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幸福は「快楽」か?"快楽主義の本家エピクロスはエピキュリアンではない"-幸福の本質2

「幸福」の本質について主要な学説は「快楽説」「欲求達成説」「客観的リスト説」に大別される(別記事「幸福とは何か?-その本質」で解説)。本記事ではまず「快楽説」について述べる。「快楽説」はその名前から受けるイメージのため、古代から誤解されてきた。「快楽説」の長所と問題点について解説し、「エピキュリアン」の語源ともなった快楽主義の本家というべき古代ギリシア、エピクロスの思想を紹介する。


幸福は「快楽」-「快楽説」の長所と問題点

「快楽説」の長所と代表的批判

快楽説」は「快楽」が本人にとって善なるもの、すなわち幸福であり、「苦痛」が悪、すなわち不幸であるいう考え方です。
「快楽説」の長所は、まさにこの基準の明快さにあります。
原理的に単純明快なことは思想としてレベルが低いのではありません。
しかし幸福を快楽に一元化する思想ゆえに、古代から強い批判にさらされてきたことも事実です。

「快楽説」に対する有名な反論として知られているのは、古くはプラトンが『ゴルギアス』 で指摘している「痒いところを掻いている快楽は、確かに気持ちいいだろうが幸福とは言えない」というものが典型です(注1)。
すなわち苦痛からの解消としての快楽は幸福と呼べない、という批判です。
快楽に、幸福に結びつく快楽と、快くはあるが幸福に結びつかない快楽があるという問題提起です。

また、古くからある「快楽説」に対する批判として、博打や飲酒などの低俗で刹那的な快楽、盗みや詐欺などによって得られる不道徳、反社会的な快楽、そして「虚偽の信念に基づく快楽」も幸福として認めるのか、というものがあります。

「虚偽の信念に基づく快楽」とは、当人は事実と信じており、幸せと感じていることが実際は誤りである場合、たとえば当人は家族から愛されていると信じているが、実際は嫌われているといった場合を言います。

さらに、現代に至って「快楽説」に対する有名な反論として知られているものに、R.ノージックの「経験機械」による思考実験があります。
「経験機械」とは、どんな望ましい「快楽」につながる経験も与えてくれる機械のことで、そういう機械があると仮定して、果たして人間は、一生それに繋がれていることを望むか、というものです。

この批判は、仮想的な心理的経験ではなく、現実の行動によって獲得する結果しか幸福とは認められないのではないか、幸福とは単なる心理的な状態としての快楽のみを指すものではなく、意義のある目的を持った現実の経験を伴うものであるはずだ、というものです。

「快楽」とは何か?

「快楽説」への最も本質的な批判は、幸福を、動機や目的、実際の行動による経験を問わない(それらを評価できない)心理状態である快楽のみに一元化できるか、という問いです。
そこで「快楽説」を巡っては、幸福に結びつく「快楽とは何か」を第一の論点として見ていきたいと思います。
まず「快楽」を「善」(ここでは幸福とほぼ同義と考えます)とする思想のルーツというべき、古代ギリシアの哲学を取り上げます。
「快楽説」を意味する英語「Hedonism Theory」の語源となっているのは、古代ギリシア語の「ヘードネー」(ἡδονή=hedone)という言葉であり、快楽を意味します。
この快楽をどのようなものと考えるかは、快楽を幸福の原理、指標にしようとする哲学者の間でもずいぶん違いがあります。
まず「快楽主義」を代表する最も著名な哲学者、エピクロスの思想から見ていきましょう。

誤解されてきたエピクロスの「快楽説」

精神的幸福がエピクロスの「快楽主義」

古代ギリシアの哲学者エピクロス(紀元前341–270年)の思想は「快楽主義」と言われ、今日「快楽主義者」「享楽主義者」という意味の「エピキュリアン」という言葉に名前をとどめ「美食家」「食道楽」という意味でも使われます。

エピクロスは幸福につながる快楽を「快を、第一の生まれながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、すべての選択と忌避を始め、また、この感情(快)を規準としてすべて善を判断する」 としました(注2)。
エピクロスの思想が「快楽主義」といわれる所以です。そして、目的とする「快」として「われわれの意味する快は、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こと」 としています(注3)。

美食、性愛等の享楽は「快楽」ではない

逆に「快」の生活を生み出さない具体例として「続けざまの飲酒や宴会騒ぎ、美少年や婦女子との遊びたわむれ、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽」を挙げています(注4)。

エピクロスが挙げた「快」でないものにも、私は捨てがたい魅力を感じます(笑)が、そういうものは真の「快」でないと言っています。
余談ですが、感心しない「快楽」の例として「美少年とのたわむれ」を挙げるところが、いかにも古代ギリシアらしいですね。
同性愛に寛容であるのは日本も同様ですが、少年愛は支配階級の嗜みとさえされていたのです。同性愛をタブーとしたのは一神教であるキリスト教、イスラム教の規範ですから。

閑話休題

エピクロスの思想は日本語でも「快楽主義」と言われますが、その通俗的に想起されるイメージから誤解を受けてきました。
西洋においても同様であり、エピクロス存命当時から意図するところとは真逆と言っていいほどの誤解を受け、攻撃されてきた気の毒な思想と言えます。
実際、エピクロス自身も、著作の中で自己の思想が正反対の意味に誤解されていることを嘆いています。

最終的「快」、大きな善を目指す帰結主義

エピクロスの「快楽主義」で、もう一つ重要なことは選択すべき望ましい「快」は最終的に、より大きな「快」(=大きな善)につながるかを基準として判断すべきだ、と言っていることです。要するに結果が大事ということですね。こういう考え方を、倫理学では「帰結主義」と言います。
反対に、結果に至る過程での行為の正当性を重視する考え方を「非帰結主義」と言います。
エピクロスは「長時間にわたる苦しみを耐え忍ぶことによって、より大きな快が我々に結果するときには、多くの種類の苦しみも、快よりむしろまさっている 」とし、大きな目的実現のため長期間の艱難辛苦に耐えるストイックな姿勢を積極的に肯定しています。
「臥薪嘗胆」こそ、より大きな「快」すなわち「善」への道というわけです。イソップ寓話の「アリとキリギリス」で言えば、冬に備えて長期間汗水たらして働くアリを、積極的に支持する立場と言えるでしょう。
エピクロスの「快楽主義」は、言葉から受けるイメージよりも、実はずっと禁欲的だと思います。

これに対して「キリギリス的快楽も、それはそれでいいではないか」という、刹那的、肉体的快楽を認め「今を楽しむ」ことを肯定する、我々が通俗的な意味で理解する「快楽主義」に最も近い思想もあります。
同じ古代ギリシアの哲学者アリスティッポス(Aristippus、紀元前435-356年)の思想ですが、これはまた後の別記事で述べることにします。

まとめ

  • 「快楽説」は幸福=快楽という基準で一元化する思想

  • 「快楽説」の長所は基準が心理的「快楽」とシンプル

  • 「快楽説」の問題点、批判は幸福を動機や目的、実際の行動による経験を問わない(それらを評価できない)心理状態である快楽とすること

  • 「快楽」という言葉のイメージから「快楽主義」は誤解されてきた

  • 「快楽主義」の代表、エピクロスの「快楽主義」は精神的幸福であり美食、性愛等の享楽は「快楽」ではない

  • エピクロスの「快楽主義」は最終的に大きな善を目指す帰結主義

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イーハピネス株式会社 代表取締役 松島紀三男

*注*
(注1)プラトン『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、p150.
(注2)エピクロス『教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、p.70.
(注3)同上、p.72.
(注4)同上、p.70.

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