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幸福とは何か?-主要三学説まとめ-幸福の本質1


「幸福って何?」幸福の本質は何か

幸福は何か?三つの幸福学説

私は「従業員幸福度(EH)」の向上をライフワークと決めて、それに関わる調査、コンサルテーション、研修等を仕事にしていますが、私の「幸福」および「従業員幸福度(EH)」に関する基本的考え方、「幸福」の定義などを述べます。

あなたは「幸福って何?」と聞かれたらなんと答えますか?。
幸せ、幸福という言葉は日常頻繁に使われますが、さてその本質は何でしょうか。

まず先人の考えを紐解きましょう。古来、幸福とは何かということは、多くの哲学者、思想家によって論じられてきましたが、未だに定まった結論は出ていません。しかし幸福について、さまざまな議論に共通している要素に基づいて、基本的な分類はなされています。ここで幸福に関する主要学説について触れておきます。
今日、幸福の定義に関する基本的分類は、イギリスの哲学者、デレク・パーフィットの分類が引用されることが多くなっており、幸福について研究する大半の哲学者、心理学者がこの分類を踏襲しています。パーフィットは幸福に関する学説を、次の三つに分類しました(注1) 。

1.快楽説(Hedonism Theory)
「快楽」を感じることが幸福であるという考え方です。

2.欲求達成説または欲求説(Desire-Fulfilment TheoryまたはDesire Theory)
「欲求」の達成、成就が幸福であるという考え方です。

3.客観的リスト説(Objective List Theory)
人間にとって善なる価値を持つ要素を複数挙げ、これらが良好な状態にあることが、幸福とする考え方です。

以下、それぞれの学説の概略を述べます。

1.快楽説(Hedonism Theory)

「快楽説」は「快楽」が本人にとって善なるもの、すなわち幸福であり、「苦痛」が悪、すなわち不幸であるいう考え方です。
「快楽説」の長所は、まさにこの基準の明快さにあります。原理的に単純明快なことは、思想としてレベルが低いということではありません。しかし幸福を快楽に一元化する思想ゆえに、古代から強い批判を浴びてきました。

「快楽説」に対する有名な反論として知られているのは、古くはプラトンが『ゴルギアス』(注2) で指摘している「痒いところを掻いている快楽は、確かに気持ちいいだろうが幸福とは言えない」というものが典型です。すなわち苦痛からの解消としての快楽は幸福と呼べない、という批判です。快楽には幸福に結びつく快楽と、快くはあるが幸福に結びつかない快楽があるという問題提起です。

また、古くからある「快楽説」に対する批判として、博打や飲酒などの低俗で刹那的な快楽、盗みや詐欺などによって得られる不道徳、反社会的な快楽、そして「虚偽の信念に基づく快楽」も幸福として認めるのか、というものがあります。「虚偽の信念に基づく快楽」とは、当人は事実と信じており、幸せと感じているが実際は誤りである場合、たとえば当人は家族から愛されていると信じているが、実際は嫌われているといった場合を言います。

さらに、現代に至って「快楽説」に対する有名な反論として知られているものに、R.ノージックの「経験機械」による思考実験があります。「経験機械」とは、どんな望ましい「快楽」につながる経験も与えてくれる機械のことで、そういう機械があると仮定して、果たして人間は、一生それに繋がれていることを望むか、というものです。

この批判は、仮想的な心理的経験ではなく、現実の行動によって獲得する結果しか幸福とは認められないのではないか、

幸福とは単なる心理的な状態としての快楽のみを指すものではなく、意義のある目的を持った現実の経験を伴うものであるはずだ

というものです。すなわちヴァーチャルリアリティーは「幸福」たりえないという批判ですね。

2.欲求達成説または欲求説(Desire-Fulfilment TheoryまたはDesire Theory)

「欲求達成説」(Desire-Fulfilment Theory)は、欲求の対象、目的を定め、その達成をもって幸福とする考え方です。「欲求充足説」(Desire Satisfaction Theory)また、単に「欲求説」(Desire Theory)という名称も使われます。

「欲求達成説」は「快楽説」に対する「心理的快、不快のみしか取り扱わず、意義のある現実の経験を無視している」という批判に「快楽説」の欠陥を回避するものとしてR.M.ヘアらによって提出されました(注3)。

「欲求達成説」は「本人の望んでいる欲求の実現が善である」という考えに立つことで、「快楽説」と同様、幸福は主観的であるという前提に立脚しています。

幸福は主観的なものであるという点は「快楽説」と同じですが、「欲求達成説」の優れている点は「快楽説」が幸福を単なる精神的快楽の量的大小で捉えるのに対し、本人の欲求する目的、意義を明らかにすることで、幸福の質的価値を問えるようになることです。これは人生の目的を達成することが幸福と捉える視点であり、多くの人の人生経験の実感とも合致するものであり、納得性が高いと考えられます。

多くの人の実感とも、よく適合すると思われる「欲求達成説」ですが、疑問もあります。

第一は「欲求」を達成しない限り幸福じゃないのか、欲求が達成(実現、成就、満足なども同義とします)されたことのみを幸福とするのかという問題です。もちろん欲求が達成した暁には、大きな幸福感が得られることは間違いないでしょう。しかし、未だ達成に至っていない時点では幸福ではないのでしょうか。

幸福を単純に「欲求の達成=幸福」と捉えてしまうと、欲求が達成されるまでは不幸ということになってしまいます。すぐに達成されれば良いのですが、目標の価値が大きく、困難であればあるほど達成には長期間を要し、達成できる可能性も低くなります。そうすると肝心の幸福を実感できる時期は遠い先のこととなり、しかも達成できるという保証はありません。不幸である期間ばかりが長く、未達成に終われば、幸福は見果てぬ夢であり、不幸ばかりということになります。

このように「欲求の達成=満足」を幸福と捉えてしまうと、この説は大きな問題を抱えています。その意味で「欲求達成説」あるいは「欲求充足説」「欲求満足説」という名称は好ましくないと考えます。むしろ単に「欲求説」とする方が望ましいかもしれません。ちなみにサムナーやセリグマンは「欲求説」(Desire Theory)という名称を採用しています。

幸福は「欲求の達成」だけではなく、欲求の対象を意義ある目的として設定し、達成に向けて毎日の生活を充実したものとすること自体に、人は幸福を見出す

というのが私の考えです。むしろ、幸福の重要な源泉となると思われる「やりがい」とか「働きがい」は、むしろ目標に向かって努力している、そのプロセスで実感するものと考えるのです。

たとえば、何らかの成長をしたい、チャレンジをしたいという欲求を持ったとしましょう。資格試験にチャレンジしようとか、志望校に合格したいとか、欲求を目標という形で具体化して頑張ろうと心に決めたとしたらどうでしょうか。そこから得られるであろう幸福感は、資格試験や入学試験に合格した時点でしか獲得できないものでしょうか。
もちろん、合格と言う欲求を達成した暁に得られる幸福感は、ひときわ大きいものでしょう。しかし、それだけではないはずです。合格という目標を設定し、欲求を具体的に定めた時点で、ある種の高揚感、幸福を感じ、それに向かって日々努力している中にも持続的幸福を実感できるのではないかと思います。これは私の実感ですが、多くの方々の賛同も得られるのではないかと考えています。

このことは「幸福度」と「満足度」の関係と言い換えることもでき、欲求達成による「満足」のみが幸福か、という問題とも言うことができます。私(イーハピネス社)の調査でも、実際に「幸福度」と「満足度」は一致しないということが明らかになっています。このことは「従業員満足度(ES)」の限界と「従業員幸福度(EH)」の必要性を考える上で重要な意味を持つので、「幸福度」と「満足度」の関係として、別の記事で詳しく述べることにします。

第二の問題は、幸福を欲求の達成のみに限定することで、幸福の可能性を限定してしまうことです。幸福は必ずしも主観的欲求の結果からのみ得られるものではなく、偶然や本人の選択によらない他者のはたらきかけによって得られることもしばしばです。

そればかりか、

本人の自覚的欲求への執着があまりに強ければ、かえって幸福の機会を閉ざしてしまう

ことさえあります。自覚的欲求へのこだわりが、本人の自覚していない潜在的可能性を開発する障害となることもあるからです。これは、特にキャリア開発において重要な問題と捉えられています。

第三の問題は、幸福であるか否かは欲求対象と目標とする欲求水準に依存するので、幸福度は対象と目標水準を変えることによって、いくらでも変動するということです。

「欲求達成説」は、欲求の達成という経験に幸福があるという考え方ですが、人間の能力、行動には限りがあるので、欲求を際限なく高めていくと得られる達成は相対的に貧しいものとなり、逆に不幸の原因となってしまいます。そのため、多くの人は、しばしば欲求を実現可能な対象、実現可能な水準に逆算して設定し幸福を得るということを選択します。このことを「適応的選好形成(Adaptive Preference Formation)」(注4)と呼びます 。
つまり

「多くの人はできる範囲で諦める人生を選んで小さな満足感を得るが、それで幸福と言えるのか?」

という問題があるのです。

3.客観的リスト説(Objective List Theory)

「快楽説」および「欲求達成説」は、いずれも幸福は主観的であるという前提から出発していますが、主観であるが故の限界も持っています。

「快楽説」に対する批判に答える形で提出された「欲求達成説」も、欲求の対象は本人が望むものが善であるという、幸福を主観とする前提に立つことによって「快楽説」と同じ弱点を持っています。低俗な幸福、反道徳的、反社会的な幸福、虚偽の信念に基づく幸福を区別できないという「快楽説」と同様の批判にさらされることになります。

この問題に対して、多くの「欲求達成説」論者は、欲求の対象を完全に本人の主観的選択に任せず、何らかの制限や欲求の価値づけによって回避しようというのが一般的です。これに対し、より積極的に幸福をもたらす欲求の対象を本人の主観的選択に任せず、客観的に確定しようという考え方が「客観的リスト説」です。

「客観的リスト説」は、客観的という言葉からもわかるとおり、人それぞれの主観に依存しない、人間にとって客観的に善なる価値を持つ複数の要素を定めるところに特徴があります。「客観的リスト説」は、普遍性のある客観的幸福の価値体系を構築しようとするものと考えていいでしょう。

「快楽説」は幸福を快不快の心理状態に一元化することで、幸福のパフォーマンスを測定するのには役立ちますが、幸福度を高めるための政策立案の指針は提供してくれません。

「欲求達成説」は従業員のマネジメント・プロセスのデザインや育成システムなどには役立ちますが、多くの国民や組織の従業員を対象とした共通の政策や福利厚生制度の立案には、あまり役立たないという限界があります。

「客観的リスト説」の優れた点は、まさにこういう限界を補完してくれることにあります。幸福が主観的であるか、客観的であるかは別として、客観的指標による幸福の価値体系を作ることは、公共政策の立案や組織における従業員幸福度を高める政策・制度への活用という面で、客観的かつ普遍的な指針を提供してくれます。

最近の日本における「幸福学」、ウェルビーイング論は、この「客観的リスト説」に基づくものと考えます。

客観的リスト説は国や自治体などの行政組織や、組織の従業員幸福度を高める政策の立案、福利厚生制度の設計の基礎資料と極めて親和性が高いと言えるでしょう。客観的リストという幸福の価値体系から言って、評価指標としては「幸福感」(Happiness)よりは「福利」(Well-being)と親和性が高いと考えられます。

しかし、その有用性故に問題も存在します。
客観的というのは幸福度を向上させるための方便としては極めて有効ですが、幸福を本人の主観から離れて、客観的にリスト化するというのは、やはり本質的な矛盾があります。
幸福かどうかはあくまでも本人の実感であって、いかに客観的というメリットがあるとはいえ、本人以外の外部的基準で幸せが決まるという結論は受け入れ難いと私は考えます。

たとえば国民幸福度認定機関なるものがあって「あなたは幸福客観リストが定めた基準により、幸福度65点と認定します。」などと言われたら「私の幸せは私のものだ。勝手に決められてたまるか。おせっかいも甚だしい。」と、多くの人は頭にくると思います。

自己の幸福が、このような外部からの評価で左右されることには大きな抵抗があるでしょう。
また客観的と称していますが、実は純粋に客観的なものではあり得ず、特定の権威を持った人間または組織の定める主観が基準であるに過ぎません。客観的リストなるものが主観性、恣意的選択から逃れられないのです。ここから生ずる問題として、客観的なるリストの項目とそのウェイトづけが、果たして普遍妥当性を有するかという問題があります。

「客観的リスト説」に対する批判として「エリート主義である」との指摘があります。「客観的リスト説」の根底にあるのは、幸福の理想像を設定し、それに近ければ近いほど幸福であるという考え方です。ところが人間は生まれた環境、遺伝的に受け継いだ特性、資質、能力、偶然の出来事への遭遇などによって、幸福の客観的リストの評価に基づけば、必然的に格差が生じます。そうすると幸福の客観的リストを整備することで、かえって多くの不幸な人々を生んでしまう矛盾が生じます。

人々の幸福の大前提として、平等と多様性の尊重がなければなりません。金子みすゞの有名な詩、『私と小鳥と鈴と』の一節に「みんなちがってみんないい」という言葉がありますが、客観的理想は示しつつも、多様性も大切にしたいものです。

さて、ここまで主要な「幸福学説」の概略を述べてきました。
ここまでの結論を言うと、どの学説も一面の真理、活用の意義があり、同時に限界、欠陥もあると考えます。それぞれ広く深い問題提起を含んでいますので別記事で詳述します。
私の考えは、やはり別の記事で述べます。

まとめ

幸福は何か?本質についての仮説には三つの幸福説がある。
今日、幸福の定義に関する基本的分類は、イギリスの哲学者、デレク・パーフィットの分類が引用されることが多くなっており、幸福について研究する大半の哲学者、心理学者がこの分類を踏襲。
1.快楽説(Hedonism Theory)
「快楽」を感じることが幸福であるという考え方。
2.欲求達成説または欲求説(Desire-Fulfilment TheoryまたはDesire Theory)
「欲求」の達成、成就が幸福であるという考え方。
3.客観的リスト説(Objective List Theory)
人間にとって善なる価値を持つ要素を複数挙げ、これらが良好な状態にあることが、幸福とする考え方。

最後まで記事をご覧いただき、
誠にありがとうございました。
今後も幸福に関連する記事を
投稿してまいりますので、
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イーハピネス株式会社 代表取締役 松島紀三男プロフィール

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(注1)Derek Parfit『Reasons and Persons (English Edition)』Kindle版、PART ONE • SELF-DEFEATING THEORIES CHAPTER 1 • THEORIES THAT ARE INDIRECTLY SELF-DEFEATING.
(注2)プラトン『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、p150.
(注3)R. M. Hare, “Ethical Theory and Utilitarianism”, in Contemporary British Philosophy 4, Allen and Unwin.1976.
(注4)Jon. Elster, 1983b. Sour Grapes. Cambridge: Cambridge University Press.


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