Bloody Divine(血塗られた神聖)【第3話】噤(つぐ)まれた書庫
城の深奥へ進むほど、空気はより濃く、そして古いものへと変わっていった。
アルヴィスが偶然見つけたのは、巨大な二枚開きの扉だった。錆びついた取っ手を両手で押し開くと、そこには天井まで届く書架が迷路のように連なる、壮大な図書室が広がっていた。
「……信じられないな。地上でも、これほどの蔵書を誇る修道院は存在しない」

窓のない空間だが、棚の端々に埋め込まれた魔石が、燐光を放って通路を照らしている。アルヴィスは棚から一冊、表紙の剥げた羊皮紙の束を抜き取った。
没落したとはいえ、貴族の端くれとして英才教育を受けた彼には、そこに記された「文字」の意味がわずかに理解できた。それは、教会の聖典に使われる公用語とは異なる、より複雑で、より音楽的な美しさを持つ古語……神代の言葉だった。

「『……光を分かち、血を分かち、中和の法をもって……』これは、医学の書か? いや、魔術の、それとも……」
指先で文字をなぞり、内容を読み解こうと没頭する。
不意に、うなじを撫でるような冷気が走り、アルヴィスの背筋に戦慄が走った。振り返るまでもない。この、死を予感させるほど甘い百合の香りは、ただ一人の主のものだ。
「そんな古びた紙屑に、これほど夢中になるなんて。人間という種族は、やはり奇妙な生き物なのだな」
いつからそこにいたのか。エルゼーラが書架の影から音もなく現れた。
彼女は漆黒のドレスの裾を優雅に引きずり、アルヴィスのすぐ傍まで歩み寄る。松明の炎が彼女の白磁の肌を揺らし、その瞳の紅を一層深く染めていた。

「……あんた、これの内容を知っているのか。ここには、教会の記録にはない歴史が書かれている。神がどうやって世界を作り、そして……どうやって特定の種を排斥したのか、その過程までもが」
「歴史? ふふ、それは勝者が書き残した都合の良い『物語』に過ぎない。
ここに並んでいるのは、敗者たちが、死の間際にかろうじて残した呪詛や嘆き。読み解いたところで、貴様の人生を豊かにはしてくれないぞ」
エルゼーラは吐息を漏らすように言い、アルヴィスが持っていた書を指先で弾いた。
そのまま、彼女は床に座り込んだ。豪華な絨毯の上に直接腰を下ろす姿は、高貴でありながら、どこか投げやりな子供のような危うさを孕んでいた。
「それよりも、続きを聞かせてくれ。貴様が話していた……『市場の喧騒』。それから、『名もなき花が道端に咲く季節』の話を」
アルヴィスは戸惑いながらも、羊皮紙を閉じ、彼女の隣に腰を下ろした。
数歩の距離。彼女から放たれる冷気が、アルヴィスの体温を奪おうとするが、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。彼は、自分が生まれ育った王都の片隅にあった、小さな市場の話をした。
焼きたてのパンの匂い。商人の怒号と、それに応える民衆の笑い声。
雨が上がった後に立ち上る泥の匂いや、名前も知らない少女が髪に飾っていた、名もなき黄色い花の色。
地上の人間にとっては、あまりに卑近で、退屈な日常の断片。
しかし、エルゼーラはそれを、黄金の雫を一滴ずつ噛みしめるように、静かに聞いていた。
「……不思議だ。貴様の声を通すと、その汚らわしい地上の泥でさえ、輝いて見える。
数千年前、私が……私が知っていた世界は、もっと静かで、清潔だった。でも、今、貴様が語る世界は……もっと、騒がしくて、温かそうだな」
エルゼーラが、ゆっくりと手を伸ばした。
白く、細く、血管さえ透けて見えないほど非現実的な指先が、アルヴィスの手の甲に触れる。

ひやり、とした。氷に触れたような感触。
だが、エルゼーラの方は、まるで熱された鉄に触れたかのように、小さく身を震わせた。
「……温かい。貴様の手は、戦いに明け暮れて傷だらけなのに、どうしてこれほどまでに温もりを持っているのだ」
「それが、生きてるってことだ。あんたが失った……あるいは、捨ててしまったものだろ」
アルヴィスの言葉に、エルゼーラの指先が、わずかに力を込めて彼の傷跡をなぞった。
吸血鬼としての渇望が、その指先から彼を飲み込もうとしているのではないか。アルヴィスは身を硬くしたが、彼女の瞳に宿っていたのは、飢餓ではなく、狂おしいほどの寂寥だった。
「捨てた、のではない。……私は、守りたかっただけだ。ただ、私の力は足りなかった……」
彼女は独り言のように呟き、手を引いた。
触れられた場所が、冷たいはずのそこが、妙に温かく感じられる。
図書室を包む沈黙は、もはや恐怖だけの色ではなかった。アルヴィスは、この城そのものが彼女を縛り付ける檻であり、自分はそこに迷い込んだ、ただ一度きりの風に過ぎないことを理解し始める。
「退屈は……紛れたか?」
「いいや、むしろ逆だ」
エルゼーラは立ち上がり、暗闇の奥へと視線を向けた。
「貴様の言葉を聞くたびに、私は自分の胸の空洞が広がっていくのを感じる。血を啜るよりも深く、残酷な飢え……。アルヴィス。明日は、海の話を聞かせてくれるか? 私が一度も、この目で見たことのない、塩辛い水の広がる場所の話を」
彼女は背を向け、闇の中に消えていった。
アルヴィスは一人、図書室に残される。
彼女の心が動くのが先か、自分の命が尽きるのが先か。
始まったばかりの賭けは、いつの間にか、互いの「孤独」を削り合うような、静かな戦いへと変容していた。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。
#創作大賞2026
#ファンタジー小説部門
#血塗られた神聖
#ダークファンタジー
#中編小説
#神と吸血鬼
#人間と吸血鬼
#不老不死
#スキしてみて
#私作品紹介
いいなと思ったら応援しよう!
私の活動の励みになります。記事が気に入りましたら、また、よろしければ応援お願いします! 