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「安全」の名で選択肢が消えていく―CBN規制と“自由”の設計

「この成分も、来月から禁止らしい」――そんなニュースを見たとき、あなたはどう感じるだろう。
危なそう? 仕方ない? それとも、どこか息苦しい?

「この成分も、来月から禁止らしい」――そんなニュースを見たとき、あなたはどう感じるだろう。
危なそう? 仕方ない? それとも、どこか息苦しい?

これは単なる薬物問題ではない。
私たちが“自由”という言葉にどんな意味を託しているのか、そこが問われている。

安全の名を借りた“管理”

「指定薬物」という語は、危険物を想起させる。
だがその実態は曖昧で、「精神毒性を有する蓋然性が高く、かつ、人の身体に危害を及ぼすおそれがある物質」を行政が判断すれば指定できる。

つまり、“おそれ”の段階で国家権限が発動する。
危険が起きていなくても、危険が想定されれば足りる。

行政は“予防原則”という言葉を使う。
それは慎重さの表現に見えて、根拠の不確かさを覆い隠す装置にもなり得る。

CBNの扱いもその典型だ。
確定的な危険性が示されていない段階で、「似ているから」「可能性があるから」という推論が制度を動かしていく。
法の精密さよりも印象の強度が勝り、保護はいつのまにか管理に転化する。

安全を根拠とした統制は、しばしば“国民のため”という語りで正当化される。
だがその物語の中で、国民は判断する主体ではなく、守られる対象へと変わっていく。
危険を見極める自由よりも、判断を委ねて得られる安心が優先される。

安全は価値ではあるが、万能の免罪符ではない。
その境界を曖昧にしたとき、自由は最初に失われる。

科学よりも“印象”が支配する社会

海外の複数の研究では、CBNに穏やかな睡眠補助効果が示唆されている。
一方で、依存性や精神作用についての長期的なデータはまだ限られている。

にもかかわらず、厚労省は「精神毒性の蓋然性が高い」として指定薬物に加えようとしている。
根拠の詳細は公開されず、評価過程も不透明なままだ。
科学的エビデンスが十分に積み上がる前に、行政判断が先行している。

問題は、ここで用いられる論理の構造にある。
「THCと化学構造が似ているから危険」という説明は、科学的説明というより印象の延長線上にある。
構造の類似は、作用の同一を意味しない。

たとえばカフェインとテオブロミン。
構造は近いが、作用の強度は異なる。
それでも「似ているから危ない」という直感は、科学より速く社会を納得させる。

この印象操作の速度こそが、現代社会の特性だ。
恐怖と道徳が混じり合うと、「禁止」が最もわかりやすい解決策として受け入れられる。
そして、科学が不安に飲み込まれる。
事実の検証よりも、「安心していられる物語」が優先されていく。

CBN規制の議論は、まさにその臨界点を映している。

自由とは「止められない限りできること」

自由とは、許可を与えられたことではない。
止められない限り、できることの総体だ。

眠れない夜にCBNを試すことも、リスクを自分で引き受けることも、他人を傷つけない限り本来は誰にも咎められない。

成人であれば、他者に危害を与えない範囲で、自分の身体に何を取り入れるかを選ぶ自由がある。
それを放っておくことこそ、成熟した社会の筋だ。

しかし現実の制度はその前提を信用しない。
「危険性の可能性」を理由に、行為そのものを封じる。

結果として、私たちは「やっていいこと」ではなく「許可されたこと」の中で生きるようになる。
それは安全かもしれないが、同時に、自己決定の空洞化でもある。

歴史を振り返れば、「おそれ」に基づく統制がやがて思想や表現の領域へ拡張していった例はいくつもある。
薬物、出版、情報──いずれも最初は“例外的”な管理から始まった。

一度確立された「おそれによる禁止」は、拡張を止めにくい。
自由は、破壊されるよりも、手続きを通して静かに縮んでいく。

安全の中で息ができなくなる前に

社会の目的は、危険の排除ではなく、危険との共存をどう管理するかにある。
完全な安全は存在しない。

だからこそ、科学的検証・透明な手続き・比例原則の三つが欠けた規制は、秩序ではなく支配に近づく。
CBNの問題は、その構図を小さなスケールで可視化している。

「守られること」は、一見やさしく聞こえる。
だが守られすぎた社会では、人は自らを信じる力を失う。

危険を避ける自由と、危険を引き受ける自由は対の関係にある。
どちらかを奪えば、自由は形だけのものになる。

国家の役割は、国民を包み込むことではない。
それぞれが自分の判断で立つ余地を確保することにある。

CBN規制の問題は、私たちがまだその理念を信じているかどうかを測る試金石だ。

安全の名のもとに息苦しさを覚えるとき、それは単なる感情ではない。
自由が静かに削がれていく音を、私たちは無意識のうちに聞き取っているのかもしれない。

(※本記事は2025年10月時点の情報に基づいて執筆)

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