患者と関係を積み上げてきた医師たちだ。彼女が「生活習慣病は努力が見えなくて虚しい」と言ったあの診療を、毎日続けている人間がいる。
もし彼女が保険診療に戻ることがあるなら、その時に向き合うのは、かつて名指しで語ったその患者たちだ。その営みの中に、自分が見落としていたものがあったと気づくかもしれない。
黙って行けばよかった、と思う医師は少なくないだろう。
彼女の発言が傷つけるのは「制度」ではなく、その制度の中で逃げられずにいる具体的な個人だ。
今、この問題に求められること
26歳の彼女は、10年後に36歳を迎える。子育て、配偶者との人生設計、自分自身の市場価値。その現実の中で「色々な可能性」という言葉がどれだけ機能するか、時間が答えを出す。
ただ、個人の将来予測を語っても意味はない。
今この時点で問われているのは、情報発信の影響力を持つ若手医師が「保険診療を捨てた理由」を語る際の責任だ。19万フォロワーに向けて発信された言葉は、医師を目指す学生にも届く。医療現場に残ることを選んだ医師にも届く。
美容医療を選ぶことは、職業選択として否定されるべきではない。だが、その選択を「制度批判」と「個人の都合」を混ぜながら語り続けるなら、発信者としての説明責任は生じる。
日経メディカルの記者が「保険医に戻る可能性はありますか?」と聞いたのは、確認ではなかったと思う。本当にそれでいいのかという、問い直しだったのではないか。
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