122.ローマ6:15 罪を犯しても大丈夫?!
15,では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。
神を信じないわけじゃない、信じているけれど、いや、信じて恵みによって罪が赦されているからこそ、小さな罪を犯すくらいなら、大丈夫だよね、これからもずっと。。。恵みの下にあるとは、そんなふうに考えてもいいということでしょうか。
商売で右から左に渡すだけで利益を得ることを「嘘をつくこと」だと思って、商売はすべて嘘の塊、でも生きるためだからしょうがない、みたいに思いながら仕事をしている人がいました。
赦しの恵みの下にいるのだから大丈夫、ではなく、恵みによって労働ができていることへの報酬としてだから大丈夫、のはずです。
値段をごまかして高く売る、のではなく、サービスを提供したことへの報酬を受け取る。それが商売だと思うのですが、どうでしょうか。
恵みについてちょっとした誤解が抜けきれないのは、規律という名前の「律法」の下にあった時の考え方の癖・習慣が残っているからなのかもしれません。
恵みに憩っていながら、罪を犯す苦しさを繰り返す必要はないし、その習慣を捨てていく歩みへと方向転換して進んでいくようにと、パウロは律法について解き始めます。
恵みの生活を阻んでいるものを、一枚、一枚、これから剥がして捨てていくのです。
考えてみましょう:小さな事に忠実な人は大きなことにも忠実、小さな事に不忠実な人は大きなことにも不忠実、とイエス・キリストが言われたこと、パウロはどう受け止めたのでしょうね?
