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​Bloody Divine(血塗られた神聖)【​第2話】砂時計の止まった庭

その城には、本当の意味での「夜」も「朝」も存在しなかった。

アルヴィスに与えられた部屋は、かつての王侯貴族が客人をもてなすために設えたものだろうか。天蓋てんがい付きのベッドには上質なシルクが掛けられていたが、指で触れれば、それは驚くほど冷たく、生気を吸い取られるような恐ろしさに満ちていた。

 

アルヴィスは剣を枕元に置き、浅い眠りと覚醒の境界はざま彷徨さまよいながら、数時間を過ごした。

やがて、彼は重い腰を上げ、城内の探索を始めた。エルゼーラは「好きにするがいい」と言い捨て、玉座の間から動こうとしなかった。彼は冒険者としての習性に従い、まずは自分の置かれた環境を把握しようとしたのだ。

廊下の壁面には、色せない鮮やかさを保ったフレスコ画が並んでいる。

そこに描かれているのは、教会の聖典で見るような「厳格な神々」の姿ではなかった。もっと身近で、慈愛に満ちた、人々に寄り添うような女神の姿。

アルヴィスはその女神の瞳の色を見て、足を止めた。

「……紅蓮ぐれん

 

今、玉座に座るあの吸血鬼と同じ色だ。

だが、画の中の彼女は、今にも歌い出しそうなほど柔和な笑みを浮かべている。アルヴィスはその瞳を見つめながら、かつて自分が信じていた「正義」や「神」という言葉の形が、この城の中では歪んでいることに気づく。

 

城の中庭に出ると、そこには噴水の跡があった。水はとっくに枯れ、白蓮はくれんを模した石彫せきちょうだけがむなしく天を仰いでいる。その傍らで、彼は一つの「ほころび」を見つけた。

首の折れた石像の台座に、微かに残る文字。

『我らが慈愛、アルテミアにささぐ』

「そんな名は、地上の歴史には残っていない」

 

背後から冷たい風が吹き抜け、甘い百合の香りがした。

いつの間にか、エルゼーラがそこに立っていた。足音も気配もなく、ただ夜霧が実体化したかのように。

「何を調べている。神も寄り付かぬ墓場を彷徨うのが、貴様の趣味なのか?」

「……墓場にしては、豪華すぎるな。ただ、少し気になっただけだ。あんたの……いや、この城の主が、かつてどんな風に呼ばれていたのか」

 

エルゼーラは石像の無惨な首元に、白く細い指を這わせた。

「アルテミア。懐かしい響きだ……。でも、それはもう死んだ女の名だ。私が彼女を殺し、その地位を奪った。そう教えたら、貴様は納得するか?」

「嘘だな」

アルヴィスは即座に答えた。
エルゼーラは眉を微かに動かし、紅い瞳を彼に向けた。

「なぜそう言い切る」

「あんたの目は、略奪者の目じゃない。……すべてを捨てて、取り残された者の目だ」

 

一瞬、沈黙が場を支配した。

エルゼーラの表情から柔らかさが消え、彼女の周囲の空気が物理的な圧力となってアルヴィスを押し潰そうとする。だが、彼は目を逸らさなかった。

エルゼーラはふっと肩の力を抜くと、優雅に噴水の縁へ腰を下ろした。その動作はあまりに神々しく、没落した貴族であるアルヴィスでさえ、思わずひざまずきそうになるほどだった。

「……今の地上は、どうなっているのだ」

唐突な問いだった。彼女はまるで、外の世界の様子を血の代わりに欲しているようだった。

アルヴィスは戸惑いながらも、自分が知る限りの地上を語り始めた。

巨大な王国が乱立し、教会が絶対的な権力を持っていること。絶え間ない戦争と飢饉ききん。神の名を叫びながら、人間が人間を殺している現状。

「神は……神は人間を、救ってはいないのか?」

「救う? 神は黙ったままだ。あるいは、とっくに俺たちに愛想を尽かして、どこかへ消えたのかもしれない」

アルヴィスの冷淡な言葉に、エルゼーラは自嘲気味な笑みを漏らした。

「……消えたのではない。彼らはただ、人間に愚かさを学ばせているのだろう。争いにより愛する者を失う愚かさとむなしさを……」

その時、彼女が急に喉元を抑え、激しく咳き込んだ。

黒いドレスの襟元えりもとが震え、彼女の肌が不自然なほど透き通り始める。アルヴィスは反射的に駆け寄ろうとしたが、彼女はそれを鋭い一喝で制した。

「来るな、人間!」

その声には、明確な飢餓きがが混じっていた。

アルヴィスの鼻腔に、自分自身の脈動する血の匂いが強く感じられる。エルゼーラの瞳が、先ほどまでの虚無を忘れたかのように、獣の如き鋭さで彼の首筋を見つめていた。

吸いたい。啜りたい。その熱い血を。

だが、彼女は震える手で自らの腕を抱きしめ、爪が食い込むほどに強く自分を縛り付けた。

「……戻るのだ。私の退屈を殺す前に、貴様の命が尽きることになるぞ」

「あんた、まさか、ずっと……」

アルヴィスは確信した。彼女は「退屈」を理由に彼を生かしているのではない。

彼女は、血を吸うことを自らに禁じている。それは吸血鬼にとって、ゆるやかな自殺に等しい行為だ。

なぜ、そこまでして自分を律するのか。何が彼女を追い詰めているのだ……。

「いいだろう。あんたの腹が満たされるまで、俺の話を聞かせてやる。地上のクソみたいな出来事を、全部な」

アルヴィスは距離を保ちつつ、その場に座り込んだ。彼女の渇きを、言葉で埋めるために。

二人の間に流れるのは、奇妙で歪な、だが確かな対話の時間。

アルヴィスが語る地上の話を聞きながら、エルゼーラはふと遠くを見つめた。

「人間……。貴様の言葉は、私に苦しみを与える。忘れていたはずの、地上の風の匂いを思い出させてしまう」    

彼女の呟きは、夜の静寂に溶けて消えた。 地上では、アルヴィスを追ってきた者たちが洞窟の入り口を見失い、呪われた禁域への恐怖に足を止めている。城に届くのはまだ、微かな風の鳴る音だけ。    

止まっていた砂時計に、一粒の砂が落ちた。 本当の物語が始まるのは、まだ、もう少し先のことだった。


本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。


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