歌川国芳 8人の八卦美人シリーズ──第一幕 【利】

さてさて、これよりご覧にいれますは──
歌川国芳が描きましたる、
「人間萬事愛婦美八卦意」の世界。
中国に伝わる「瀟湘八景」に始まり、
やがて日本では、それにならって「近江八景」と呼ばれるようになりました。
それにならい、国芳もまた、
女たちのありさまに中国古典の陰陽の八卦
(乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌)を重ね、
「愛婦美八卦意」と洒落込んだのでございます。
八つの景色、八つの漢字、
女性と人生の陰陽、
浮沈を八枚の絵に託しました──
そんな揃いで、ございます。
国芳が筆にのせた女たちは、
カラッ風に鍛えられたような
たくましく自立した、江戸の粋な姉御たち。
私、変体仮名の勉強がてら手に取りましたが、
彼女たちの人間らしい姿、
今も昔も変わらぬ暮らしの匂いに、すっかり魅せられてしまいました。
添えられた国芳の詞書には、
世の裏も表も知り尽くしたうえで、
「まだまだ捨てたもんじゃねぇ」と
気っ風で押す国芳の声が
聞こえてくるではないですか。
国芳からの言葉が、
ほらよっと、こちらへ投げられるような──
そんな気さえいたします。
さぁて、これからご紹介いたしますは──
八人八様のうちのひとり、
八卦の「離」を「利」に掛けた──
【利】質請の帰帆にございます。
さぁさぁ、お立ち会い。
これより始まる、おたまの語り──
第一幕、はじまりはじまり!
・・・──へぇ、紹介されちまったからニャ、
気楽にひとつ、語ってみるとするかねぇ。

深川の町にも、春の色がすっかり濃くなってきたねぇ。
川っぷちをすり抜ける春の風に、
ふっと鼻先をかすめたのは、
乾いた紙と布の匂い──
どこか懐かしい、質屋小路の匂い。
ほら、質屋の看板がぶら下がってるのが、あちらこちらに見えるじゃないか。
将棋の駒の形をした板に、古い質札を束ねて吊るしてね。
「駒=金」、勝てば「金銀に変わる」って縁起を担いだもんだったのさ。

江戸初期の風俗を精細に活写した考証随筆。
本図は、著者が三十年ほど前(文化年間ごろ)に友人宅で見た質屋の看板を、縮図に写し取って記録したもの。将棋の駒の形に質札の反古を束ねた、江戸初期の看板姿を伝えている。
節季の米代をつくるために、
大事な鍋釜を手放す女。
冬を越すために、
長年使った布団を抱えて駆け込む男。
この道を行き交う連中は、
誰もが何かを差し出して、
何かを手に入れようとしちまう。
利──
そして、情。
銭と情が、細い糸で絡まり合って、
人の暮らしをかろうじて繋いでる、そんな場所さ。
ある日のこと。
あたしゃ、ひょいと裏道に回り込んで、
ふと、ある質屋の前で足を止めたのさ。
一人の女が、店先をじっと見上げていてね。
浅黄色の木綿小袖。
すそが少し煤けて、春の光の中でぼんやり浮かんでいるようだったのさ。
片手にしっかり握った質札、
もう片手には、小さな銭袋。
──銭を握りしめ、
いま、ようやく質草(質に入れた品物)を
請け出そうとしてるとこだろう。
銭を指でつまみながら、
行ったり来たり、数を数え直す。
春の風に吹かれているのに、
その指先だけが、まるで時が止まったみたいでね。
けれど、なんでだろうねぇ。
どこか──浮かれるでもなく、
しゃんと気持ちを立たせているように見えたのさ。
何度もこの道を通ってきたような女の、
少し乾いた逞しさを感じてね。
ふわりと散る桜じゃない。
風にすがるでもない。
土にしっかり根を張った、
逞しい野の花みたいな姿だった。
──妙だねぇ。
あたしゃ、なんだかその女に見覚えがあるような気がして、
思わずしっぽをぴんと立てたのさ。
しばらくじっと見つめて──
ふっと、思い出した。
「あっ! あれだよ、あの絵さ!」

質屋に預けていた品物(質草)を、無事に請け出している場面。 近江八景のひとつ「矢橋帰帆」にかけて「質請の帰帆」と洒落た題がつけられた。 ここでいう「質請」とは、借金を返済して、質に入れていた品物を引き取ることを指す。
そうさ、間違いないねぇ。
あたしゃ、日本橋にいたころ、
地本問屋「錦耕堂」の店先で、
この浮世絵を目にしたんだよ。
歌川国芳が手がけた、八枚揃えのうちの一枚さ。
質屋で質草(質に入れた品物)を
請け出す女の姿──
借りた金を返して、
大事な品物を取り戻す。
そんな庶民の営みを、
近江八景の「帰帆」になぞらえて洒落るあたり、
まったくもって、国芳らしいってもんさ。
国芳の画号「一勇斎」を白く染め抜いた印半纏。
それを引っ掛けた、どこかの女房が、
帳場で店の主人と話し込んでる──

あたしゃ、あのとき、
この絵に描かれた女に、妙に心を引き寄せられたのを覚えてる。
華やかでもなく、
卑屈でもない。
小さな利を手繰り寄せる伝法肌の女。
──国芳はねぇ、
ありふれた毎日のなかの“生きた一瞬”を、
掴み取っちまう天才だったのさ。
右手で質屋の帳場格子にそっと手をかけ、
腰には男物の煙草入れをぶら下げてさ。

左手で煙草をつまみながら、帳場越しに店の主人と談合する、いかにも国芳好みの姿。
その傍らには、
質草の包みと、火を抱えた真鍮火鉢。

女のこなしひとつにも、
この町で踏んばってきた重みが、にじんで見えたのさ。
ああいうちょっとした物のたたずまいで、
人の背負っているものまで描き出しちまう──
そんな絵師だったねぇ。
──そうそう、この絵には、
国芳が添えた詞書もあったっけねぇ。
どれどれ、ちょいと拝借して、読み上げてみるかい。

【 此卦にあたる人百で四文の利をとられ 一生ゆげのあがることなし…… 】
──この卦(うんめい)に当たる者は、
いくら汗水流しても、
小さな利しか得られず、
一生、浮かび上がれない。
小さな利を追い、
くたびれて、
それでも利から抜け出せない──
そんな運命を、国芳は皮肉まじりに綴ったんだよ。
だけど、国芳はそこで筆を止めやしなかったのさ。
──精出して働きゃ、利は自然と集まる。
昔も今も、それが道理ってもんだ。
利ばかり追って、心まで擦り切れていく。
けど、どんな小さな仕事だって、
地道に続けりゃ、ちゃあんと、
自分だけの「利」が積もっていくもんさ──と。
そうさ、国芳は、
利を追う虚しさも、
精を出して働くことの重みも、
どっちもまるっと一枚に描いちまったんだよ。
──目先の利ばかりにしがみつくうち、心まで痩せ細っちまう……
まぁ、それもまた、人間の性ってやつかねぇ。
国芳は、貧しさを笑うのでもなく、
働くこと、生きること。
そんな当たり前の営みを、
絵の中に、当たり前のように描き残したんだ。
──思い出すねぇ。
あたしゃ昔、
向島の国芳の家を覗きに行ったことがあるんだ。
猫だらけ、絵だらけのにぎやかな家。
懐に猫を抱えたまま、筆を走らせる国芳の姿。
生真面目と洒落っ気を、一枚の絵の中に同居させることができる、不思議な絵師だった。
宵越しの銭は持たず、
働いた分だけ、
猫と弟子と、江戸の風に散らしていた。
そんな気風が、この「利」の浮世絵にも、にじんでいるように思えるだろ?
利を求める人間たちを、笑いながら、
けれど、笑い捨てることはしない。
自由で、
めちゃくちゃで、
でも、妙に筋が通ってた。
利に追われて、
利に救われて、
利に泣いて、
利に笑って。
そんな生き方を、
この町でも、いくつも、いくつも、見てきたさ。
あの質屋の前にいた女も──
国芳が描いた、絵の中の女も──
きっと、何度も、銭と情の狭間でもがいてきたんだろうねぇ。
──そんな生き方が、この江戸の町には、確かにあったのさ。
利に追われ、利にすがる。
──国芳は、
そんな人間の業と、
その中で生き抜く力を見つけて、
ひと筆に乗せたのさ。
・・・さて、
あんたは、この国芳からのひと筆を、
昔話として聞き流すかい?
ぱっと受け止めるかい?
ころころ転がして遊ぶかい?
それとも、
ただじっと、眺めるだけかい?
国芳からの問いの玉、
ほら、もう、あんたの前に転がってるよ。
つかむもよし、
ころがすもよし、
笑って見逃すも、またよしさ──
──おたま
