寅さんには憧れるけれど、隣の重いお裾分けはちょっと怖い。私たちが人情から距離を置くようになった理由
こんにちは!えひめITラボ代表のせいけです。
実は私、昭和の人情味が溢れる映画が大好きです。特に「男はつらいよ」の寅さんシリーズなんかを観ていると、あのみんなでワイワイ言いながらお互いの人生に土足で踏み込んでいくような、温かくておせっかいな世界にすごく憧れてしまいます。
でも、ふと現実の自分を振り返ると、隣の部屋の人から「これ作ったから食べて」とタッパーを渡されたら、嬉しいどころか「え、ちょっと怖いな。何か入ってないよね?」「お返しどうしよう」と困惑してしまうと思います。
憧れるけれど、いざ自分が当事者になると「ほっといてほしい」と思ってしまう。なぜ私たちは、これほどまでにプライバシーや個の自由を好むようになったのでしょうか。ちょっと考えてみました。
(今日の一言: もし上京したら葛飾柴又に住んでみたい!)
昔と今の「隣人」の決定的な違い
昔、特に昭和の下町などでは、お裾分けは日常茶飯事でした。隣の人がくれた煮物やカレーを、みんな喜んで食卓に並べていたのです。
ところが現代では、見知らぬ人、あるいは少し顔見知りな程度の人から食べ物をもらうと、感謝よりも警戒心が先立ちます。
この変化の大きな理由は、社会の安全基準や衛生観念、そしてリスク管理の意識が高まったことにあります。昔は「お互いの身元や性格がなんとなくわかっている狭いコミュニティ」だったからこそ成り立っていた関係が、都市化が進んで「誰が住んでいるかわからない社会」になったことで、善意をそのまま受け取るのが難しくなってしまったのです。
さらに、現代にはアレルギーの問題や食の好みの多様化もあります。昔のように「もらったものは何でも美味しく食べる」という時代から、個人の選択肢を尊重する時代に変わったことも、お裾分けを「ちょっと重いもの」にしてしまった一因かもしれません。
なぜ私たちは「情」より「自由」を選んだのか
なぜ、私たちは面倒な人情の世界を避け、プライバシーや個の自由を優先するようになったのでしょうか。人間がもともと持っている性質から考えてみると、いくつかの理由が見えてきます。
まず、昔の人情や助け合いは、単なる善意だけでなく「生き残るためのシステム」だったという側面があります。
インフラや福祉、コンビニなどが整っていなかった時代は、一人で生きていくのが困難でした。病気になったとき、災害が起きたとき、お金がないとき、頼れるのは近くにいる隣人だけです。だからこそ、普段からお裾分けをし合い、多少プライバシーに踏み込まれても「お互い様」として受け入れていました。人情は、生きていくための保険だったのです。
しかし、現代はテクノロジーや社会インフラ、サービスが劇的に発達しました。お金を払えば、誰の情も借りずに一人で安全に、快適に生活できます。スマートフォン一つで食事も届き、困ったときは専門のサービスが助けてくれます。
わざわざ他人にプライバシーを明かして、面倒な人間関係の維持にコスト(時間や気遣い)を払わなくても生きていけるようになったのです。
人間はもともと「縛られたくない」生き物なのかもしれない
そうなると、一つの疑問が湧いてきます。
人間は本来、他人の情に囲まれているよりも、ある程度ほったらかしにされていて、個人の自由が確保されている方が居心地が良いと感じる生き物なのではないか、ということ。
私は、その側面はかなり大きいのではないかと感じています。
人情というのは確かに温かいですが、裏を返せば「同調圧力」や「過干渉」と表裏一体です。
・みんなと同じように行動しなければならない
・プライベートなことを根掘り葉掘り聞かれる
・何かをもらったら必ずお返しをしなければならないという義務感
こうした人間関係の縛りは、私たちが思っている以上に強いストレスになります。生存の危機が去り、一人でも安全に生きていけるようになった今、人間が「わざわざストレスが溜まる濃い付き合いを避けて、自由で気楽な距離感を選ぶ」ようになるのは、自然な流れなのかもしれません。
居心地の良さを追求した結果、私たちは「緩やかで、選択可能な人間関係」にたどり着いたのだと思います。
これからの「情」はどうなっていくのだろう
ここまで書いておいてなんですが、じゃあ「これで本当に万事解決、めでたしめでたし」なのかというと、どうも私の心の中にモヤモヤしたものが残ります。
完全にプライバシーが守られて、誰にも干渉されない自由な世界。それは確かに気楽ですが、どこか無機質で、寂しい感じも否めません。近年問題になるメンタルヘルスや孤独といった問題もそういった部分が大きく影響しているのではないかと勝手に思っています。
だからこそ私たちは、今でも寅さんのような映画を観て、満たされない何かを埋めようとしているのではないでしょうか。
それに、世の中から完全に人情が消え去ったわけでもありません。ここ愛媛でも、少し郊外や島の方に行けば、今でもご近所同士が当たり前のように野菜を分け合い、お互いを気にかけ合って生きているコミュニティが普通に存在しています。そこには確かに、都会のマンションでは得られない温かさや安心感があります。
もしかしたら、これからの時代、テクノロジーの進化に合わせて「情」の形自体が新しく変わっていくのかもしれません。SNSで同じ趣味の人とだけ緩く繋がって、困ったときだけ助け合うようなデジタル上の「新しいお裾分け」のような仕組みが、もっと進化していく可能性もあります。
人間にとって、本当に心地いい距離感とはどこにあるのでしょうか。
自由に生きたいけれど、一人ぼっちは寂しい。人情は重苦しいけれど、誰の体温も感じられないのは不安。
この矛盾を抱えたまま、私たちはこれからどんな人間関係を作っていくのか。デジタルがどれだけ発達しても、この「ちょうどいい塩梅」がどこにあるのかは、私にもまだ答えが分かりません。皆さんはどう思われるでしょうか。
