歌川国芳 8人の八卦美人シリーズ──第二幕 【損】

さてさて、
第一幕──【利】の折りには、
ご堪能いただけましたでしょうか?
質屋小路に咲く、逞しき女の姿。
銭と情をたぐり寄せ、
ひとつひとつ、暮らしを織りなす手ざま──
あれは、まこと、利を追う背中に、音もなく影をさしかける一枚でございました。
さぁて、続きましては──
第二幕の幕開けにございます!
今回も引き続き、
歌川国芳筆、
「人間萬事愛婦美八卦意」より、
【損】──癇癪の晴嵐、とまいりましょう。
人間万事、得ばかりとは参りませぬ。
短気を起こせば、利は逃げ、
癇癪ひとつで、物も縁も壊れちまう──
そんな浮世の縮図を、
国芳が洒落た筆で、ひと絵に仕立てたのでございます。
時は、江戸。
場所は、日本橋 地本問屋「錦耕堂」の軒先。
今日も今日とて、
物好き連中が押しかけて、
新作の浮世絵を手に取り、
わいわいがやがやと賑わっております。
──そんな中、
ひとり、浮世絵を手にした客が、
「こりゃまた、癇癪持ちの誰かさんにそっくりだ」
なんぞと、店主とひと笑い。
さてさて、
そんな店先に、またひとり──
いや、いっぴき──
春の風に誘われて、
ふらりと通りかかったのは、
日本橋のかつぶし問屋にいる、あの隠居猫。
そう、おなじみ──
「おたま」の登場でございます。
ではでは、
これより始まる、おたまの語り──
第二幕、はじまりはじまり!

── ぬるんとした陽気に背中を押されて、
あたしゃ、ふらりと錦耕堂の軒先へ顔を出したのさ。
全身が弛むようなあったかさに、
思わず、目を細めちまったよ。
真っ先に目に入ったのは、
軒下に吊るされた、色鮮やかな役者絵と美人画。
摺りたての浮世絵がずらりと並び
紙の白さに色が映えて、見世台もにぎわってる。
絵具の香りもまだ残る絵草紙に鼻をひくつかせながら、
あたしゃ、人だかりの中に紛れ込んでいったよ。
通りすがりの若い衆が、一枚手に取って、
こんなことを言ってねぇ。
「へぇ、こりゃまた、うちのかかぁに見せてぇな」
「癇癪起こしゃ、茶碗のひとつやふたつ、飛んでくるからよ」
帳場の奥から顔を出した店主も、
「そいつぁ、どこも似たようなもんで──」
と、肩をすくめて笑ってさ。
賑やかな声を耳にしながら、
あたしゃ、人混みをぬって、絵の前に歩み寄ったんだ。
目に留まったのは、
「癇癪の晴嵐──【損】」と銘打たれた一枚。

──こりゃあ、ずいぶん景気よくぶちまけたもんだねぇ。
誰かからの文を読んじまって、腹立ちまぎれにやっちまったんだろうさ。
割れた徳利に、
こぼれたのは──酒かねぇ。
ぐしゃぐしゃに握りつぶされた文、
放り出された煙管まで、ありさまを物語っちまってるよ。

それにしても、この絵の「損」って字さ。
八卦って知ってるかい?
陰陽五行の教えから生まれた、八つの卦さ。
八つの卦ってのは、
こんなふうに並んでるんだよ。
乾(天)、坤(地)、震(雷)、巽(風)、
坎(水)、離(火)、艮(山)、兌(沢)。
天に地、雷に風、
水に火、山に沢──
ありとあらゆる自然の姿を、
それぞれに託してるってわけさ。
「巽」──
春の風が吹く方角、東南を示す卦でさ、
国芳がそこに目をつけて、
「損」にひっかけたってわけだ。
晴嵐ってのは、本来なら、
晴れた日にそよそよ吹く、心地よい山風を指すんだけど──
たまにゃ、油断も隙もありゃしない。
晴れた空の下、
ふいに吹き荒れる山の風が、
春疾風に化けて
あっという間にあれこれなぎ倒しちまうこともある。
まるで、癇癪玉が破裂したみたいに、さ。
晴れてるだけに、よけいに油断して、
それで大事なもんまで壊れちまう──
国芳は、そんな浮世の縮図を、
この「損」に重ねたんだろうねぇ。

この女も、ほら、
爪先で地面をぐいっと掻いてるだろう?
たった一瞬の、むしゃくしゃ──
けど、その一振りで、心の奥が透けて見えるようさ。
癇癪ってのは、昔っから、
腹の虫が暴れ出すもんだって言われてたねぇ。
ぐつぐつ煮えた思いが、
とうとう吹きこぼれちまう。
癇癪なんてぇのは、まぁ、そんなもんさ。
筆をはしらせ、
紙の上でこしらえたはずの小粋な女に、
怒りも、命のうちってんで──
国芳は、そのまんま、
吹き込んじまったようさ。
あたしゃ猫だからね、
人間が誰にも見せたくない顔を、見ちまうことがあるんだよ。
ふと吹きこぼれる感情──
そんな瞬間も何度も見たさ。
まさに、「癇癪の晴嵐」ってやつだ。

あぁ、この女も──
まだ心に残ってる癇癪玉ぜんぶを、
まるっと腹の底に沈めちまった、そのあとさ。
癇癪のあとは、大抵こんな顔になるもんだ。
ああいう姿を見るたびにね、つくづく思うよ。
人ってやつぁ、気持ちを抱えきれずに、つい外へあふれさせちまう生きものなんだって。
──それで、
国芳は、どんな詞書を添えてんだい?

【 此卦にあたる人ハどうも かんしゃくがあつてじりじりしてややともすると なにかをこハす事があり── 】
……と、まぁこんなふうに書いてある。
癇癪もちってのはね、
じりじり、いらいら──
つい、やらなくていいことに手ぇ出しちまうのさ。
そんな“損の卦”にあたる人間の話ってわけだねぇ。
その短気が、結局は自分に跳ね返ってくる。
【 たんきハそんき 】
この江戸でも、よく聞く教訓のひとつさ。
まぁ、茶碗を割るくらいで済めばいいけどね──
言わんでいいことを口走って、
あとでじぶんで背中丸めることになるってのも、よく転がってる話さ。
けど、壊すのは、物だけじゃない。
その人の、まっすぐなところとか、
ほんとは伝えたかったことまで、ぜんぶ──
──ご破算。
それが、ほんとうの「損」ってもんだ。
詞書のしめくくりにゃ、こうきたもんだ。
【 せき損さまの 御しんごんにも
こハすハそんだ ばさらんだと まうす
──ありがたし ありがたし 】
石尊権現さまの名を借りて、
「壊すは損、ばさら(向こう見ずで手前勝手なこと)は野暮だろ」ってね。
それをご真言──“ありがたいお言葉”として示すあたりが、
なんともまぁ、にくいじゃないか。
【 ありがたし ありがたし 】
まるで、「まぁ気をつけな」って
笑いながら小噺を落とすような締めくくり。
──まったく、耳の痛ぇ話でさ。
思い当たるフシのある人間には、
こりゃまた、じんわり効く一言だろうねぇ。
笑い話みたいな顔して、
ぐっと心の奥を突いてくる──
まったく、油断ならない絵師さ。
まぁ、命あるもんてのは、
自分の腹の虫ひとつ、思いどおりにならないってのが、常でさ。
「思いというのは叶わぬもの、だからこそ憂世さ」
そんな歌もあるくらいでねぇ。
誰だって、思いどおりにならないことのひとつやふたつ、
腹の底にしまって生きてるもんさ。
ままならないのが、この世の常。
泣いても、怒っても、笑っても──
茶碗を拾って、また暮らしを続けてくしかないだろってね。
あらがいきれなかったあの感情もさ、
ちゃんとここにあるって、
【晴嵐】なんて名をつけて絵にしてくれたんだ。
──それだけでねぇ、
ちったぁ気が楽になるってもんさ。
……まったく、なんてこった。
【損】のたった一枚に、
これだけの洒落と教訓を仕込むたぁ、
やっぱり国芳、只者じゃねぇなぁ。
人間てのは、絵一枚でこんなにたくさんのことを
感じたり、考えたりできる──
ほんと、羨ましい生き物だよ。
あたしは、この絵ひとつから、そんなふうに受け取ったねぇ。
まるで謎解きみたいで、おもしれぇ。
ま、どこまでいっても、
この世は腹の底の“はらわた”次第。
腑に落ちれば、それでよし。
腑に据われば、もっと上等。
てなもんで──
あたしゃ、なんだか腑に落ちたよ。
……さて、あんたはどうだい?
国芳のこの洒落と、茶碗の破片の向こうに、
なにか見えたかい?
たとえひとつでも、
なにか感じたもんがあって、腑に落ちたんなら──
………ありがたし、ってねぇ。
