ハッピーライティングマラソン#6 山田詠美『風葬の教室』がいじめの記憶から私を救ってくれた
本田健さんのハッピーライティングマラソン#6 に参加させていただきます。
お題は「あなたが、高校生から22歳ごろに読んだ本で、よかった本は何ですか?」です。
これから書く内容は決してハッピーとは言えません。けれど今の自分の土台である「ハッピーに向かう考え方」、そこに導いてくれたひとつがこの本。
ずっと書くかどうか迷っていた内容でしたが、このような素敵な企画、ハッとするお題を見て、心が動きました。
ただ、いじめについての描写があり、辛い気持ちになる方がいるかもしれないので、ご注意ください。
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(ここから文体変わります)
奇跡ではなく必然の出会い
本を読んでいると「あ、そうか」と突然わかる時がある。
何年間もモヤモヤ、ザワザワしていたことが急に解決されるのだ。
それは「パスをもらったら、いつでもシュートを打てる状態の自分でいること」という、ある種のスポーツの心構えに似ているかもしれない。
受け取る準備をしてきた自分と、そういう本との出会い。
だから奇跡ではなく、必然。
私にとって山田詠美『風葬の教室』との出会いは、そういうものだったと思う(今手元にあるのは、河出書房新社/税別980円)。
今から30年以上前の夏、高校2年生だった私は放課後の書店でこれを見つけ、一気に読了した後、しばし呆然とした。
――なんだ、こんなことだったのか。
わかった時は、何気ないクイズの正解を教えてもらった程度の「納得」だった。けれどその後、ジワジワと、体中の血管に栄養が行き渡ったかのように力が湧いてきて、あぁもう大丈夫なんだ私、と視界が大きく開けた気がした。
山田詠美『風葬の教室』とは――。
――いやその前に、過去に何があったのかを話してみよう。
小学3年生で受けたいじめ
私は小学3年生の時、いじめを受けていた時期がある。どのくらいの期間だったんだろう。半年くらいかな。
学校ではなく、放課後の仲良し4人組の間で、突然それは始まった。
最初は仲良しだったのに、なんなんだろうね、と今なら思うけど。
Nちゃんというリーダー格の女の子が、ある時私の言動をからかい始めて、ほかの2人もそれに乗っかるようになったのだ。
はっきりとした理由はわからない。たぶん「おとなしくて、ちょっと視点が独特」だった私は、ある種の子にとって暇つぶしの対象になり得たのかもしれない(これは断言できるけど、私はその子たちに何もしていない)。
子どもは簡単に逃げられない
「からかい」から始まったそれは、今ふりかえっても陰湿なものにどんどん進行していった。詳しいことは書かないけれど。
放課後の出来事なのだから、私が「もう遊ばない」「誰の家にも行かないし、うちにも来ないで」と主張すればよかったのに、できなくて、ズルズルと放課後、毎日4人のうちの誰かの家に集まって、それは行われ続けた。
不思議な気もするけど、いくら「いじめられている子は逃げて」と言われても、簡単にはできない。まだ小学3年生だったし――そんなものかもしれない。
私の場合は、母が私の異変に気付いてくれた。
友達と遊んだ後なのに、表情が暗い。
「なにかあったの?」と聞かれて初めて、涙と感情が一気に溢れすべてを話すことができた。

素早かった母の行動に救われる
ふだんはおっとり、のんびりしている母は、あっという間に行動した。
3人の家に電話して、それぞれの親に話したのだ。
固定電話の前で母が受話器を握りしめている様子を、なんとなく覚えている。
それぞれの親、は寝耳に水だったろう。我が子に「本当なの?」と問うと、それぞれの子どもは「…はい」としか言えなかったはずだ。
そのくらい、私が受けていたそれは「ちょっとからかいが過ぎた」とか「相手の受け取り方がそうだった」と言い訳できないほど、確信的に、集団で、一人の対象者を痛めつけるものだったから。彼女たちにもその自覚はあったろう。
土下座するほうもされる方も辛い
だから話は早かった。それぞれの親はおそらく「一般的な感覚」の人だったから、我が子を叱った。後で聞いた話だが、1人は「あんたなんてうちの子じゃない」「出て行きなさい」とまで言われたらしい。
そうして彼女たちは、翌日の放課後3人で私の家にやってきて、「ごめんなさい、許してください」と玄関先で土下座した。
――土下座したのだ。小学3年生が。
びっくりした。今もその光景が目に浮かぶ。
私は「もういい…」とかなんとか、言ったのだろう。あまり覚えてないけれど。
表面的な平穏は訪れた、でも…
それでこのことはすっかり終わり、もう放課後にそのメンバーで集まることはなくなった。私はそもそも学校では問題なく過ごせていたので、一気に平穏が訪れた。
小・中学校、高校時代の思い出を掘り返しても、いちばんハードな記憶がこれだ。
母親とは、以来この話を一度もしたことがない。けれど娘の話を全面的に信じ、すぐに動いてくれたことに、死ぬまで感謝する。
今、自分自身が親となり、小学生の子どもを育てながら思うのは、「いじめた側の親も悲しかったろうな」ということだ。もしも我が子だったらーーそれはそれで、すんごく辛いと思う。
――と、いうのが私の小学3年生の出来事だ。
消えない記憶…なぜあんな目に遭ったんだろう
現実的な問題はスピード解決された、と思う。
が、このことが本当の意味で頭を離れることはなかった。中学生になっても、高校生になっても時折頭をよぎり、黒いモヤモヤが心を支配することが多々あった。
それは、「どうして私はあんな目に遭ったんだろう」という疑問だ。
「そんなことを考えてもしょうがない」と言う人もいるだろう。
でも知りたかった。純粋に。
自分の身に起こったことの、本質的な原因が知りたい。
それがわからない限り、「辛い体験」からの本当の解放は、ない。
――それで、「あの日の山田詠美」に話は行きつく。
放課後の書店で出会った『風葬の教室』
高校生になってから、『放課後の音符』や『蝶々の纏足』を読んで、「山田詠美すごい!」「求めていた〝極まっている感〟はこれだ!」と心酔していた私は、ある日の放課後、習慣的に立ち寄った書店で見つけたのだ。
『風葬の教室』を。
風葬ってなんだろう?
気になるタイトルだったから、買って家で読んでみた。
『風葬の教室』は、小学5年生の主人公・本宮 杏が、転校したての学校で壮絶ないじめに遭う物語だ。身勝手な理由でクラスのリ-ダ-格の女子から嫌われ、いじめがクラス全体にまで広がっていく。
転校慣れしている杏は、「自分と他者」を分けて考えるクセがついている。そもそも大半のクラスメイトに比べて、ずっと「大人」だ。
服装も言葉づかいも都会的な、美少女。子どもたちに人気の教師も杏にはつい目を奪われる。
そんな理由でいじめの対象になるなんて、信じられないくらい理不尽だ。けれど舞台は「子どもの社会」。この愚かしさを作者は、恐ろしいほど丁寧に、積み重ねながら綴っていく。
やがて、自ら命を絶つことを考えるまでに追い込まれる杏・・・。
ところが。
杏の気づき、そして「復讐」の形は
杏はあるキッカケから自殺をとどまる。
そして得た新しい気づき・・・いやそれは杏が見つけた「真実」だったかもしれない。
心の変化によって杏は、ある方法でいじめる側の子どもたちに対して「復讐」を果たしていくのだ。
(前略)私は、昨夜の姉の言葉を反芻しながら、先生の言ったことと重ね合わせていました。全然平気だったわ。いじめっ子をひとりひとり殺していったもの。
私の頭は、がんがんと鳴り続けていました。心の中に立ち込めていた霧が急速に晴れてゆくのを感じます。何故、こんなことに気づかなかったのでしょう。昨夜の私は、余程、動転していたと見えます。何も自分が死ぬことはないではありませんか。もう一度。姉の言葉が甦ります。まさか、本当に殺しゃしないわよ。自分の心ん中で殺していったのよ。
そう、杏は気づいたのだ。
彼らのいじめが、心底、くだらないということに。
私は、今、自分の中に新たな感情が生まれたのに気付いています。それは、責任という言葉に続いて、私の心の根底に常備されることでしょう。私の生み出した人の殺し方は、軽蔑という二文字だったのです。
軽蔑という二文字。
相手にしない、ということ。
杏が受けたいじめは、俯瞰で見ると、あきれるほど幼稚な世界で起きた、「自分たちを人間だと思っている愚かなものたち」による行為だった。
私の家は社宅ですから、とても古い。ある男の子は鬼の首でも取ったように、皆の前でいいました。
「本宮のうちってぼろ家だぞお」
誰もが一斉に、きっかけを見出したかのように、はしゃぎ始めます。
(中略)でも、私は傷つきません。私は微笑むことすら出来ます。だって、私の家には、シュークリームを焼く匂いが漂っているのですもの。不良の姉が、堂々と男の子と寝た話をするくらいに素敵なのですもの。
「そういうことを言う、あなたの心の方が、余程、ぼろよ」
私は言ってあげます。言い出した男の子は、顔を真っ赤にしてうなだれるのです。(後略)
ーーこの「復讐」に、高校2年生だった私は心底感動した。
杏、カッコイイ!
山田詠美、すごい!!
醜悪な言動の隣に「たまたまいた自分」
そしてストンと腑に落ちた。
同時に2つのことが。
ひとつは、自分が小学3年生の時に見舞われた出来事の正体。
あれは、私がたまたま「隣にいた」だけだったのだ。
出来事の中心――本体は「私」だと思っていた。それでずっと苦しんでいた。
私になんらかの要因があり、私がいじめられた、そういう出来事だと思っていたけれど、実は「本体は彼ら」だったんじゃないのか?
いじめなんてことをする醜悪な事態に転がり落ちてしまった彼らの隣に、私がたまたまいただけ。そう思えば納得できる。だって、いじめなんてしなければいいだけだもん。
もちろんあれが彼女たちのすべてだったとは思わない。
子どもだったし、何かに落ちたんだとは思う。
――けれど、やはり落ちてはいけないんだ。
もうひとつわかったのは、私が8年間ずっと抱いていた感情についてだ。
それは軽蔑だった。杏と同じ。
あの日の「薄ら笑い」を過去にする
私は8年間、私をいじめていた子たちの「薄ら笑い」を忘れたことはなかった。彼女たち本人というより、その笑いを軽蔑していた。
思い出すたびに感じていたーーいったい何が楽しいの?
けれど杏が代わりに、薄ら笑いの残像を私の中で消してくれた。
笑いーー笑顔っていうのは、自分が本当に心躍るものを見つけた時にとっておくものだ。それが自分の人生を生きるってこと。
この小説が終わった後の杏もきっとそんな風に生きたはず。
あの夏、『風葬の教室』を読んだことで、私の心の傷は思いがけず癒され、空に消え去った。

大人への入口で出会った本だからこそ
この本は今現在、いじめで苦しんでいる子に手渡せるような本ではない。かなり大人向けの内容だし、山田詠美の1冊目としてもかなりクセの強い内容だ(いや山田作品はどれもクセ強なんだけども)。
私にとっては辛い体験から8年後に出会った本。
大人への入口に立った時期だからこそ、その後の生き方に明確な影響を与えた。決して子ども向けじゃない、人間の醜さにとことん踏み込んだ内容だからこそ、逆に癒やされた。
私は心の中の「杏ちゃん」と一緒に人生の方向性を決めた。
あちら側の人間にはならない。
誰かを確信的に痛めつけ、薄ら笑いを浮かべる側には立たない。その橋は渡らない。
弱い人間だからうっかり渡りそうになったとしても、杏ちゃんときっと戻ってきます。
いじめられた魂を救う…37年前の傑作小説
『風葬の教室』は1988(昭和63)年に書かれた。
山田詠美が天才なのは言うまでもない。
彼女の書く恋愛や性愛は文字を伝って息づかいまで聞こえてきそうだし、そうかと思えば人間の根源的な醜悪さや美しさ、思春期の瑞々しさや不完全さを唯一無二の切り口で描く。類いまれなる文章力で、掲げた主題を最後の一文までかけて書き切る作家だと思う。
それだけでも凄いのに、37年前にいじめに関してもこんな名作を書いている。驚嘆すべきことだ。
いじめはなくならない。
本当に残念だけど、そんなことが楽しいのかよ、と悲しくなるような薄ら笑いが、出来事が、日々繰り返されている。
誰もが杏のように強くなれるわけじゃない。
でもまちがいなく言える。
問題の根源はあちらです。
この作品をもっともっとたくさんの人に知ってほしいと願う。
心のありようによって世界は変わると、17歳の私に教えてくれた、大切な、大切な1冊だ。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
素晴らしい読書体験がたくさんの方に訪れますように!
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