DNARは緩和放棄ではない ―ある看取りの現場から
研修医時代の話。DNAR(Do not attempt resuscitation)の指示があった。ナチュラルコースを希望していたと家族は言った。それだけで、看護師は挿管の手を止めた。
脳出血の患者だった。急変時DNAR。ここまでは合意があった。問題はそのあとに起きた。当直中、呼吸困難で本人があまりに苦しそうだった。気道を確保しようと挿管を提案した。看護師に止められた。「ナチュラルコースです」と。
僕も若かった。埒が明かないので家族にもう一度ムンテラした。結論は変わらなかった。急変対応の最中に「まだ何かするのか」と問い返す家族を前に、理屈を通しきる時間も余裕もなかった。患者は苦しみながら亡くなった。
止めたのは何だったのか
今ならわかる。看護師の理屈は、DNARとナチュラルコースを取り違えていた。DNARは「蘇生をしない」であって「苦痛を取らない」ではない。この二つが現場で融合してしまうと、緩和そのものが封じられる。
蘇生行為としての挿管を見送る。それは指示に沿っている。だが呼吸困難という症状は、蘇生とは別の軸で対処されるべきものだった。苦しいなら、苦しみを取る。そのための手段は挿管だけではない。
本来やるべきだったのはオピオイドによる呼吸困難のコントロールだ。ここにもう一つの根深い誤解がある。オピオイドは呼吸抑制で死を早める、という思い込みだ。終末期の呼吸困難に対する低用量オピオイドがそうした害をもたらすという前提は、エビデンス上むしろ覆されている。標準的な緩和手段として確立していて、DNAR下でも矛盾しない。挿管を諦めた時点で、鎮静・鎮痛に切り替えて苦しませないことは十分にできた。そこが抜けていた。
鎮静は安楽死ではない
現場で最も根深い誤解がこれだ。鎮静を持ち出すと、安楽死と混同されて手が止まる。
区別は意図と方法にある。安楽死は死そのものを目的として致死量の薬剤で死を引き起こす行為で、日本では違法だ。緩和的鎮静は耐えがたい苦痛の除去を目的とし、苦痛が取れる最小限の深度を用いる。結果として死期が多少早まる可能性があっても、それは意図された目的ではなく許容される副次的結果にすぎない。二重効果の原則。
方法にも段階がある。ミダゾラム等を苦痛が消える範囲で漸増していく調節型鎮静と、持続的に深い鎮静をかけるものは別物だ。最初から致死域を狙うのではなく、苦痛の強さに見合った深度で止める。この比例性を守る限り、安楽死とは方法からして違う。
日本緩和医療学会の現行の手引きは、この点をさらに踏み込んで整理している。正式には「がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き 2023年版」。かつての「苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン」から名称も版も変わっている。2023年版では複数の法学者を入れて討議し、「法的検討」の章を追加した。耐えがたい肉体的苦痛があること、死期が切迫していること、他に代替手段がないこと、苦痛除去のための治療行為として行われること。鎮静が法的に許容される要件が、明示された。
安楽死と混同されて手控えられてきた鎮静に、学会は法的な足場を用意した。「鎮静は生命予後を短くするのか」という問いも独立した項目として立てられている。観察研究の大部分では、鎮静を受けた群と受けなかった群のあいだに予後の有意差は認められていない。鎮静が死を早めるという前提そのものが、過大評価されている。
ホスピスと急性期の落差
緩和ケア病棟では、呼吸困難や耐えがたい苦痛へのオピオイド・鎮静はルーチンに近い。専門医と看護師が枠組みを共有しているから、DNARだから何もしないではなく、DNARだからこそ緩和に徹する、が標準になる。
一般病棟は違う。緩和の教育を受けていないスタッフが、DNARは全部やらない、鎮静は安楽死、という二重の誤解を抱えたまま動く。同じ終末期の呼吸困難でも、ホスピスなら穏やかに看取れる患者が、急性期病棟では苦しみながら死ぬ。病態の差ではない。教育と指示書設計の差だ。
この落差は感覚の話ではない。学会の手引き自身が、CQ3として「鎮静は治療場所によって頻度が異なるか」を独立項目に立てている。緩和ケアチームと一般病棟を分けて頻度を示す図まで置かれている。同じ苦痛が、置かれた場所によって違う頻度でしか緩和されていない。それを学会が正面から扱っている。
実際、持続的深い鎮静の施行頻度は研究によって6.7%から68%まで開く。日本の緩和ケア施設をまとめた観察研究では、持続的深い鎮静を受けた患者は約15%。対象となる症状はせん妄が最多で、次いで呼吸困難が続き、呼吸困難への鎮静頻度は痛みの約3倍とする報告もある。今回のような呼吸困難は、緩和の現場では鎮静の主要な対象そのものだった。この頻度の幅の広さは、鎮静の定義の違いだけでは説明がつかない。緩和ケア病棟か一般病棟か在宅か、その差が効いている。
呼吸困難については別立ての指針もある。「進行性疾患患者の呼吸困難の緩和に関する診療ガイドライン 2023年版」。がん以外の進行性疾患も視野に入る。今回のような非がんの終末期にこそ、枠組みが未整備なまま放置されている。
噂される側
ここに厄介な逆転がある。
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