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小説 骨を購う人

「調子はどう? そろそろおひるにおいでよ」

 私を呼ぶ声が耳に届くまで、きっとしばらくかかったんだと思う。やすりの削りかすが満遍なくまぶされているせいで、私の手は皺が強調されて十歳以上老けて見えた。また、彫刻刀やナイフの当たる指の股や指先は赤くなって、全体が痺れている。それに比して、彫刻台の上にあるオブジェクトの形は、取り掛かり始めた朝と比べて、あまり変わっていないように見える。

 彫刻刀を握っている時は素晴らしく進んでいるように思っても、少し離れて見て、それが錯覚だったことを発見するのは、いつものことだ。
 いつまでも形が見えなくて、途中で放り出すようにその日の刀を置くことは少なくないが、それを重ねていると、ある日ざあっとすべてが分かるときが来る。そういうときは自分の手が遅すぎてもどかしいほどだが、今日そういう瞬間はやってきそうにない。

 窓の方を見やると、いつの間にか太陽は高い位置にあった。キッチン兼居間からは何か温かい食べ物の匂いがする。それが醤油味なのか味噌味なのかは、少なくともここからはよく分からない。

「おばあちゃん、遅くなってごめん」

「いつものことじゃない」

 彼女はコップに薄い茶を淹れ、スープのようなものを鍋からお玉ですくって二つの椀に入れた。ぶっきらぼうだが怒っている訳ではない。あなたのタイミングでいいから、一緒に食卓を囲もうと言ってくれる人だ。誰かいないと、年寄りは食べずに済ませてしまうからというのが口癖だ。おばあちゃんと呼んではいるが、血縁関係はない。

「さっきあの人が来たよ」

「また? 全然気が付かなかった。どうせもっと買わないかってことでしょう」

 彼女が頷くのを見て、私は軽いため息を吐く。

「まったく、私に腕が六本も八本もあると思ってるんだわ」

「そう言うと思って、適当にあしらっておいたよ」

「ありがとう」

 椀一つに野菜も肉も穀物も入っているから、私達はすぐに食べ終わってしまう。食事の後は少しだけいいお茶を入れる。家の裏の小さな庭で取れたハーブをお茶代わりにすることもある。薄暗い室内で、私達はぽつぽつと会話しながらけだるい午後を過ごす。二人ともに仕事や家事がないときだけの、退屈で贅沢な時間だった。
 こんな時間を持てるようになるとは思ってもいなかった。そもそも、私が、私達が生き延びられるかどうかも、あれが起こった時は分からなかった。

◇ ◇ ◇

 夕方、仕事を終えて家に戻ると、玄関の土間に小さい靴があった。おばあちゃんの話し声に混じって子供の声もする。しょうがない子だ。私はため息を吐き、書類が入った重たいトートバッグを玄関脇に置いた。

「先生おかえり! ジャムサンドクッキーあるよ!」

 ミカは我が物顔でこたつにもぐり込み、おばあちゃんとクッキーを食べていた。一応宿題をしたあととみえ、こたつ机の上には算数ドリルが広げてあったが、その上で食べているので、クッキーのかすが沢山こぼれていた。

「食べる時ぐらいどけなさいよ」と言いながら算数ドリルを持ち上げ、シンクに食べかすを落とすと、ミカはすかさず

「でも、出しとかないと先生『宿題やったの』って言うじゃん」

 と、まるで反省がない。
 夕ご飯までには帰るのよという私の声に、学校支給のタブレットから目を離さないまま生返事する様子は、ほぼうちの子供だ。

 キッチンで立ったまま麦茶を飲んでいると、今日はカレーにしたよと言いながらおばあちゃんがやってくる。匂いで分かるのに、告げれば私が喜ぶと思っているのだ。

「もっと子供好きな家はありそうなのに」

「あの頃の子は、適度に放っておかれる方がいいんじゃないの」

「クラスメイトの家に遊びに行ってくれた方が安心なんだけどなあ」

 と言うと、おばあちゃんは

「あなたは思ってる以上に子供好きなはずだよ。じゃないとわざわざ教師になんてならない」

 といい、籠からみかんを二つ取って、こたつにいるミカに渡しにいった。彼女はミカに甘いのだ。立ち入って訊いたことはないが、実の孫がいたんじゃないかと思う。ミカを孫の代わりにしているというような、嫌な感じはしないけれど。

「彫刻だけでは食べていけなくて、たまたま持ってた教員免許を使ってるだけ。私を買い被りすぎよ」

「そんなことないよー。めっちゃ人気者じゃん」話を聞いていたらしいミカが、口をもぐもぐさせながら横から割り込む。

「そりゃ私が非常勤で、担任を受け持ってないからだよ」

「先生のツンデレ!」

 五時になると辺りはもう真っ暗だから、ミカを施設まで送っていく。ミカは私と二人だと言葉少なになる。

「明日はリコーダーのテストだっけ?」

「うん」

 水を向けても、すぐ会話が終わってしまう。時々隣で歩くミカの顔を伺うと、生真面目にきゅっと結ばれているのが分かる。
 街灯に照らされた頬以外は闇に沈み、睫毛が作る影がひどく大人びて見える。彼女の境遇がそうさせるという雑な理解はしない。

 私はたまに施設に連絡を入れる。他の子とうまくやっていけないからうちに来るというわけではないらしい。ミカだけにこのような扱いをすることは、施設の、あるいは世間一般のルールからは外れているのだろう。しかし、消しカスのような私にも、他のものに何か渡せるものがあるならそうすべきだ。
 それを愛と言う人もいるだろうが、私のそれは義務、生きる者にとっての義務だろうと思う。私達が手にしているものは少なく、偶然的だ。私達はお互いの持っているものを融通する必要がある。それが生きていくということだと思う。

 帰宅すると、既にこたつ机にカレー皿と生野菜のサラダが用意されていた。テレビでは歌番組とも、バラエティー番組ともつかない番組がやっていて、誰も居ない居間に群衆の笑い声が響いてうら寂しかった。ミカがいたら食事中にテレビはつけさせないけれど、大人だけだと勝手なものだ。

「カラハさんは、元々関東のご出身ということですが――」

 紺色の三つ釦スーツを隙なく着たアナウンサーが、新時代のディーバに何事か訊いていた。右下には『亡き母への想い』というテロップが表示されている。その話の向け方にうんざりする。うんざりするなんて言ったら非国民かもしれないけれど。

「——そのことを、悲しいとか辛いとか思わない訳ではありません。でも、たとえそばにいなくても、もう逢えなくても、私の歌や、私の歌詞の中に大事な人はいるのです――」

 蛍光黄緑のドレッドヘア、ピンク色のマスカラに鼻ピアスの歌い手が、アナウンサーとのやり取りで泣いていないことに少しホッとする。やがてインタビューは終わり、カメラはズームアウトして、彼女はどこかの屋外ステージにいるのだということが分かる。
 無人の客席に向かって歌う彼女は、強いライトに照らされてまるで恒星のようだ。その歌はしっとりした正統派のバラードで、新しくて奇抜な何かを期待した私はがっかりした。しかし、傷付いた日本には、まだこういう歌を求める人が多いのだろう。

「歌っても、もう届かないのに」ぽつりと考えたことが、言葉に出てしまった。

「相手に届くかは問題じゃないのよ」

「まあね」

 それは同意する。表現はあくまで自分のためだ。でもそういうことじゃなくて。言葉にならない。

「折に触れて思い出すような相手のことを思って何かが生まれるなら、その関係には意味があったんじゃない?」

「……さあね」

 私は肩をすくめて苦笑してみせた。このことでおばあちゃんと言い合いになりたくなかったのだ。

 思い出も気持ちも、あやふやなものだ。昨日会った人とした会話は、まだ生き生きとした体験だけれど、一年経ったら、ただの情報になる。情報は美味しくない。それだけでは淋しい。今の自分がどんな状態かによって容易に書き換えられる。信用できない。
 ましてや、その時の自分の感情が愛だったかなんて。

 今の私は、目の前のものしか信じられない。自分に向けられた目線、体温や声、来週の約束。はっきり自分に向けられた言葉になら応じられる。どうとでも解釈できることと戯れるには、私は傷つきすぎ、疑いやすくなりすぎた。

◇ ◇ ◇

 あの日、関東は斫られた。あれがなんだったのか、分析する試みは続いているようだけれど、結果は一向に国民に報告されない。
 隕石なら地面が凄まじく振動し、夥しい降灰で現生生物は今頃絶滅しているはずだが、いきなり土地が消えるというでたらめなことが起こったのだ。東北の一部や北関東、南関東が穴の空いたチーズよろしくごっそり抉れて、人工的な形の潟湖になった。
 天皇一家は辛くも生き延びて京都御所に移られた。斫られた面積が大きすぎたのか、第三東京市のような代替都市は出来なかった。今、日本の首都は大阪だ。

 3.11の時、津波で沖合に持って行かれたがれきが、カリフォルニアとかチリとか、遠くの海岸に届いたという話があった。鳥取に頻繁に流れ着く白っぽい流木のようなものは、関東の巨大潟湖から少しずつ流れ出たそれだと言う話が、スピリチュアル界隈ではまことしやかに囁かれている。

 受け持ちのコマを終えて帰宅すると、流木の営業マンに家の前で待ち伏せされていた。私の生活パターンを把握されているのだろうか。おばあちゃんは不在だったのも間が悪く、彼は家の中まで入ってきてしまった。

「もっと商売っけ出したっていいじゃない。あまり言いたかないけど、先生の今の作品だって、そういう需要が根っこにあるの、知らないはずないでしょ?」

 つまり、もしかしたら肉親の体の一部だったかもしれないものを、アートとして側に置くっていう需要が。

「もちろん、先生の作品のクオリティがあってこそ、素材も輝くんだと思うんですよ」

 私の表情が曇ったのを見て、彼は下手なフォローを入れる。

 こういう人に、「素材としてのそれに魅入られたからだ」なんて教科書的なことを言っても通じない。
 この人は、多くの人が言わないでいようとするようなことをずけずけと言う。多分、商売柄じゃなく、この人の持つ元々の悪意だ。私だって、もっと辛辣で心を抉る言葉を持っているのに、普段刃を研いでいないから口に出す弾みが付かない。
 どう言い返そうか言葉を選びあぐねていると、彼は更に畳みかけてきた。

「あんなことがあった後なんだから、必要とされる場があるだけで十分じゃないですか? ぼく、需要に貴賤はないと思うんですよ」

 そう言って彼が『流木』の分厚いカタログを私達のテーブルに置いたすぐ後に、おもむろにおばあちゃんが家の奥から出てきた。

「さあ、それ以上若い女の子をいじめると、こうだよ」

 おばあちゃんの右手には、饐えた臭いを放つ、濁った茶色い液体の入ったバケツがあった。おそらく庭に置いてあった木酢液だ。それに、不惑の私のことを若い女の子だなんて。

「ハイハイ、もう帰りますよ。でもきっと先生は」

「ほら、掛けられたいのか!」

 ここでそんなものをぶちまけたら後の掃除が大変だ。私はおばあちゃんが本気でぶちまける気がないのに気付いたが、彼は靴も半分履きのまま走って行ってしまった。

「さ、甘いものでも食べよう」

 おばあちゃんはバケツを置きに廊下を歩いていった。私はキッチンに向かって、鍋に水を入れて火にかけた。私達は庭で紅茶を飲み、羊羹を食べた。
 羊羹は甘すぎ、紅茶の苦みを引き立てて最高に合わなかった。もうちょっとマシなお菓子を出せただろうと二人で笑った。
 私が居間に戻った時、こたつ机にはもうあのカタログはなかった。私の目に毒だからと、おばあちゃんが家のどこかに仕舞ったのだろう。しかし悲しいかな、私は彼女がそういうものをどこに仕舞うか知っていた。

◇ ◇ ◇

 あの商人は私がお高く留まっていると思っているようだが、そうではない。こんなカタログを見たら、私はその中にあの人を探してしまう。それで頭が一杯になってしまうから嫌だったのだ。
 何本いくらで仕入れる時は、これが骨かもしれないという考えは、荒唐無稽だと退けられたのに。

 このごつごつしていて、黒い筋が十本入っている流木はあの人だろうか。いやいや、あの人は男性でも、もう少し物腰が柔らかかったはずだ。しかし骨に性格なんて現れるはずがないではないか。今こういう形になっているのは、私が別の場所で別の生活をしている間に、深海に沈んだり瓦礫に揉まれたり、ほうぼうで魚につつかれたりしたからだ。
 それなのに、私はピントがいまいち合っていないカタログ写真のどこかに、あの人の手がかりがないか探してしまう。私の心と共鳴するものを感じたら、それがあの人かもしれない、だって? 乙女趣味にもほどがある。

 万一得心できるものが見付かったとして、買ってどうするのだろう。

 私はあの人の肌にやすりをかけ、余分な部分をナイフで削り取るなんていうことはできない。私の手を加えて一つの作品にするなんて、吐き気を催すようなエゴイズムだ。
 植物を水苔とともにくくりつけて着生させるというアイデアは一見魅力的だったが、あの人が植物好きだったとは思えない。たとえば蘭なら華やかだから喜ばれるのではないか。そう考え、「喜ばれる」って一体なんなんだと苦笑する。
 それなら加工せず、インテリアとして、居間の隅やウォールシェルフに飾ればいいではないか。しかし私にはそれはもっとできかねた。それではあまりにあの人のままだからだ。
 私はあの人が近くに存在していて欲しいと思っていたが、あの人だとはっきりわかる形でいてもらうのは嫌だった。日本地図から群馬県が消え、スーパーに嬬恋キャベツが並ばなくなったことに、私はどこかホッとしてもいた。
 そもそもあの人の生死を私は知らない。あれだけのことがあったのだから、おそらくそうだというだけで。
 極めて黒に近いグレー。それを海で漂白した骨たち。

 こたつにカタログを広げたまま、心のざらつきを受け流していると、ガチャリとドアが開く音がした。

「ただいまー。ってあれ、誰もいない?」

 ミカの声だった。悪い事をした子供のように体をびくりとさせてしまったことを、私は恥ずかしく思った。とはいえ、先に帰って来たのがおばあちゃんじゃなくて良かった。

「うわ、先生電気も点けずになにやってんの」

「ん、ちょっとね。手洗いとうがいしておいで」

 怪訝な顔のミカを洗面台に行かせている間に、私はカタログを元の場所にしまった。ミカは居間に戻ってきていたが、さめざめと泣いていた。ミカがこの家で泣いているのを見たのは初めてだった。

「わた……わたし……ひ、ひとりぼっち……」

 残酷なことをしてしまった。ミカは子供の敏感さで、私の淋しさにあてられてしまったのだ。
 私は血が繋がった子供にそうするように、ミカの肩を抱きしめ、ミカの目のあたりを私の肩に軽く押し付け、頭を撫でた。実際抱いてみると、座っているせいもあって、ミカの体格は大人と変わらなかった。温かくて重たくて、それは責任の重たさだった。
 ミカはなかなか泣き止まなかった。ここでのびのび過ごしているように見えても、ずっと悲しさを閉じ込めていたのだ。ミカは肩で、先生もそうなんでしょう? と言っていた。大人になっても、心に仕舞いこまないと生きていけないような悲しいことが起こるんでしょう? と。
 いつの間にか、私の目からも涙が出て止まらなくなっていた。

 二匹の濡れねずみになっていた私たちを見ても、おばあちゃんは流石に冷静だった。よく分からないけれど、押し入れから毛布を出してくるんでくれた。施設に電話して、今日はミカを家に泊まらせることにした。明日の教科書や体操着だけは、私が赤く腫れた目のままで施設に取りに行った。

「あなたが流木に惹かれるのは、もうしょうがないんじゃない?」

 おばあちゃんは言った。

「でも、どうせ心の中の物を切り捨てられないなら、こっちの方がいいと、私は思う」

 おばあちゃんの手には、最近ニュースでやっていたミニロボットのカタログがあった。

◇ ◇ ◇

 このロボットには流木を据えるケースが一応付いてはいるが、それは「おまじない程度」ということだった。ロボットの言葉や動作のもとになるのは、ロボットに接する人のニューロンの発火らしい。
 詳しいことはよく分からないが、これで私は本人か分からない流木を家に置くのとは違う方法で、あの人と『共存』することができるようになった。それが本当の意味の共存とは言えないと分かってはいるけれど、声があり、アクティブなので、私達の生活に少し彩りが生まれた。
 そして悔しいことに、このロボット、パープルが家に来てから、私の彫刻がはっきりと良くなった。

 パープルは脈絡なく色々なことを話す。

「餃子ノ王将ハ関西ブラッドニハ大事ヤネン」

「炊キ込ミゴ飯ニハ揚ゲ物ガイイ!」

 パープルが話すことは、私が覚えていることだ。自分がそんな些細なことを、まだ覚えているということを突き付けられて面映ゆい。それに、パープルの声はあの人の声とは少し違う。技術の精度はまだまだであるようで、時々「麺ハバリカタ以外ミトメナイ!」とか、おそらくあの人なら言わないことを言う時もある。

 私が彫刻用の部屋で作業をしている時、背後からモーター音が聞こえてきた。

「パープル、ここの削りくずはあなたには毒よ」

 パープルはお構いなしに、制作中のオブジェクトに向かって行った。

「ワタシ、コレスキ」

「そう」

 私はパープルの頭を撫でる。困ったことに、私はやっぱりあなたが居てくれると嬉しいみたいだった。

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