Bloody Divine(血塗られた神聖)【第1話】深淵の玉座
あらすじ
静寂が支配する地下回廊で、孤独に佇む吸血鬼エルゼーラ。そこへ不老不死を求める没落騎士アルヴィスが現れる。彼は死を覚悟し、自らの命と彼女の心を賭けた勝負を挑んだ。反発し合いながらも共鳴していく二人の魂。
しかし、教会の襲撃と女神セレフィナの介入を経て、真の絶望が訪れる。エルゼーラを闇に堕とした始祖ルスバンが姿を現し、彼女の忌まわしき過去を無慈悲に暴いたのだ。
辛くも朝日に救われた二人は、果てなき逃亡の旅へと身を投じる。そして数年後、宿命の鎖を断ち切るため、彼らは再び決戦の地へと歩みを進める。愛と呪縛が交錯する中、二人が選ぶ結末とは。(全46話)
松明の火が、爆ぜた。
それが、この湿りきった洞窟の中で聞こえる唯一の音、そして光だった。
青年……アルヴィスは、壁に背を預け、荒い呼吸を整える。肺の奥が焼けるように熱い。煤けた銀の長剣を握る掌には、自身のものか、あるいは先ほどまで彼を追っていた「地上からの追手」のものか判別のつかない返り血が、どろりと張り付いていた。
彼は、逃げてきた。
家柄を失い、名を捨て、正義という名の欺瞞に満ちた地上から。
この地底の奥深く、誰も踏み込んだことのない禁域に眠るとされる「不老不死の秘宝」の伝承だけを、泥を啜るような日々の、唯一のよすがにして。
「不老不死……。実在したとしても、今の俺にそれを手にする資格などあるのか」
自嘲気味に呟いた声が、不自然なほどに響いた。
行き止まりだと思った崩落跡の先に、それはあった。
そこは、洞窟の最奥とは思えぬほど広大な、そして異常なほどに「清潔な」空間だった。
見上げるほどに高い天井を支えるのは、中世のいかなる大聖堂をも凌駕する白亜の列柱。床には深紅の絨毯が、まるで枯れることのない血の河のように奥へと続いている。
壁の燭台には、いつ誰が灯したのかさえ覚えのない青白い炎が揺らめき、その光は影を長く引き伸ばしていた。
一歩、足を踏み出す。
その瞬間、アルヴィスの鼻腔を突いたのは、死の臭いでも、土の湿気でもなかった。
狂おしいほどに甘く、鼻の奥をくすぐるような「百合の花」の香り。
「……ここは、なんだ? いったい、どうなっている」
震える声で問いかけながら、彼は剣を構えた。
絨毯の先、一段高くなった場所に置かれた石造りの玉座。そこに、静止した彫像のような人影があった。
女だった。

夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒のドレス。その隙間から覗く肌は、月の光を透かした真珠のように白く、命の温かみを感じさせない。
長く、波打つ銀髪が肩から流れ落ち、その中心で、紅蓮の瞳が静かにアルヴィスを射抜いた。
美しい、と思った。
だが、その美しさは生命を司るものではない。見る者の心を凍りつかせ、跪かせるための、暴力的で神聖なる威厳。
「人間か。それとも、人間に似た別の何かか」
女の唇が動いた。鈴の音を転がしたような、あまりに清澄な声。
アルヴィスは気圧されそうになりながらも、剣の柄を強く握りしめた。

「……誰だ。あんた、何者なんだ。こんな奈落の底に、なぜ人間がいる」
女は、彼の問いには答えず、ゆっくりと玉座から立ち上がった。音もなく滑るような所作。彼女が歩くたび、重厚な絨毯に柔らかな足音が沈み込み、甘い香りがさらに濃く広がる。
「人間……。そうか、貴様たちの目には、今の私はそう映るのか。たった数十年しか生きられない、矮小で……か弱い羽虫と同じ姿に」
彼女はアルヴィスの数歩手前で足を止めた。
アルヴィスは剣先を彼女に向けたまま、後退を忘れて立ち尽くす。
彼女の瞳には、怒りも、驚きも、喜びもなかった。ただ、数千年の時を独りで、鏡の中を見つめ続けてきたような、底知れぬ虚無がある。
「秘宝を求めてきたのか。それとも、単なる道迷いか? ここは、神もが忌み嫌う、人が忘れし墓場なのだぞ」
「……俺はアルヴィス。不老不死の秘宝を求めて、この神殿に辿り着いた、ただの亡霊さ」
「不老不死? ふふ……」
女は、くすりと笑った。
その瞬間、彼女の背後の影がゆらりと立ち上がり、巨大な化け物の顎のように見えた。アルヴィスの背中に冷たい汗が流れる。
「秘宝など、ここにはないぞ。あるのは、とうの昔に朽ち果てた神の残滓と、私という存在だけだ。
貴様は、目の前にいる私が、ただの女に見えるのか? それとも……その本能が、逃げろと叫んでいるのか?」
彼女がさらに一歩踏み込む。アルヴィスは反射的に剣を突き出した。

だが、その鋼の刃は彼女の白い首筋に触れる直前、見えない壁に拒まれたように静止した。
「あんた、……人間じゃないのか?」
「さあ、どうかな。心臓は鼓動を忘れ、呼吸はただの形式に過ぎない。血を欲し、太陽を拒み、永遠という名の退屈を貪る存在……地上の人間たちは、私のようなものをなんと呼んでいたかな?」
彼女の紅い瞳が、怪しく発光した。その視線に触れただけで、アルヴィスの意識が遠のきそうになる。
「……吸血鬼、か」
「そう呼びたければ。でも、今の私はただの、退屈した世捨て人に過ぎない」
彼女の指先が、虚空をなぞり、アルヴィスの頬を撫でるように近づく。
アルヴィスは喉の渇きを覚えた。彼女が放つ氷のような冷気の中に、血の昂ぶりが混ざり合う。
「貴様の血……とても騒がしいな。恐怖と、絶望と、そして……あまりに無謀な好奇心」
アルヴィスは、死を覚悟した。だが、同時に震える唇を噛み切り、彼女を睨みつけた。
「殺せばいい。俺にはもう、失うものなんて何もないんだ」
「そうか? だが、それではあまりにすぐ終わってしまうではないか」
彼女はアルヴィスの至近距離で足を止めた。
銀の髪が彼の頬をかすめる。それは死神の指先に触れられるような感覚だった。
「飽きていたのだ。この誰もいない空間の静けさに。貴様は、私を殺しに来たのか? それとも……私のこの退屈を、殺しに来たのか?」
彼女の紅い瞳の中に、自分の怯えた顔が映っている。
アルヴィスは気づいた。この美しい怪物は、飢えているのだ。血にではなく、永遠に続く孤独を癒してくれる、自分以外の存在に。
「……俺に、あんたの退屈が殺せるかだと? なら、試してみるか。どうせ殺されるなら、あんたの退屈を道連れにしてやるのも面白いさ」
アルヴィスの口から出たのは、破れかぶれの挑発だった。
女……エルゼーラは、一瞬だけ目を見開き、やがて満足げに目を細めた。
「いいだろう。気に入った。貴様の命が尽きるのが先か、私の心が動くのが先か。賭けをしてやろう、アルヴィス」
こうして、神に見捨てられた洞窟の底で、止まっていた時間が動き出した。
血塗られた神聖の幕が、静かに上がる。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。
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