案内所流 足し算のトリセツ ~episode2~
案内所の重厚な木製扉を押し開ける。
(…気のせいか、
年々この扉が重くなってる気がする)
季節は初夏。
里山を少し歩くだけで、
肌にじっとりとした、
湿り気がまとわりつく。
「あら、珍しい人ね」
カウンターの向こうから、
蒼子さんの涼やかな声が響く。
「にゃー」
「お、君もいたのか。
涼んでいるのかにゃ?」
足元の黒猫は、
こちらを一瞥することもなく、
ただ悠然と尻尾を揺らしている。
私は軽く咳払いをして、
リュックからリアルな造形の、
アユのぬいぐるみを取り出した。
「これ、『けりぐるみ』っていうんです。
そこの沢でマタタビが自生してましたけど、耐性、あるかな?」
「……微妙ね」
蒼子さんに手渡したが、
黒猫は耳一つ動かさない。
「わざわざこれを届けに?」
「まさか。それはただの『おまけ』です」
私は蒼子さんをテーブルへ促し、
保冷ボックスから小さな瓶を取り出した。
「完熟マンゴープリンです。
市販品ですが、
それなりの目利きはしました。
味見はしてませんが」
続けて、いつもの水筒とは違う、
小ぶりな魔法瓶をテーブルに置く。
「この前、…ずいぶん前かな?
『冷茶と羊かん』のお礼は宿題にさせてほしい、と言いましたよね」
「ちょっと待って」
「はい? 待ちますけど」
「つまり、その魔法瓶の中身を当てろ、
と言うことかしら?」
「…言ってませんけど、お好きにどうぞ」
「東方美人茶(オリエンタルビューティー)」
「……早すぎませんか」
「まさか、狐月庵(こげつあん)の?」
「まさか。
ネットで買ったティーバッグです」
「まさかだわ」
蒼子さんはふっと口角を上げ、
席を立った。
「グラスを冷やしてくるわ。
最高にね」
その足取りが、
わずかに弾んでいるように見えた。
それだけで今日は、
ここへ来た甲斐があったというものだ。
私はハンカチで額の汗を拭い、
椅子にどっかと腰を下ろした。
山道を登ってきた熱気が今になって、
ぶり返してきた。
「なかなか良いセレクトじゃない」
戻ってきた蒼子さんが、
ランチョンマット、コースター、柄の長いスプーン。そして、薄く霜を纏ったグラスを並べる。最後は、
季節の花を活けた一輪挿しを添える。
(……相も変わらず、手際がいい)
流れるような手つきで、
私の魔法瓶も彼女の手に収まっていた。
「まあ、
選ぶ時間だけはたっぷりありましたから」
「いいわよ。
今日『だけ』は、
弟子として認めてあげる」
「それは光栄ですね。
では、精一杯努めさせていただきますか」
私は喉を鳴らすように咳をした。
さっきから、
この一杯のために水分を控えているのだ。
「『冷茶と羊かん』が引き算の調和なら、
今回はその対極。
中華の『飲茶』文化から着想を得ました」
「あなた、思考だけはスムーズなのよね」
(おい、どこを見ている蒼子さん)
「褒め言葉として受け取っておきます」
二つ並んだグラスに、
琥珀色の液体が注がれる。
「ロゼ・シャンパンの色ね。
蜜香も爽やかだわ」
蒼子さんは、
完熟マンゴープリンにスプーンを入れた。
ねっとりとした一匙を口に運び、
すっきりとした一口で洗い流す。
「……うん。悪くないわね」
(……ま、そんなもんか)
私も蒼子さんの二口目の後を追い、
スプーンに手を伸ばす。
「……うん。お茶がマンゴーを、
やっぱりいいわ、これ」
蒼子さんは三匙目。
「……わ、うま。ミルクティーみたい。
なんかコク、ありません?」
「そうね。清涼感のある渋みが、
後味を鮮やかにリセットしてくれる。
この、可愛らしい瓶を選んだのも正解ね」
「そうですね、コクはありません」
「何言ってるの、あるでしょ、コク」
私は返事をする代わりに、
琥珀色の液体を喉に流し込む。
「……単体でもうまいな。
しかもこの、鼻に抜ける香りは?」
蒼子さんはズイと、
花瓶の位置を私の方へずらす。
「あぁ、花の香りですね」
「蘭(らん)よ。
残り香に『花香(かこう)』してるかも」
「かこう?
すみません、花は詳しくなくて」
さらにズイと押し出される花瓶。
「紫蘭(しらん)よ」
「……あぁ、美しい紫色ですね」
「もう帰るの?」
「これ以上の贅沢は、体に毒ですから」
「…どうかした?」
蒼子さんの緊張を頬に感じる。
私は蒼子さんの近距離に上体がのけ反りながらも、両の手の指先が白くなるほどテーブルを握り締めたまま、離さなかった。
「はは」
両の指に意識を込め、剥がすと、
膝の上に置き直す。
だが、どう力を入れたものか、
どうやれば立ち上がれるのか。
「これは……くっついてますね」
蒼子さんはずっとヤバい奴を見る目だ。
「よかった、くっついてない」
私はなぜか立ち上がれていたが、
続く沈黙には、沈黙を返すしかなかった。
「ほんとに帰るの?
一番暑い時間よ。
そうだ、水分は足りてる?」
「備えは万全です」
私はマイ水筒を軽く振って見せた。
「この余韻を持ち帰りたいので」
玄関まで見送りに来てくれた蒼子さんに、
私は手を振った。
「お互い、夏の暑さに負けない熱さで」
照れ隠しの軽口を叩きながら、
私は足早に歩き出す。
(……これ以上いたら、帰れなくなる)
一歩、一歩、案内所から、
蒼子さんから遠ざかっていく。
足音がしない。背中にいるのは分かる。
ただ、ただ、あの人が……返事をしない。
あれほど強く踏みしめていた、
足の感触が消えていく。
振り返っていた。
「っ…!?」
蒼子さんの指先が目元に、
蒼子さんもすぐに気づく。
「…ごみが」
小さくこぼれた声。
私は反射的に反転する。
足の速度は鼓動に比例した。
喉の奥に残る甘ったるさが、
熱さに溶けずに残る。
【本日のお題】
『高嶺の花が夢中になってくれたら?』
【かみこて流一歩目】
『立ち方を忘れた。そのうち呼吸もできなくなりそう』
『そうなるから帰るんだろ。いい年の青春は最高にみっともないぞ』
【本日のお題(追加)】
『高嶺の花が自分のために涙を流したら?』
【かみこて流一歩目(追加)】
『どうすべきなんて分からない。私は逃げてしまった』
『おいおい、いい加減にしろ。泣いている女性をそのままだと?
お前、それでも……お前、かみこてなのか?』
【次に続く】
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太っ腹♥
きっと、良いことがあったんだね💫