139.限りなく罪深い 7:13-14b
13,それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。14,私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
「盗人にも五分の理」くらいで収まっていたらいいでしょうが、それを100%まで拡大させて、それで良しとさせようとする裏の力をもつのが、罪です。
本人は全く罪の自覚がないままに、事を行っている状態なのです。
キリストの十字架が自分の罪のためだった、と初めて聞いた時には、そんな事は有り得ない、と全否定していた私ですが、それというのも、自分の内に死刑になるほどの罪があるなどと思ってもいなかったからです。
キリストの死の事実とその意味、復活の事実とその意味を知って、初めて、自分のうちの罪の事実を深く知ることになります。
その罪が、肉に深く絡みついて手術して一気に切り取るなどできないほどのものであることも、時と共に理解するようになってきました。
「限りなく罪深い」罪とは、罪を指摘する神の律法や戒めに対して自分の罪の責任を転嫁することで、自己正当化しながら、決してあやまった行為を改めようとしない意識を頑なに守る、自分をも偽る態度のことです。
そんなところから救われて自由になって、いよいよ、現実の変革の日々が始まります。
考えてみましょう:「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)とありますが、キリストの弟子になって自由になったと感じますか、それとも不自由になったと思いますか。
