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なぜ、根本は変わらないのか ——受動革命としての日本政治、三つの建前と実態の乖離

深夜のコンビニでレジに立つのは、ベトナムか、ネパールから来た留学生かもしれない。近所のスーパーの品出しも、介護施設の夜勤も、建設現場の足場も、もはや外国人労働者なしには回らない。そんな街を歩いた帰り、ニュースをつければ、国会で「これは断じて移民政策ではありません」と繰り返す大臣の答弁が流れている。

——あれ、なんだかズレていないか。

似たようなズレは、あちこちに転がっている。共働きが当たり前になった今も、妻の年収が一定額を超えた途端に「扶養から外れる」という、昭和の専業主婦世帯を前提にした壁に頭を悩ませる夫婦。夫婦別姓を望んだだけで、何十年も国会が結論を出さないまま議論が「継続審議」を繰り返す光景。

社会の現実は、すでに変わっている。終身雇用は崩れ、共働き世帯は専業主婦世帯を数のうえで大きく上回り、労働力人口の相当部分を外国人労働者が支えるようになった。しかし、これらの変化を説明するはずの政治的な建前——家族の形、男女の役割、国民の同質性——は、驚くほど変わっていない。変わったのは、実態を覆い隠すための、周辺的な部分修正だけだ。

この乖離が、人々の間に、ぼんやりとした、あるいは強い違和感をもたらしている。「何かが変わっているはずなのに、何も変わっていない」という感覚。この違和感の正体を、グラムシの概念を借りながら、三つの領域を横断して解き明かしてみたい。


一 受動革命という診断枠組み

グラムシは、支配的な階級が、被支配層からの異議申し立てに直面したとき、それを根本から受け入れることも、力ずくで抑え込むこともせず、体制内部への部分的な譲歩によって段階的に吸収し、無害化していく過程を「受動革命(パッシブ・レヴォリューション)」と呼んだ。トランスフォルミズモ(体制転換主義)とも呼ばれるこの過程の特徴は、支配的なイデオロギーそのものは温存されたまま、周辺部分だけが繰り返し手直しされるという点にある。

この枠組みは、日本の家族制度・ジェンダー・移民政策という三つの領域に、驚くほど正確に当てはまる。

二 家族制度という建前

年金制度における第3号被保険者制度は、その典型だ。サラリーマンの被扶養配偶者は、自ら保険料を負担せずに国民年金に加入できるというこの仕組みは、専業主婦世帯を前提とした戦後的な家族制度の、法制度上の生き残りである。この制度こそが、いわゆる「年収の壁」——パート主婦が一定収入を超えると手取りが急減する現象——を生み出す最大の要因だとされている。

2025年の年金制度改正をめぐる議論でも、労働組合の中央組織である連合は、第3号被保険者制度の廃止に向けた検討会設置を求めた。しかし厚生労働省はこの制度の抜本的な見直しに消極的だとされ、専門家は、政府が示す事業主による保険料の肩代わりといった対応策を、根本的解決ではない「弥縫策」と評している。周辺は手直しされる。しかし、専業主婦世帯という制度の前提そのものは、温存され続ける。

選択的夫婦別姓も、同じパターンをたどってきた。共働き世帯が増え、婚姻による改姓が仕事上の不利益を生むケースが広く認識されながら、司法は現行制度を合憲としつつ判断を国会に委ね、国会は結論を先送りし続けている。同性婚についても、各地の高等裁判所で違憲・違憲状態とする判断が積み重なっているが、国レベルの法改正には至っていない。実態は先に進んでいるのに、制度は動かない。

三 男性中心主義という建前

皇位継承をめぐる皇室典範の男系男子主義は、何十年にもわたって有識者会議での検討が繰り返されながら、その根幹には手がつけられないまま推移してきた。2026年7月、皇族数の減少という危機に対応するため、女性皇族が結婚後も皇室に残ることを可能にする規定と、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えられるようにする規定を柱とした改正皇室典範が、参議院本会議で可決・成立した。自民・維新・国民民主・公明・参政党など、幅広い賛成のもとで成立した、異例の速さの改正だった。

しかし、この改正は皇位継承の資格そのもの——女性が天皇に即位できるか、女系による継承を認めるかという、より根本的な論点——には一切触れていない。首相は成立後の会見で、安定的な皇位継承に関する今後の議論については、立法府の意思を尊重して対応すると述べるにとどめた。皇族数という周辺的な危機には、迅速かつ大幅な制度改正で応じながら、男系男子主義という制度の根幹だけは、今回もあえて手つかずのまま残された。これは、受動革命という戦略が、いかに具体的に作動しているかを示す、格好の実例だと言える。企業の女性役員比率、政治分野における女性比率も、数値目標だけは繰り返し掲げられながら、実質的な達成には至っていない。目標設定や検討会という、周辺的な手続きは繰り返される。しかし、男性を標準として設計されてきた制度の骨格そのものは、動かされない。

四 単一民族という建前

これが、おそらく最も分かりやすい例だろう。技能実習制度から特定技能制度への移行によって、外国人労働力への構造的な依存は年々拡大してきた。介護、建設、農業、製造業の現場は、すでに外国人労働者なしには成り立たない領域が広がっている。

にもかかわらず、政府は一貫して「これは移民政策ではない」という説明を維持してきた。実態としては、すでに労働力人口の相当部分を外国人労働者が支えているにもかかわらず、公式には「日本は移民を受け入れていない」という建前が、繰り返し確認され続ける。制度(在留資格の枠組み)は、実態の拡大に合わせて何度も改定されてきた。しかし「単一民族国家」という自己認識そのものは、公式には手つかずのまま残されている。

ただし、ここで確認しておくべきことがある。単一民族という建前は、外国人労働力への依存拡大という新しい現実によって、初めて実態と乖離したわけではない。日本には、2019年に法律で先住民族と明記されたアイヌ民族、琉球・沖縄の人々、在日コリアンをはじめとする在日外国人など、以前から多様な民族的背景を持つ人々が存在してきた。つまり単一民族という建前は、そもそも一度も実態を正確に反映したことがない。今回の外国人労働力への依存拡大は、まったく新しい矛盾を生み出したというより、もともと虚構だった建前を、より隠しづらくしているにすぎない。

五 乖離が生む、市民の認知的分裂

三つの領域に共通するパターンを、あらためて整理しよう。実態はすでに変化している。それに応じて、周辺的な部分修正は、時に大幅な形で繰り返し行われる。しかし、その変化を統一的に説明するはずの、支配的なイデオロギー——専業主婦世帯を標準とする家族像、男性を標準とする社会像、単一民族を前提とする国民像——そのものは、決して根本から書き換えられない。

これは、単なる政治の停滞や、改革の遅れとして片づけられるものではない。市民が経験しているのは、もっと厄介な、認知的な分裂だ。制度は確かに動いている——保険の適用範囲は広がり、在留資格の枠組みは何度も改定されている。しかし、その変化を語る公式の物語は、一向に更新されない。その結果、市民は「何かが変わっているはずなのに、何も変わっていない」という、二重の感覚に引き裂かれる。根本の問題は解決されないという実感と、しかし現実には確かに何かが変わっているという実感とが、同時に、しかし噛み合わないまま存在し続ける。

これこそが、受動革命という戦略の、もっとも巧妙な効果なのかもしれない。異議申し立てのエネルギーは、周辺的な譲歩によって、その都度いくらかは吸収される。しかし、根本的なイデオロギーの書き換えという、より大きな変革のエネルギーへと結晶化する手前で、繰り返し解消されてしまう。市民の違和感は、行き場を失ったまま、蓄積されていく。

六 空白を動員する、二つの運動

この蓄積された違和感こそが、既成の55年体制的な政党秩序の外側から現れる、新しい政治運動の土壌になっている。れいわ新選組と参政党という二つの現象は、実はこの同じ乖離を、まったく異なる方向から動員している。

参政党が動員しているのは、単一民族・伝統的家族という建前と、外国人労働者への依存拡大・家族の形の多様化という実態とのあいだの乖離への不安だ。この不安は、建前を守れという方向——実態のほうを、古い建前に近づけよという要求——として動員される。れいわ新選組が動員しているのは、終身雇用・年功序列という(すでに機能を失った)建前と、非正規雇用の拡大・生活困窮という実態とのあいだの乖離への不満だ。こちらは逆に、建前のほうを実態に近づけよ——実態に見合う再配分を、いま実現せよという要求——として動員される。

つまり両者は、対象とする建前こそ違え、同じ構造的な乖離を、それぞれ異なる方向から掬い上げている。一方は建前への実態の従属を、もう一方は建前の実態への従属を求めている。この対称性は、偶然ではないだろう。受動革命が周辺的な手直しによって異議申し立てを吸収し続ける限り、その吸収しきれなかった不満は、必ずどこかから噴き出す。それが建前を守れという方向に噴き出すか、建前を変えろという方向に噴き出すかは、どの社会層が、どの乖離を、より切実に経験しているかによって決まる。

七 この構造を、どう評価するか

ここまで述べてきたことを、あらためて事実として確認しておきたい。社会的実態はすでに変化している。それを支えるはずの政治的建前は、根幹において変わっていない。そしてこの乖離が、市民の間に混乱をもたらしている。ここまでは、是非の問題ではない。単に、そうなっているという事実の確認である。

問題は、この事実をどう評価するかにある。ここから先は、一つの答えに収斂しない。

一つの読み方は、これを危機の先送りとして見るものだ。グラムシが受動革命という言葉に込めた、やや批判的な含意がこれにあたる。根本問題が解決されないまま先送りされ続けることは、それ自体が価値を持つわけではなく、むしろ矛盾を蓄積させ、いずれより大きな断絶として噴き出すリスクを抱え込むことだ、という見方である。

しかし、もう一つの読み方もありうる。カール・ポランニーが論じた「二重の運動」——市場や資本の運動が社会に浸透しようとするとき、社会の側がそれに対抗する自己防衛の運動を生み出すという考え方——に立てば、政治的建前の保持は、単なる遅れではなく、蓄積体制の変化に社会が全面的に従属することへの、意識的・無意識的な抵抗として読み直せる。家族という単位を市場の論理に完全に明け渡さない、国民という単位を労働力需給の論理だけで際限なく組み替えない、という感覚には、それ自体として一定の合理性があるかもしれない。

ただし、この読み方には、さらに一段の吟味が必要だ。保持されている「緊張」が、社会全体にとっての自己防衛なのか、それとも特定の集団が、別の集団に対する優位を維持するための防衛なのか、という問いである。単一民族意識の保持は、社会全体の自己防衛であると同時に、その労働によってすでに日本社会を支えている外国籍住民を、権利ある構成員として迎え入れることへの抵抗としても機能しうる。男系男子主義の保持も、同様に、女性を制度の主体から排除し続けることの正当化と、容易に重なりうる。だとすれば、この構造を「良い先送り」と「悪い先送り」に単純に分けることはできない。同じ一つの建前の保持が、両方の顔を同時に持ちうるからだ。

そして、もう一つ、見落としてはならない事実がある。この評価をめぐる議論がどれだけ続こうと、社会的実態のほうは、その議論を待たずに進行し続けているということだ。外国人労働者への依存は、この記事が書かれているあいだにも拡大している。共働き世帯は、この記事が読まれているあいだにも増え続けている。評価が定まらないことは、現実の進行を一時停止させはしない。むしろ、評価の分岐が続く間、実態と建前との乖離はさらに広がり、それに伴う市民の混乱もまた、解消されないまま拡大を続ける。これもまた、是非を問う以前の、単純な事実である。

結語にかえて

日本政治に共通するこの構造——社会的実態はすでに転換しているにもかかわらず、それを支える政治的なイデオロギーは保守的なまま温存され、周辺的な部分修正だけが繰り返される——は、なぜ日本のポスト戦後体制への移行が、これほどまでに緩慢に進んでいるのかという問いに、一つの答えを与えてくれる。

根本的な書き換えは、起きていない。しかし、それは変化がないということではない。むしろ、変化を絶えず部分的に吸収しながら、根本の書き換えだけを先送りし続けるという、極めて安定した——そして、それゆえに市民の違和感を際限なく蓄積させ続ける——統治の様式が、確かに機能し続けているということだ。

この様式が、いつまで持続可能なのか。蓄積された違和感が、いずれ周辺的な手直しでは吸収しきれない規模に達したとき、何が起こるのか。それを断定することは、まだできない。そして、それを危機の先送りと見るか、社会の自己防衛と見るかも、まだ一つに定まらない。しかし、家族制度、ジェンダー、移民政策という三つの領域に、同じパターンが繰り返し現れているという事実、そしてその評価が定まらないあいだにも実態と建前の乖離が広がり続けているという事実——この二つだけは、いま確かに、この社会の現在地として見えている。

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