222.ローマ10:8 信仰のことば
8,では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
「信仰」と訳されているもともとの言葉は、「納得して信頼すること」を意味します。
盲信ではないのです。
納得させてくれる言葉があり、そして信頼できる言葉でもある、というのが、この「信仰の言葉」の本来の意味でした。
「よくわからないけれど、信じる」というのは、聖書の信仰ではありません。
それで、いろいろと説明を聞かなきゃならないのは、何だかメンドクサイという感じが伴ってしまうかもしれません。
いろいろ理屈めいた話がゴチャゴチャあって、それで丸め込まれてしまうんじゃないか、という恐れすら抱きがちなのが宗教ですが、聖書の内容はそうではありません。
理屈ではなく、神がなして下さった出来事がまず記録されているのが、聖書です。
イスラエルにはじめ語られた「みことば」は、モーセの律法でした。
パウロの時代から1500年も前のものです。
そこにはイスラエルがどのように生きるべきかが詳しく教えられていたのです。
さらに、その教えに従ったらどうなるか、従わなかったらどうなるか、という神の「約束」もありました。
さらに、その約束がどのように実現したかの記録もふくめての「みことば」でした。
イスラエルに対してパウロが語っているのですから、彼らにとって身近な話題だったはずです。
しかし、パウロはそれよりまたさらに身近に起きた神の出来事を伝えるのです。
その出来事というのも、神の約束のことばの通りに起きたこと。
神のことばを担ってきたはずのイスラエルにとって、近くにあり、口にあり、心にあると言ってよいものだったのです。
その実現が、イエス・キリストです。
神の約束に照らし合わせて見たら、納得せざるを得ない出来事が、神の真実を保証しているのです。
聖書のすべてをまだ「よくわからない」としても、この一点、キリストの福音だけはわかって、信じてほしい、とパウロは誠心誠意、語り続けているのです。
考えてみましょう:「◯◯さんを信じる」と言うとき、しばしば実際の出来事はどうかを確認する以前に「信じたいから信じる」という態度で言っていることはありませんか。聖書のことばを信じるかどうか、信じたいから、信じたくないから、という態度で決めていることはありませんか。
