案内所流 愛しい人の横顔を見ながら ~episode5~
「シャンドン ロゼよ」
蒼子さんが手のボトルを少しだけ、
掲げてみせる。
ボトル下部に楕円形のラベルが貼られた、
ややずんぐりした形。
白く細かな霧をまとい、
神秘性が増している。
溜息? そう錯覚する音がこぼれる。
ボトルの栓が抜かれていた。
「ん? モエは?」
「モエ・エ・シャンドンね。
そっちはお高いの」
蒼子さんは慣れた手つきで、
二つのシェリーグラスに、
半分ほどシャンパンを注ぐ。
夕暮れの空を閉じ込めたような、
いや、比喩ではなく、
いや、比喩なのだが、
それぐらい紅く見える。
無意識に私は手を握り直し、
グラスを受け取る。
ちなみに、本日の蒼子さんの着物は、
蒼のグラデーションを基調として、
銀糸の刺しゅうがある。
グラスの底から湧き上がる気泡が、
銀糸に見えてくる。
「…なるほど」
「あなたがプレゼントしてくれた、
オリエンタルビューティーと同じくらい」
「さすがの気遣いで」
二つのグラスが、
乾いた音を小さく響かせる。
グラスから聞こえる、
パチパチという破裂音はかすかだが、
執拗に耳に残る。
一口、含む。
発泡が繊細だ。無数の粒が柔い。
そして苺が近い。指先で潰したような甘酸っぱいだけではない、野性味のある香りが鼻腔へ抜けていく。
飲んだ後はドライ。
ただ、甘い余韻が熱く喉に残る。
(お酒は誰と飲むかによるけど、
「時よ、止まれ」だな)
車は時折カーブをゆっくり曲がるのだが、
その度に肩が数センチ近づく。
「かみこてさん、と呼んでも」
(このタイミングですか)
「…えぇ、その方がしっくりきますね」
「あまり飲み慣れてないみたいだけど、
アルコールは苦手?」
(…沈黙も敵か)
「いえ、飲みつけてないのは確かだけど、
饒舌になりすぎて。
今日はもう、マックスだから、
どうなることやら」
蒼子さんもクイッと一口飲む。
「私は睡眠薬代わりね。
今は一定量を超えるとダメだわ」
蒼子さんは二口目。
「そういえば、
かみこてさんは映画を見る時、
原作から入る人みたいね」
(…完全に忘れてた)
「あぁ、アストンマーティンですね」
「そう、ボンドカー」
「趣味の延長ですけど、
かみこてはペンネームですからね。
映画は原作の小説をどう料理するのかな、
みたいな視点でしか見られなくて。
だいぶ損してます。
もっと吹っ切れるほど、
上手になれば違いますかね?」
「上手くなりたいだけなら、
続ければいいわ」
「…ふむ」
(…一定量ってどれくらいだ?)
振動が変わる。
一般道に入ったと思われる。
モニタービューは発車して数分で、
沈黙してしまった。
もう、意識しても振動が感じられない。
「そろそろ、本題に入ってくださる?」
蒼子さんのグラスは、
ほとんど残ってなかったが、
それを一気に飲み干した。
私は一口目以降、
口をつける余裕がなかった。
じっと見つめられる。
「どうしたの?」とばかりに、
あどけない笑みが浮かぶ。
「…いつでも入る準備はできてますよ。
何も構えることはない。
ただ自分は、蒼子さんを見てればいい。
言葉は、この思いを後追いしてくれます」
「私は蒼子さんを見る時、
『恋』という感情に支配されます」
「お酒は偉大ね」
蒼子さんは指先でボトルをもてあそぶ。
「蒼子さんはどう見ても、三十代です。
これだけ近くから見ても」
私は近づこうと身を動かすが、
深く密着したシートがそれを許さない。
「これでも苦労してるのよ」
私は空咳でごまかす。
(…仕切り直しだ)
「だからどうしても、
自分が若返ったように錯覚してしまう」
「罪ね。
私、あなたより実年齢、だいぶ上よ」
「それは余計です!」
私は内心の動揺を語気で隠す。
蒼子さんは「分かりました」とばかりに、
唇を一文字に閉じる。
「…感情だけは生々しい。
でも当然、
そこにかつての激しさはない。
そう、なくていい」
「悪くない」と呟く、蒼子さん。
「引き算の美学ですよ。
削って、削って。
純化していく。
この感情が、
若者のそれに劣るとは思えない」
蒼子さんは自分のグラスに、
ロゼを静かに注いでいく。
「年月という圧が結晶化させていく。
絶対に壊れません」
「乾杯」
蒼子さんは一人、グラスを掲げる。
「…乾杯」
「おやすみ」
口の端から滴るような勢いで、
消えていく紅いシャンパン。
大きめな瞳は閉じられ、
無防備な蒼子さんの横顔。
私は舌打ちをこらえて、目を逸らした。
私はどうにか、シェリーグラス半分のシャンパンを飲み干し、隣に眠っているはずの蒼子さんを見て――
手を伸ばしていた。
はたと、手首を捕まれる。
「フライングではなくて?」
蒼子さんは目を閉じたままだ。
ただ、額のうっすらかいた汗が気になる。
手が離される。
その手はそのまま額へ。
確かな湿り気が手の甲へ移る。
「大丈夫。
久しぶりに歩いたから」
「…信じますよ」
「嬉しいわ、いい気分」
それから間もなく、
蒼子さんはきれいな寝息を立て始めた。
【今回のお題】
『愛しい人の眠る横顔を見ながら、
何を思う?』
【かみこて流一歩目】『………』
『………』
【次に進む】
【前に戻る】
いいなと思ったら応援しよう!
太っ腹♥
きっと、良いことがあったんだね💫