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221.ローマ10:6−7 深みに下って戻ったキリスト

6,しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」 それはキリストを死者の中から引き上げることです。

ローマ人への手紙10章6⁻7節;新改訳聖書2017版

  天にある秘儀の掟を探し求め、それに従うことによって、神の義に到達できるのではありませんでした。

逆に「深み」、つまり黄泉にある掟を探し求めようとすることも、神の義に到達する道ではない、とパウロは断言します。



  パウロは先の続きの申命記からの解釈を記しています。

申命記の原文は、【また、これは海のかなたにあるわけではないので、「だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。】(申命記 30章 13節) 


  でもパウロはもう少し違った意味を含ませているかもしれません。

ユダヤ人は自らをアブラハムの子孫だから神の民だと確信していて、黄泉に下ることはない、と考えていました。

アブラハムの子孫として生まれたというだけで人間の持っている罪から逃れていることこそあり得ないのに、です。



  さらに、いったいだれが天に上り、黄泉に下るのか。

地上の生活の行動をすべて秤にかけられて、死ぬ時にその収支決済がなされる、という「信仰」に立つなら、死ぬまで平安は期待できません。


  そうではない、とパウロはまた言います。

「だれが深みに下るのか」と言うのはキリストを死者の中から引き上げること、キリストの贖いの死を否定することに等しいのです。

信仰による義は、キリストの死だけがイスラエルをも生かすことを告げているからです。


  天も黄泉も、すべてを体験して知っていて、私たちにそれらのことを語る資格があるのは、ただ、天から来られ、十字架で死に、復活して天に上ったイエス・キリストだけです。


考えてみましょう:死んだ人はその居場所が居心地が良くてだれも帰ってこない、と冗談を言う人がいます。そう言える間はいいですが、いつ死ぬかもしれない私たちが真実に死に向かい合う時、天国の希望を与えてくれているのが死人の中からよみがえったキリストにあることを信じていますか。



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