それは共感じゃなく、自己喪失だった──“感じすぎる”あなたへ
「共感力が高い」って、よく言われてきた。
でも私は、いつも人の感情に巻き込まれて、苦しくなっていた。
「それって本当に、共感だったんだろうか?」
子どもの頃から感じていた“飲み込まれる感覚”の正体と、そこから抜け出すまでの話です。
「共感力が高い」って、本当にいいこと?
「空気読めるから助かるよ」
私は昔から、そんなふうに言われてきました。
小中学生のときには、先生が求める正解がわかるから、それを差し出す。
全体の空気を読んで必要な行動を取るから評価される。
でも、私にとって、本当にそれは“いいこと”だったんでしょうか?
そして、相手の言葉に過剰に反応して、
顔色や声のトーンを必死に読み取り、
ちょっとした一言をずっと引きずってしまう。
それって本当に、
“共感していた”んでしょうか?
私が「人の感情に飲まれる」ようになった理由
私が感情に過敏だったのは、たぶん子どもの頃の環境が関係しています。
実家ではなく、親戚の家で育ちました。
その家の大人はとても“よく見てくれる”人でしたが、
同時に、過干渉でコントロールしたがるところもありました。
今ならわかりますが、
みんな必死だったんだと思います。
大人たちも、自分のことで精一杯だった。
だから責めるつもりはない。
でも、当時の私はそこで「自分を持つこと」をやめました。
自分の意見を捨てて、
感情は押し殺して、
「自分らしさ」そのものを閉じ込める。
そうやって、静かに生き延びようとしたんです。
言いたいことを飲み込んだとき、
胸のあたりが詰まる感覚がありました。
喉にピンポン玉が詰まっているような圧迫感。
うまく声が出せなくなるくらいの苦しさ。
小学3年生の頃、私は「チック症状」が出ていました。
数十秒おきに喉を鳴らす癖のようなものが出て、かかりつけの耳鼻咽喉科で相談していました。
(今思えば見当違い😅)
でも、あの症状は“言いたいことを言えない自分”の、身体からのサインだったのかもしれません。
「共感」は投影かもしれない──知覚というフィルター
NLPに出会ってから、「知覚は投影」という言葉を知りました。
正直、最初は受け入れがたかった。
「私が感じているものが、全部自分の内側から出ているなんて…」と。
でも、何年かかけてようやく腹落ちしました。
人は、自分の内側にあるものしか知覚できない。
つまり、“自分が持っていない概念”は、そもそも世界として認識されないんです。
目の前の人が怒っているように見えたとしても、
それは本当に相手が怒っているからなのか?
それとも「怒られるかもしれない」という私の恐れが、
“そういう風に見せている”だけなのか?
この違いを知ったのが、私にとって境界線を取り戻す最初のステップでした。
だからこそ、それ以降は“解釈”ではなく、“観察”を大切にするようになりました。
観察を重ねて、相手の変化を“自分の解釈抜きで”見ていく力。
NLPではそれを「キャリブレーション」と呼びます。
感受性を扱えるという成熟
若い世代を見ていると、感情に巻き込まれて苦しんでいる人が多いなと感じます。
相手にそのつもりがないのに、自分の側が勝手に深読みして、傷ついてしまっているというパターンもあります。
そしてここからが本題なのですが、
年齢を重ねるにつれて、この“過敏さ”に対する対処の仕方も分かれていくように感じています。
ある人は、経験を通じて自然と自分の感情を扱えるようになっていく。
境界線を持ちながら人と関われるようになる。
それは、感受性とともに成熟していく道です。
でも一方で、「もう何も感じないようにしよう」と、
“感受性そのものを切り離してしまう”人もいる。
「気にしない力」が強くなるというより、
“感じないように自分を麻痺させていく”ような、そんな開き直り。
自分を守るために、感覚を閉ざす。
確かにその方が、楽にはなれるかもしれません。
でもそれって、感受性という才能を放棄することでもあると思うんです。
そして今は、こう考えています。
どんな状況でも、
どんな相手でも、
そのときの感情に飲み込まれずに、自分で自分の反応を選べること。
それが、成熟ということなのではないでしょうか。
感じることは才能だ。ただし、扱い方がすべて
私は、感受性が強すぎて引きずられてしまうことが多く、
ある子供の頃の時期からは、だんだん“感じない”という選択をするようになっていました。
人の感情を見ないようにする。
自分の感情も、閉じ込めて表に出さない。
それくらいしないと、しんどすぎたんです。
口元にはいつもアルカイックスマイルを貼り付けて、やり過ごしていました。
本来、感受性は才能。
でも、扱い方がわからなければ、自分を追い詰めるリスクにもなる。
私はきっと、自分のその感覚にずっと振り回されてきたんだと思います。
いまは、そんな悩みはありません。
知覚の構造を理解し、
境界線を持って関わるという選択肢を、ようやく手にできるようになりました。
「相手の感情は、相手のもの」
それは否定すべきものではなく、
私が引き受ける必要もない。
共感とは、“同感”ではない。
その話は、以前別の記事に書いたので、必要な方はそちらも読んでみてください。
結び──感受性を持って、成熟する
感受性があること自体は、才能だと思います。
でもそのせいでいつも振り回されて、人に気を使いすぎて、
自分を見失ってばかりいるのだとしたら、
それはもう、大人としての課題です。
感じない選択をして、すべてをシャットアウトするのも極端だし、
逆に、感じすぎて引きずられてしまうのも危うい。
結局のところ、どちらも自分を扱えていない状態なんだと思います。
私たちは、大人として、
自分の感情を自覚し、選び、整える力を育てていく必要があります。
結局、“どんなステートで反応しているか”が、自分の行動を決めている。
だからこそ、感受性を守るためには、自分のステートを扱えるようになることが鍵になるんです。
他人に優しくあるために。
社会の中で持続的に働いていくために。
そして、自分の人生を引き受けるために。
感受性を才能として活かすには、
「自分の反応を選べること」が不可欠です。
それは、マナーや技術というだけでなく、
人としての成熟でもあると私は思っています。
こうした感情の扱い方に関心のある方には、
NLP(神経言語プログラミング)をベースにした
セルフコントロールと自己理解の技術をお伝えする体験セミナーも開催しています。
著者プロフィール:
Effica株式会社 代表取締役
全米NLP協会認定トレーナー
柳下早紀
◾️ Effica公式サイト
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