146.ローマ7:24-25 死のからだからの救い
24,私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25,私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
私の内なる人と「からだ・肉」の分断、戦いはここで最後を迎えます。
神の律法に仕える心と罪の律法に仕える肉との区別が、パウロにははっきりと理解したのでした。
この区別がつくために、何よりもまず主イエス・キリストによる贖いが不可欠だったことを忘れてはなりません。
心が罪に支配されていた全くの罪人であった者を、信仰だけを条件に贖い、心は神の律法に仕える者として下さったのですから。
その感謝を神にささげるのです。
心(あるいは霊)とからだは、本来、一体不可分のはずのものです。
罪がそれを破壊していたことが、パウロの言葉で明らかにされたのでした。
ここから新たに一体不可分の一人の人間として神のみ前に、いえ、神と共に歩み始めることができる土台が出来上がったのです。
死のからだからの救いです。
これも、神に感謝すべきことなのです。
神に仕えるというのは、心だけではなく、からだをもって行動を伴わせて仕えることです。
そして、たとえヨブのように病気で身動きができないような状態にあったとしても、神が共にいてくださることによって私たちのからだを通して神のご栄光を現させて下さることを、私たちは信仰によって期待できるのです。
考えてみましょう:パウロが「自分は本当に惨めな人間だ」と言っている以上に、私たちは惨めな状態でしょうか。パウロが見出した救いの真理は、私たちにも適用できないでしょうか。
