220.ローマ10:5-6 だれが天に上るのか
5,モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。6,しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
律法が目指すのはキリスト。
それで、パウロはイスラエルが「律法の掟を行う」ことによって生きる道ではなく、キリストによって生きる道への教えに踏み込みます。
それが「信仰による義」です。
神の心に触れるカギは「信仰」、つまり神ご自身への全き信頼でした。
では、律法の戒めではなく、神の心に触れることができるようになる教えを受け取るにはどうしたらいいのか。
モーセはシナイ山に上って律法を与えられたのでしたが、もっと高尚な教えが必要だったら天に上らなければならないのでしょうか。もちろんそんな必要はありません。
パウロが引用している申命記のとおりです。
【これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。】(申命記30章12節)
律法の掟を実践しようとする人には、どこまでの実践努力が報われて天に上げられるか、不安がつきまとうでしょうし、確信に至ることはないのです。
守るべき掟が伝えられてその実践によって天に至ることが常識のように教えられていると、その延長で、モーセの律法にまさる掟が必要だと思ってしまうかもしれません。
あるいは、「いったい誰がチャント律法を行うことができるっていうんだ、できる人など本当はいないんだろう」と、心の中で無意識に思っていることがあったかもしれません。
でも、イエス・キリストはすでに贖いを終えて天におられるのです。
それを忘れないようにと、キリストへの信仰による義を得たパウロはイスラエルに向けても語りかけ続けます。
「キリストを天から引き下ろすようなことは心の中で言うことがないように!」
考えてみましょう:永遠であるキリストが今もあなたのために天でとりなして下さっていることに、あなたは安らぎを得ていますか。
