141.ローマ7:16-17 私が罪を行っているのではなかった!?
16,自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
17,ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
自分が混乱して揺らいでいる時に、立ち返るべき硬い地盤はありますか。
パウロにとって、それは律法でした。
でも、いったい自分は今何をしているんだ、したいことはせず、したくない憎むべきことを結局やっているだけじゃないか、と、破綻してしまっている感じ。
そこでさらに、自分がしたくないと思っている根拠はなにか、と考えたのでしょう。
律法が教えていることがパウロの基準になっていたのです。
それが正しいものだし、良いものだ、と認めているわけです。
認めている「私」が、「したくないことを行っている」自分のからだを、第三者的に見ている、ということをパウロは意識しているのです。
もちろんこのからだも「私」の一部分で、自分の霊と切り分けられるものではありません。
大事なのは、新しく生まれ変わって、神の霊の導きを受けている「私」が、まさに新しい私自身であって、キリストの贖いを受けてキリストと一つとされた者であることを再確認できた、ということでした。
そしてもう一つの発見が、「自分」のしたくないことを行っている「からだ」のうちには、罪が「住んでいる」。
からだ自体が罪そのものであるわけではないのです。
つまり、キリストによって贖われる前の罪の支配の下で、肉の中に罪の考え方や行為の習慣が巣食っていて、それが混乱の原因だったのだ、と悟ったのでした。
自分の肉に罪が住んでいるのです。
その解決は、このあとに続きます。
考えてみましょう:これは悪いことでしたくないことだ、でも無意識にやってしまう、という経験はありますか。「したくない」と思っている事自体をパウロは良いことだとしている感覚に同意できますか。
