【古代の里(苫前町)】北海道旅行で訪れた博物館・資料館等の紹介②
0 目次
1 北海道の博物館等の紹介記事
先日、北海道に長期旅行に行った際に立ち寄った博物館や資料館等について、不定期でご紹介していきたいと思う。
関連記事は下記のマガジンにまとめた。
前回の記事(旭川の北鎮記念館の紹介)はこちら。
2 立ち寄った博物館等の一覧
今回の旅で私が実際に立ち寄った博物館等は以下のとおり。
北鎮記念館(旭川市)【紹介済】
古代の里(苫前町)
オホーツクミュージアムえさし(枝幸町)
北海道立北方民族博物館(網走市)
羅臼町郷土資料館(羅臼町)
北方館(根室市)
帯広百年記念館(帯広市)
むかわ町穂別博物館(むかわ町)
北海道開拓の村(札幌市)
北海道博物館(札幌市)
今回の記事では、北海道の日本海側にある町、苫前町の「古代の里」をご紹介したいと思う。
3 古代の里(苫前町)について
所在地 苫前郡苫前町字苫前393番地
入館料 310円(町外・高校生以上)
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)

苫前(とままえ)町にある「古代の里」は、大きく分けて、郷土資料館と考古資料館、そして縄文・擦文文化時代の復元住居から成る、旧町役場を活用した博物館だ。
実は、今回は復元住居の存在に気付かず、そのため残念ながら、復元住居については見学できなかった。

海沿いを走る国道232号線から少し内陸に入った場所にある小さな博物館なので、あらかじめ存在を知っていなければ、あっさりと通り過ぎてしまいそうな場所だ。実際のところ、私も、過去にこの道は何度も通っていたが、博物館の存在には全く気付かなかった。
4 郷土資料館について(苫前の発展・ニシン漁など)
苫前町は、江戸時代に松前藩が海沿いの地に、「場所」と呼ばれる、アイヌとの交易の拠点を開いたことが始まりだと言われる。
その後、幕府領となったり庄内藩の領地となるなどの紆余曲折を経て、明治4年に水戸藩の支配が終わると、明治政府の行政機関である開拓使の管轄地となり、苫前町の前身である苫前村、力昼村、白志泊村が設定された。
明治20年代に入ると、海ではニシン漁業が発達し、内陸の原野についても農地開拓が始まった。

館内の郷土博物館のゾーンでは、苫前町の農業、林業、漁業等の営みの歴史を知ることのできる資料が多く展示されている。
特にニシン漁は、最盛期の明治30年頃、豊漁時には2万トン以上の漁獲量があったといい、漁期には3,000人近くの労働者が村外から集まってきたのだという。
水揚げされたニシンはニシン粕に加工され、綿花栽培等の農業に用いる貴重な肥料として、北前船などで本州に送られていた。



明治時代末期の北海道を舞台にした人気漫画「ゴールデンカムイ」の単行本第4巻第37話から第5巻41話では、積丹(苫前より南に位置する日本海側の地域)のニシン漁場で働く労働者「ヤン衆」に紛れて潜伏していた網走監獄からの脱獄囚、辺見和雄(もちろん架空の人物だ)が登場するが、このエピソードの中で、ニシン漁とニシン粕の製造工程や、それらの産業に携わる人々の暮らしぶり紹介されている。
ちなみに作中では、船にのってニシン漁をするヤン衆たちが、船上で「ソーラン節」を歌っている描写があるが、ソーラン節は積丹のヤン衆たちの間で歌われるようになったのが始まりと言われており、苫前のニシン漁場で歌われていたかどうかはわからない。
ヤン衆たちが起居するいわば職場兼会社寮は「ニシン番屋」と呼ばれ、ニシン漁で財を成した大規模漁業者が建てた立派な屋敷は、「ニシン御殿」などとと呼ばれた。
なお、苫前町の少し南方にある小平町の道の駅には、この「ニシン番屋」が保存されており、内部を見学することもできる。

5 史上最大の熊害事件「三毛別羆事件」に関する展示
さて、そんな北海道開拓時代の大正4年12月、現・苫前町内の三毛別(三渓)で、冬ごもり前の一頭の羆が、空腹から凶暴性を発揮し開拓民の集落を相次いで襲い、10名を殺傷(7名死亡、3名重症)した国内最大の熊害事件「三毛別羆事件」が発生した。
この資料館では、この事件に関する資料を多数展示している。


事件が発生して間もなく討伐隊が編成され、アイヌ犬10数頭、人員延べ270名、鉄砲60丁が動員された。
討伐隊の編成から二日後、討伐隊に加わっていたマタギ、山本兵吉が放った2発の銃弾によってついに羆は仕留められ事件は終結した。
羆を仕留めると、それまでの晴天が一転して大暴風雪となり、この天候の変わりようを人々は「熊風」と呼び、熊を射止めた後には強い風が吹き荒れる、と言ったのだという。
ちなみに、討伐隊が編成されたとき、あわせて陸軍第七師団(屯田兵たちから成る部隊・くわしくは前回記事を参照)にも救援要請がなされており、山本兵吉が羆を仕留めた日、第七師団の歩兵30名が留萌(るもい・苫前から比較的近い大きな町)に到着していたが、羆が退治されたことから出番無く引き返すこととなったようだ。





この事件の時、自宅が羆狩対策本部となっていた大川与三吉のまだ幼かった息子、大川春義は、事件の犠牲者たちの仇討ちのため猟師になることを誓い、山本兵吉に学び猟師になると、引退するまでに100頭(あるいはそれ以上)の羆を仕留め、引退後は事件現場からも近い三渓神社に事件の犠牲者たちの慰霊碑を建立した。
現代であれば、たとえば知床のように、羆の生息密度が極めて高い地域でも、電気柵を用いて人間の生活圏との分離を図ったり、羆を誘引しないよう廃棄物等の処理に留意したりしたうえで、市街地に出没するなど人身被害のリスクが高い個体に限定して駆除を行う、といった管理を行うことで、羆による人身被害を防いでいるケースもある(とはいえ、人間が自然を相手に実行するものである以上、完璧ということは無いようだが)。
しかし、開拓時代の北海道では、本州から来て間もない開拓民たちが羆の生態について知っていること(あるいは対策できること)は、現代よりもずっと少なかったはずだから、共存というよりは「退治」に重点が置かれたのも当然のことだろう。

石碑の裏の碑文には、「子供心にも惨事の再来を防ぐ為、一生を賭して熊退治に専念し、以て部落の安全を維持するは、己れに課せられたる責務なりと確信し深く決意せり」等と春義の言葉が刻まれている。

さらに春義の息子である高義も猟師となり、体重500kgにもなる巨大羆「北海太郎」などを仕留めた。

今年、まさにこの苫前町にて、箱罠で捕獲された個体が体重380kgにもなる大物であったことがニュースになっていた(下記)が、三毛別羆事件の羆の大きさは、体重340kgの個体だったということなので、ほぼ同じサイズということになる。
これでも十分な迫力だが、「北海太郎」はこれよりもさらに一回りも二回りも大きいというのだから、驚きだ。人里に出てくれば、人間などひとたまりもないだろう。

6 考古資料館(続縄文~擦文(オホーツク)~アイヌ 本州とは異なる発展を遂げた北海道)
大陸から本州に稲作が伝わった弥生時代、北海道では、その風土から稲作は受け付けず、弥生人のムラは北海道に広がることは無かった。
そのため、北海道では、「続縄文(ぞくじょうもん)時代」と呼ばれる、縄文時代以来の狩猟採集漁労の生活が営まれた時代が続いており、7世紀頃に擦文文化に移行するまで続いた。
ちなみに、吉村武彦の「新版 古代史の基礎知識」によると、弥生時代の始まりは、紀元前7~6世紀であろうとされている(別の説によれば紀元前10世紀頃とするものもある)。弥生時代に続く、古墳時代の始まりは、かつては3世紀末~4世紀初めと考えられてきたが、最新の研究によると、3世紀前半までさかのぼる可能性があるのだという。


7世紀ごろ(本州では奈良時代)になると、北海道は続縄文時代から「擦文(さつもん)時代」へと移り変わる。
擦文とは、刷毛で擦ったような文様のことで、そのような文様の土器が多く作られたことから擦文時代(あるいは擦文文化)と呼ばれるのだという。
この時代に入っても、引き続き竪穴式に住んでいたのだが、続縄文時代のものとは形状(楕円形→正方形)が異なっていたり、カマドが設けられているといった特徴があったようだ。
この苫前町では、擦文時代の遺跡「香川三線遺跡」「香川6遺跡」が見つかっており、貴重な資料が多数出土しているのだそうだ。

この時期は、本州との交易が活発になっており、交易を通じて鉄製品(鋤や鍬、蕨手刀などの刃物)や、穀物の種子等を入手して、アワやキビなどの雑穀の栽培などもするようになっていたようだ。
後のアイヌ文化の人々を含む、北極圏やその近辺(主に北緯45度以北のツンドラ地帯と北方針葉樹林帯・北海道本島北部あたりが南限となる)の北方民族が、南方との交易を通じて、毛皮や羽(矢に使う)などを輸出する代わりに、貴重な鉄製品などを入手する営みは、北方民族によく見られたものだったようだ。
ゴールデンカムイ単行本4巻第32話で、アシリパ達がオオワシを狩ることになった際、オオワシの尾羽根と手羽根はとても丈夫なため、矢羽根として重宝されており、アイヌと和人との交易において高値で取引されたことが紹介されている。
また、ゴールデンカムイのストーリー全体を通じて、アシリパをはじめアイヌの登場人物たちが、「マキリ」と呼ばれる小刀を大切にしている描写が随所に現れるが、交易でしか入手できない鉄製品はアイヌの人々の間で重宝されていたことを反映させたのだろう。




続縄文時代の終わりごろ(5世紀頃)から擦文時代の後半(10世紀頃)にかけて、オホーツク海沿岸等を中心に、「オホーツク文化」と呼ばれる文化が存在していた。
続縄文文化や擦文文化を担っていたのは、縄文人の末裔であったが、オホーツク文化を担っていたのは、現在のロシアのアムール川の下流域やサハリン(樺太)などに住む北方少数民族(ニヴフ族とする説が有力なようだ)だという。
彼らは、船に乗って獣骨を加工した銛などでアザラシなどの海獣を狩る「海洋狩猟民族」であり、「アジアのバイキング」などと呼ぶ人もいるようだ。

ゴールデンカムイ単行本17巻第170話で、アシリパ達がロシアの支配下にある北樺太を訪れた際、ニヴフ族と行動を共にして船からイルカを狩るシーンが描かれているほか、18巻第180話では、流氷の穴から呼吸をするために顔を出したアザラシを、ニヴフ族の伝統的な銛を使って仕留めるシーンがある。
また、20巻第192話193話でも、ニヴフ族の住居や衣服等の生活ぶりが紹介されている。
当時(明治時代末期)の樺太には、ニヴフ族の他、ウイルタ族、樺太アイヌといった北方少数民族が住んでいた。
これらの北方民族には、狩猟採集生活が中心であることや、動物にソリを引かせて雪上を移動する、独特の紋様の衣服等の類似点がある一方、ニヴフと樺太アイヌは犬ゾリを用い、ウイルタはトナカイを用いるといった違いもあった。
北海道アイヌであるアシリパは、樺太で彼らの生活を間近で見ることで、北方少数民族をルーツに持つ、父やその友人であるキロランケが守ろうとしていたものを知ることになっていく。

北海道は、擦文時代の後アイヌ時代に入るが、その時期については、12世紀頃、土器を使わず、住居も竪穴式でなくなったあたりだとする説があるようだ。
擦文時代との違いとしては、他にも、「イオマンテ」という熊送りの儀式を行うといった点があり、熊を神聖視するオホーツク文化の特徴を一部受け継いでいる。
現代の本州の日本人の遺伝子の10%ほどが縄文人に由来するといわれているが、アイヌの場合、それよりもはるかに多く縄文人の遺伝子を受け継いでいるほか、オホーツク人との混血の形跡もみられるようだ。



7 最後に
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